ひらまつ あきこ 平松 晶子 | |
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プロフィール | |
本名 | 平松 晶子[1] |
愛称 | ぴら[2]、ピラりん[2]、晶子ちゃん[3] |
性別 | 女性 |
出身地 | 日本・東京都[4] |
生年月日 | 1967年8月31日(57歳) |
血液型 | O型[4] |
職業 | 声優、舞台女優 |
事務所 | 賢プロダクション[5] |
公式サイト | 平松晶子 [Kenproduction] 声優事務所・タレント事務所・声優プロダクション |
公称サイズ(時期不明)[4] | |
身長 / 体重 | 156 cm / 48 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1986年 - |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え |
デビュー作 | 『ドラえもん』[6] |
女優活動 | |
ジャンル | 舞台 |
平松 晶子(ひらまつ あきこ、1967年8月31日[4][7][8] - )は、日本の声優、舞台女優[9]。賢プロダクション所属[5]。東京都出身[4]。スクールデュオ講師で基礎クラス1年目より演技実習を担当[10]。アミューズメントメディア総合学院講師で感情表現を担当[11]。
小さい頃から外で遊ぶのが好きだった[3]。周囲に住んでいた友人が男子ばかりで、必然的に男子が遊ぶようなメンコや鬼ごっこなど活発なことをして遊んでいた[3]。
中学、高校時代はテニス部、陸上部などの運動部に所属し、学生時代からスポーツばかりやっていたが、漫画『気分はグルービー』に影響され、高校に入ってからはバンドを組むことを考えていたが、メンバーが揃わないために断念[12][13]。「ちょっと学園生活がつまらないな」と思っていたが[3]、その内に興味がアニメの方に傾き、『銀河鉄道999』や『魔法の天使クリィミーマミ』や映画館で『幻魔大戦』や『風の谷のナウシカ』などを見ていて、声優という職業を知った[12][13]。それまでは声優を職業で捉えたことはなかったが、その時に「なにか面白いかも」と感じていたという[13]。凄く気になり、「どうしたら声優になれるのかな」と思い、アニメ雑誌などを買ってきて色々調べていた[13]。ただし当初は演技、芝居といったものには興味がなく、ほとんどスポ根のノリだったことから、水泳でタイムを出す・陸上で早く走るといったことのほうが興味があった[13]。アニメも好きだったが、入れ込むほどではなかったという[13]。
就職や進学にあたるのが「声優になること」だと思い、両親に「声優になりたいので、声優になるための養成所に通いたい」と伝えた時は、両親はあまりの突然さに驚き、「何を考えているの」と言われた[13]。結局両親も「そんなにやりたいなら月謝は払ってあげるから、入学金は自分で出しなさい。それでもやりたいなら養成所に通ってもいい」という形になった[13]。養成所のオーディションは、払えるお手頃価格のところを探してオーディションを受けに行き、その養成所に合格[13]。当時、養成所に通いだした高校生は平松だけだったという[13]。
後述の通り、大学に行くなら何か専門的なことを学びたかったため、「自分の中に専門的な何かが身に付けられれば将来困らないだろう」と思っていたという[13]。
声優はその感覚と同じ感覚で、「手に職」という形で選んだのかもしれず、職業として選択した気持ちが強かった気がしていた[13]。両親は芸能界のはしくれなため、「娘に何かあったら困る」と考えていたようで、養成所の合格通知の確認を取ったり、養成所に電話したりしていたが、養成所の人たちはそれに困っていたかもしれないという[13][14]。
進路決定する時、家も色々と忙しい状態だったからそのどさくさに紛れて、という感じはあった[14]。高校での三者面談でも両親が来れない時などは、高校の教師が「どうするの?」という問いにも「演劇の道に行きたいので演劇科のある大学なら行ってもいいです」と答えていた[14]。高校の教師からも反対され、願書だけはもらってきたが、結局出さなかったという[14]。
高校2年生の時に声優養成所に通う[12][14]。当時は制服を着た高校生が学んでいることが珍しかったため、『Dr.スランプ アラレちゃん』の現場に見学に連れて行ってもらった時などは、「スタジオになぜ制服を着た子供がいるのか」と不思議な顔をされたこともあり、高校には内緒だったという[14]。
