平常無敵流(へいじょうむてきりゅう)は、日本の江戸時代前期に山内一真が開いた剣術流派。
流名にある無敵とは「最強」という意味ではなく、天下に自分を害する者がいない(平常から敵が無い)状態を理想としたことによる。
つまり、平常無敵流の「平常」とは平和を将来するために剣を用いる趣旨であり、「無敵」とは絶対の我を認得すれば、相対的な敵は存在しないという見地を示すものとされる。したがって、試合などで無益な殺生をすることは厳重に戒められた。また、平常無敵流は、一切の形を教習せず、「心法」の会得によって万事に対応することを極意としてめざしたとする。
山内一真(号、蓮真)は備前岡山の生まれで、新陰流ほか諸流を学んだ後、多賀伯庵より富田流を学んだ。その後、京に出て、槍の名人といわれた木下利当(淡路守)[注釈 1]の元に寄寓し、熊沢蕃山より儒学を学んだ。この間、山内は京都所司代の板倉重矩の知遇を得て[注釈 2]武名をうたわれるようになった。その後、江戸に出て僧・白厳の下で禅を修行して心法を練った。
山内一真は、剣術は富田流など8流を学んだが、いずれの流派にも満足できなかった。ある時、悟るところがあり、それまでに修めた流派を捨て、新たに流派を開き「平常無敵剣道」と称した。
しかし、平常無敵流は一切の形を教習せず「心法」の会得によって万事に対応することを極意として目指したため、開祖の山内一真も教え方に困り、富田流の形を6本のみ教えることにしたという。
山内一真は晩年、相模小田原で剃髪し、妙福寺の第28世住職となった。
流儀は関野信歳(清太夫)が的伝正統を伝え、関野より池田成祥(八左衛門)が道統を継いだ。
第2代の関野信歳は、山内一真の教えた内容をそのまま墨守したが、第3代の池田成祥は、富田流の形6本を教えている状態は流派本来の内容ではないとして、富田流の形を全て除いた。
さらに池田は「谷神伝」(こくしんでん)という極意を編み出した。これは『老子』第6章の「谷神不死 是謂玄牝 玄牝之門 是謂天地之根 緜緜若存 用之不動」(谷神死せず、これを玄牝という。玄牝の門、これを天地の根という。緜緜として存する如く、之を用いて動ぜず)から編み出したものという。このほか、「比至岐」(ひしぎ)、「左至」(さし)、「能利」(のり)という3事の別伝も加えた。
江戸時代後期に至り、高崎藩士・寺田宗有が池田成春より当流を学び、「谷神伝」を授けられ皆伝を得た。しかし、一刀流以外の流派の剣術師範を認めない藩からの命令により、以前に修行していた中西派一刀流の再修行をすることになった[注釈 3]。
江戸時代には三河吉田藩などで伝えられた。