平岡 秀夫 ひらおか ひでお | |
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2010年11月1日、ACC CMフェスティバルにて総務副大臣として式辞を述べる平岡 | |
生年月日 | 1954年1月14日(71歳) |
出生地 | 日本 山口県岩国市 |
出身校 | 東京大学法学部第1類[1] |
前職 | 国家公務員(大蔵省) |
現職 | 弁護士 |
所属政党 |
(民主党→) (民進党→) (旧国民民主党→) (旧立憲民主党→) 立憲民主党 |
称号 |
法学士(東京大学、1976年) 弁護士 |
公式サイト | 平岡 秀夫 公式ウェブサイト |
第87代 法務大臣 | |
内閣 | 野田内閣 |
在任期間 | 2011年9月2日 - 2012年1月13日 |
選挙区 |
(山口2区→) (比例中国ブロック→) (山口2区→) 比例中国ブロック |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
2000年 - 2008年4月15日 2008年 - 2012年11月16日 2024年11月1日 - 現職 |
平岡 秀夫(ひらおか ひでお、1954年1月14日 - )は、日本の政治家、大蔵官僚、弁護士。衆議院議員(6期)。立憲民主党山口県総支部連合会顧問[2]。
法務大臣(第87代)、総務副大臣(菅直人第1次改造内閣・菅直人第2次改造内閣)、内閣府副大臣(菅直人内閣)、内閣法制局参事官、民主党総務委員長を歴任した。
山口県岩国市生まれ。山口県立岩国高等学校、東京大学法学部第1類(私法コース)卒業[1]。東大在学中の1975年10月、司法試験に合格した。東大卒業後、大蔵省に入省(理財局に配属[3])。主計局調査課調査第二係長心得[4]、酒田税務署長、東海財務局理財部長、東京国税局課税第二部長、在インド日本大使館一等書記官、内閣法制局参事官等を経て1998年に退官。
退官後は山口県(後に広島県)で弁護士登録[注釈 1]し、岩国市で平岡秀夫法律事務所を開設した。1999年4月、岩国市長選挙に無所属で立候補したが、岩国高校の同窓生である井原勝介に敗れた。2000年、第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で山口2区から立候補し、一部の保守系地方議員の支援も受けて自由民主党の佐藤信二元通産相らを破り初当選した。
2003年の第43回衆議院議員総選挙でも佐藤らを破り再選。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、山口2区で自民党新人の福田良彦に惜敗し、重複立候補していた比例中国ブロックで復活し、3選。
2008年、福田が岩国市長選挙に立候補するため衆議院議員を辞職したことに伴う補欠選挙への立候補を表明。平岡は補選立候補とともに公職選挙法の規定で衆議院議員を退職(自動失職)となった。平岡の退職に伴い、民主党比例中国ブロックの欠員補充として和田隆志が繰上当選となった。補選では自民党新人の山本繁太郎を下し、2年半ぶりに山口2区の議席を奪還した。比例復活した衆議院議員が議員辞職し、衆議院補選に立候補をした事例は平岡以前には過去に2件[注釈 2]あるが、いずれも落選しており、当選した例は平岡が初[注釈 3]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では再度山口2区で山本を破り4選。
2010年6月、菅直人内閣で内閣府副大臣(経済財政、科学技術、行政刷新)及び国家戦略室長に就任。同年9月、菅直人第1次改造内閣で総務副大臣(情報通信、放送、郵政担当[5])に任命され、菅直人第2次改造内閣でも再任された。2011年8月19日、民主党代表選への立候補に意欲を見せ[6]25日に行われた立候補予定者への事前説明会に出席した[7]が、翌26日に立候補を断念した[8]。
2011年、野田内閣で法務大臣に任命され、初入閣した。しかし就任後間もなく、2012年1月の野田改造内閣発足によりわずか4ヶ月で法務大臣を退任した。後任の法相は同じ菅グループ所属の小川敏夫。同年1月24日、民主党総務委員長に就任。同年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では参議院議員から鞍替えした自民党新人の岸信夫に敗れ、比例復活もならず議席を失った[9]。
2013年4月28日の参議院山口県選挙区補欠選挙に立候補。民主党の公認は受けず、無所属で立候補した[10]。民主党のほか、「『穏健保守から中道・リベラルまで』の政治勢力の集合」の呼びかけに応じたみどりの風が推薦し、社民党も支持を表明[11]。また、前回の衆院選に山口1区から立候補した飯田哲也らが政策アドバイザーを務める日本未来の党の推薦を取り付けた[12]。その一方で民主党県連の主要な支持母体である連合山口は推薦ではなく「支持」に留まった[13]。選挙の結果、129,784票(得票率28.6%)にとどまり、6割以上の得票を集めた自民党新人の江島潔に敗れ落選した[14][15]。