通っていた養成所は、最初の1年間は週1回日曜日だけで、その後週3回夕方からという授業形態になり、高校は普通の高校だったことから色々と言い訳を考えて早退したりしていた[14]。卒業公演時期などは母が入院していたこともあり、母の入院を利用させてくれたという[14]。
養成所でレッスンを始めた時はすごく新鮮で、かなりのめりこんでしまった[14]。嫌な言い方をされて怒ったり、凹んだりもあったが、自分で頑張った結果、先生に認められたりと、嫌なこと以上に楽しいことがたくさんあった[14]。単純に楽しいだけでなく、充実も感じており、声優の業界に憧れが強くない分、過度な期待をせずにシンプルに楽しんでいたという[14]。
養成所時代は通っていた養成所は、演技の養成所のようだったことから演技のレッスンが一番印象に残っていた[6]。卒業公演で舞台をしていたが、舞台演劇に目覚めたのはそれがきっかけだった[6]。養成所では、年齢の違う人たちが多かったようであったが、学校の先輩ぐらいなものであったことから、部活の先輩と友人という感覚はなかった[6]。運動部に所属していたことから、例え1つしか歳が違わなくても年功序列の縦社会が当たり前な環境であったが、当初は「年上って怖い」と思っていたところがあったという[6]。
養成所に通っていた人物たちは、就職していて働きながら通っている人物たちがほとんどであったが、普通に接してくれているように感じていた[6]。仲の良かった人物たちは皆10歳ぐらい年が上であったが、すごくかわいがってくれたという[6]。なにか失敗をしたとしても、当時は高校生だったため大目に見てくれて、一番年下だったことでずいぶんと得をしていたのだと語る[6]。
周囲がライバルという意識も希薄であったことから、楽しんで勉強しており、仲間同士・人間同士として養成所の人たちと付き合いするのが楽しかった[6]。それと比べて「なんて高校はつまらないんだろう」、「学校って何するところなんだろう」と学校の在り方を考えていたりしており「こんなところでこんなことをしている場合じゃない!!私はもっと演技の勉強がしたい」と思っていた[6]。「大学進学はしない。」とはっきり自分の進路選択をしてしまったため、余計に学校での授業が無駄に感じていたのだと語り、「養成所の仲間といるほうが楽しい」と感じるようになったという[6]。
養成所内での激しい競争については、歳が離れていたせいもありあまり感じておらず、上手な人ほど認めてくれたように思っていた[6]。当時のニックネームは「ブルマちゃん」であったが、「ブルマちゃんなら、絶対なれるからへこたれないで頑張りな!」と本気で応援してくれたり励ましたりしてくれたという[6]。
東京アニメーション養成所[15]卒業後は卒業公演も済み「どうしようか」と考えていた頃に養成所の講師から紹介してもらった賢プロダクションに預かりとして所属し、高校卒業後は同プロダクションに正式に所属[6]。その時は先生からみて「声質がアニメに向いている」と判断されて、同プロダクションを紹介してくれたのかもしれないという[6]。2008年時点で趣味でダイビングを始めるようになり普通の人物と話すようになったところ、その人物たちに「声の出方が違いますね」と指摘されたことはあったという[6]。
テレビアニメ『ドラえもん』でデビュー[6]。当時は過度な緊張により上手く演じることが出なかったという[9]。
舞台女優としても活動している[9]。当初は卒業公演で舞台に強く惹かれ、その時の仲間で劇団を結成して活動し[6]、その後は千葉繁が主宰していたバーストマンに所属していた[16]。
賢プロダクションに正式に所属が決まった頃、あまりにも舞台が楽しく、事務所に舞台のためにNGを伝えたりしてしまったこともあった[6]。当時は事務所の人物には「平松さん、声優の仕事したいんですよね?」と突っ込まれ、舞台が楽しくて仕方なかったという[6]。
デビュー当時はOVA『バブルガムクライシス』に出演するも、収録が1年に2〜3回あり、声優の仕事はほぼそれだけで、後は舞台という感じだった[17]。
余計に緊張もし、3、4ヶ月前にしていた手ごたえを覚えられず、現場に行くたびに0からやり直しという感じだった[17]。繰り返すも、何にも積み上げていないように思い、長い間に楽しくなく、養成所で「演技が楽しい」と感じていたのが、一変して「私は声優に向いてない」と何度本気で思ったかもしれないという[17]。
「辞めよう」とは思っておらず、『バブルガムクライシス』があったと、舞台は楽しかったため、現状維持という状態で続けていた[17]。負けず嫌いなため、「どうやったらスタジオ収録に行ったときの後ろ向きな気分を抜け出せるのだろう」と真剣に考えて、声優の仕事だけが越えられず、「いつか舞台と同じように自由に演じたい」という気持ちが続けられた要因だと語る[17]。
仕事を始めた当初は緊張の連続であった[9]。仕事は修行、試練の場のような感覚で仕事の現場で「もっと私はできるのに」というフラストレーションを舞台で発散させて折り合いをつけていたように思ったという[9]。
そんな状態だったことから、当然仕事がたくさん入り、忙しくなるということもなく、結構長い期間舞台をしていた[9]。事務所の人物に「平松さんは舞台を続ける気なんですか?こんなにNGがあっては仕事を入れられないよ。」と言われ、「私は本当はどっちをやっていきたいのだろう」と考えていた[9]。
それまでに結構長い期間舞台にたずさわってきたことから、舞台も続けていけば楽しいだけでは当然なくなり、迷っていた時期に賢プロダクションのキャストだけで出演するアニメーションで初めて主役を演じる[9]。それまで舞台で演じることと、声優としてマイク前で演じることがイコールにならず、「私何やっているんだろう?」と虚しい気持ちになり、悩む時間もないスケジュールの中で主役を演じてくれたたため、常に本番も含めて喋り続けるという状態になった[9][17]。
それをこなしていくうちに変な緊張がなくなっていき、余分な力が抜けたのかもしれないといい、主役だったため、たくさんの人物と絡んで台詞を喋ることで舞台でしてきた演技と声優としてのマイク前での演技がつながり始めた[17]。その仕事はひと夏かけてしていたが、終えた時に「もっと声優の仕事したいな」と思った[17]。
それまでは後ろ向きで、「あそこに私の居場所はない」と思っていたぐらいだったことから現場に行っても行っても失敗し、ダメ出しをされ落ち込んで、という良くない循環をしてしまった[17]。仕事に対して1回もできたと思ったことがなく、「なんでできないんだろう?」と毎回思い、「もう呼んでもらえないかも。もうきっと終わりだ」と後ろ向きな考えで過ごしていた[17]。
仕事の前日は緊張とストレスで眠れないことがほとんどで、体調が万全なわけもなく、緊張も加わり、悪いことの上乗せのようになっていた[17]。『キン肉マン キン肉星王位争奪編』でレギュラーが決まり、「声優の仕事をもっとしてみたい」と思えるようになった[17]。事務所のほうにも舞台より仕事を優先させる旨を伝えており、舞台もするが、極力NGをなくし、声優としての仕事を優先させるように動いたという[17]。
大手商社でアルバイトをしており、休みが意外と自由だっため、舞台、声優で活動している平松自身としてはとても良かったという[16]。
ゴキブリが苦手で、働いている最中にゴキブリが出ようものなら客に何をしてしまうか分からないことから、アルバイト先は飲食関係以外で考えていた[18]。大手商社は舞台で使えるカラー軍手なども貰っており、結構役立ったという[16]。
賢プロダクション付属養成所スクールデュオや専門学校の講師も務めており、後進の育成にも力を入れている[5]。
小さい頃の夢はコロコロ変わっており、空が好きだったため最初になりたかったのはセスナ機のパイロットだった[3]。声優になる前は理数系が得意で、化学が好きで、実験なども好きだったため、放射線技師や薬剤師になろうと考えていた時期もあった[13]。
一人っ子である[19]。
アニメ、吹き替え、ナレーションなどで活躍している[22]。
演じる役は主に女性役が多い[23]。
バーストマン時代、とても勉強になったのもコントであり、笑いは難しく、稽古をしすぎると、つまらなくなってしまった[16]。脚本は面白いが、何度も練習して見慣れていくと皆笑わなくなり、また皆笑わせようとして、アイデアをひねり出してくるわけだった[16]。それでまた面白くなるが、それを客に見せていたところそのひねった過程がわからないため、案外笑ってくれなかった[16]}。それで試行錯誤を繰り返し、色々なことを考えていたという[16]。演技とは異なる筋肉、思考を使い、人を笑わせるために様々な要素が必要で、それを考えて工夫する作業は引き出しをつくるのにとても役立ったと語る[16]。
『あずまんが大王』のゆかり役を演じていた時は、結構いっちゃっているキャラクターで、キャラクターの奔放さを表現するには、想像もつかないような引き出しが必要だったため、コントをしていた時の経験がとても役立ったという[16][24]。コント以外にも、経験していたことは、すべて、どんなこともで役に立つと語る[24]。ロボットなど架空のモノを演じる場合もあるが、基本的にはそのキャラクターが生きているように演じるわけだったことから人間として普通に生きていて経験したり感じたりすることで、役にたたないことは何一つないと語る[24]。
林原めぐみが産休の時に『ポケットモンスター アドバンスジェネレーション』のムサシ役を代わって務めた[25]。
太字はメインキャラクター。