2014年12月14日の第47回衆議院議員総選挙では再び岸信夫に山口2区で敗れ、落選[9]。2015年5月30日、民主党山口県連定期大会をもって県連代表を退く。これをもって、政治家としての活動を一区切りし、以後は東京を中心に弁護士活動をしていくことを表明した[16]。
引退後も民進党山口県連顧問を務め、国民民主党でも同職に就いていた[17]が、2018年12月に立憲民主党山口県連の設立に参加し、同党の県連顧問となった[18]。
2023年2月7日、岸信夫が体調不良を理由に辞職。市民団体「市民連合@やまぐち」は、岸の辞職に伴う山口2区の補選、安倍晋三の死去に伴う山口4区の補欠選挙(ともに4月23日執行予定)での野党統一候補の擁立を目指していたが、同年3月16日、山口市内で開かれた会合で候補擁立を断念したと発表した[19]。3月18日、平岡が山口2区に、党籍持ちの上で無所属で立候補する意向が明らかとなった[注釈 4][21][22]。3月22日、日本共産党中央委員会組織局員の石村智子が県庁で記者会見し、補選への出馬の意向を表明した[23]。「市民連合@やまぐち」が共闘実現のため共産党と立憲民主党の両陣営に働きかけ、3月26日、共産党が石村擁立を見送り、平岡を支援する見通しになったことが明らかとなった[24]。投開票の結果、岸信夫の長男の岸信千世に敗れ落選した[25]。
2024年5月には新たな区割りでの山口2区における党公認候補予定者となり[26]、同年10月27日の第50回衆議院議員総選挙の投開票の結果、岸に敗れたものの惜敗率98.36%で比例中国ブロックから復活当選した[27][28][29]。
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 |
政党内比例順位 /政党当選者数 |
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落 | 1999年旧岩国市長選挙 | 1999年4月25日 | 45 | ーー | 無所属 | 1万9852票 | 32.36% | 1 | 2/3 | / |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 6月25日 | 46 | 山口県第2区 | 民主党 | 10万4372票 | 47.49% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 9日 | 49 | 山口県第2区 | 民主党 | 10万9647票 | 51.61% | 1 | 1/3 | / |
比当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年 9月11日 | 51 | 山口県第2区 | 民主党 | 10万3734票 | 46.82% | 1 | 2/3 | 1/3 |
当 | 第44回衆議院議員補欠選挙 | 2008年4月27日 | 54 | 山口県第2区 | 民主党 | 11万6348票 | 55.21% | 1 | 1/2 | / |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年 8月30日 | 55 | 山口県第2区 | 民主党 | 11万7571票 | 51.65% | 1 | 1/3 | / |
落 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 58 | 山口県第2区 | 民主党 | 5万3493票 | 28.01% | 1 | 2/4 | 8/2 |
落 | 第22回参議院議員補欠選挙 | 2013年4月28日 | 59 | 山口県選挙区 | 無所属 | 12万9784票 | 28.62% | 1 | 2/4 | / |
落 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 60 | 山口県第2区 | 民主党 | 5万7814票 | 34.88% | 1 | 2/3 | 6/2 |
落 | 第49回衆議院議員補欠選挙 | 2023年4月23日 | 69 | 山口県第2区 | 無所属 | 5万5601票 | 47.53% | 1 | 2/2 | / |
比当 | 第50回衆議院議員総選挙 | 2024年10月27日 | 70 | 山口県第2区 | 立憲民主党 | 10万3161票 | 49.59% | 1 | 2/2 | 1/3 |
公職 | ||
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先代 江田五月 |
法務大臣 第87代:2011年-2012年 |
次代 小川敏夫 |
先代 渡辺周 内藤正光 |
総務副大臣 鈴木克昌と共同 2010年 - 2011年 |
次代 黄川田徹 松崎公昭 |
先代 大島敦 大塚耕平 古川元久 |
内閣府副大臣 大島敦 大塚耕平と共同 2010年 |
次代 東祥三 末松義規 平野達男 |
議会 | ||
先代 鉢呂吉雄 |
衆議院法務委員長 2012年 |
次代 石田真敏 |