平沼 赳夫 ひらぬま たけお | |
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生年月日 | 1939年8月3日(85歳) |
出生地 | 日本 東京府東京市渋谷区 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部法律学科卒業 |
前職 |
日東紡績社員 衆議院議員秘書 |
所属政党 |
(自由民主党(中川G→清和会→志帥会)→) (無所属(平沼グループ)→) (たちあがれ日本→) (太陽の党→) (日本維新の会→) (次世代の党→) 自由民主党 |
称号 |
法学士 中華民国大綬景星勲章 衆議院永年在職議員 旭日大綬章 |
配偶者 | 平沼真佐子 |
子女 | 次男・平沼正二郎(衆議院議員) |
親族 |
祖父・中川友次郎(群馬県知事) 養父(曾祖叔父)・平沼騏一郎(内閣総理大臣) 義父・徳川慶光(貴族院議員) |
初-第2代 経済産業大臣 | |
内閣 |
第2次森改造内閣(中央省庁再編後) 第1次小泉内閣 第1次小泉第1次改造内閣 |
在任期間 | 2001年1月6日[1] - 2003年9月22日[2] |
第64代 通商産業大臣 | |
内閣 |
第2次森内閣 第2次森改造内閣(中央省庁再編前) |
在任期間 | 2000年7月4日[3] - 2001年1月6日[1] |
内閣 |
第2次森内閣 第2次森改造内閣 第1次小泉内閣 第1次小泉第1次改造内閣 |
在任期間 | 2000年7月4日 - 2003年9月22日 |
内閣 | 村山改造内閣 |
在任期間 | 1995年8月8日[4] - 1996年1月11日[5] |
選挙区 |
(旧岡山1区→) 岡山3区 |
当選回数 | 12回 |
在任期間 | 1980年6月23日 - 2017年9月28日 |
その他の職歴 | |
初代 次世代の党党首 (2014年8月1日 - 2015年9月25日) | |
日本維新の会国会議員団代表 (2012年11月17日[6] - 2014年6月10日) | |
太陽の党共同代表 (2012年11月13日 - 2012年11月19日) | |
初代 たちあがれ日本代表 (2010年4月10日 - 2012年11月13日) | |
日本維新の会代表代行 (2013年 - 2014年) |
平沼 赳夫(ひらぬま たけお、1939年〈昭和14年〉8月3日 - )は、日本の政治家。日本会議岡山会長[7]。
経済産業大臣(初代・第2代)、国際博覧会担当大臣(第2次森内閣・第2次森改造内閣(中央省庁再編前)・第2次森改造内閣(中央省庁再編後)・第1次小泉内閣・第1次小泉第1次改造内閣)、通商産業大臣(第64代)、運輸大臣(第70代)、新東京国際空港担当大臣(村山改造内閣)、大蔵政務次官(竹下内閣)、衆議院議院運営委員長、同農林水産委員長、同大蔵委員長、衆議院議員(12期)、次世代の党党首(初代)、日本維新の会国会議員団代表(第2代)、同代表代行(第2代)、太陽の党共同代表、たちあがれ日本代表(初代)を歴任した[8][9]。養父は第35代内閣総理大臣で曾祖叔父の平沼騏一郎[10]。
東京市渋谷区代々木大山町にて、中川恭四郎・節子夫妻の長男として生まれる。父・恭四郎は群馬県知事、特許庁長官などを歴任した内務官僚中川友次郎の四男で、農林中央金庫に勤めていた。その後、三井生命、学校経営、大協石油と職を変え、大協石油の特約店・朝日商販の社長となった。母・節子は早稲田大学総長を務めた平沼淑郎(平沼騏一郎の兄)の孫[11]。
赳夫が2歳のとき、恭四郎・節子夫妻から曾祖叔父の騏一郎が、一家養子として迎えた[12]。麻布中学校・高等学校を経て慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。1962年(昭和37年)4月日東紡績に入社。配属先は硝子繊維営業部[13]。
佐藤栄作、中川一郎の秘書を経て、憲法改正を前面に掲げ1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙、1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙に立候補するが、連続して落選。
1980年(昭和55年)の第36回衆議院議員総選挙にて、旧岡山1区で自民党から立候補して初当選する。以後12回連続当選。この間石原慎太郎、亀井静香、中川昭一といった中川一郎に近い保守派の議員らと行動をともにする。
1995年(平成7年)、村山改造内閣で運輸大臣として初入閣。この時、村山内閣の閣僚として村山談話に署名した。その後も第2次森内閣で通商産業大臣に、中央省庁再編後にも改造内閣で初代経済産業大臣に就任した。第1次小泉内閣では、当初は小泉本人から自由民主党政務調査会長への就任要請を受けたが、派閥の領袖である江藤隆美に相談したところ反対を受け、結果として再び経済産業大臣に任命された。自民党では中川率いる自由革新同友会に所属し、中川の死後は石原らとともに清和会(福田赳夫→安倍晋太郎→三塚博派)へ合流した。清和会を離脱した亀井グループと中曽根康弘が率いていた旧渡辺派が合流し、志帥会が発足。名称は初代事務総長である平沼の命名による。なお、政治家の年金未納問題が注目された際に年金の未納が発覚している。
自民党では、小泉内閣後期、拉致問題や政治手法の違いから徐々に溝が生じ、2005年(平成17年)7月5日、郵政民営化法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。このため同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、無所属で出馬。自民党公認の阿部俊子を破り、9回目の当選を果たした。特別国会の首班指名選挙では、小泉純一郎に投票したが、郵政法案の衆議院再採決では反対票を投じた。解散総選挙で自民党を非公認になり、無所属で当選した13人のうち再び反対票を投じたのは平沼一人であった(野呂田芳成は欠席)。
郵政と選挙における行動によって、自民党から平沼に対して離党勧告処分が下った。ただ、法案に再び反対した平沼には除名処分が確実といわれていたが、首班指名選挙では小泉純一郎に投票したため離党勧告処分にとどまった(野呂田は首班指名選挙で国民新党代表の綿貫民輔(当時)に投票したため、除名処分となった)。
2006年(平成18年)10月以降に注目された郵政造反組復党問題では無所属造反議員の中心となり、自民党執行部との交渉役となっていたが、自民党幹事長の中川秀直(当時)から要求された復党条件に反発した。中川と平沼の交渉が注目され、2人がかつて同じ三塚派に所属していた時代の過去の確執も取り上げられた。結局、復党では誓約書にただ一人署名せず、他の11人の復党を先行させるかたわら自らの復党は見送る判断をした。
脳梗塞のため、12月から入院、同年2月22日退院した。その後も政界復帰へ向けて身体のリハビリを続け、同年5月10日に衆議院本会議に出席し、政治活動を再開した。
同年9月29日の読売新聞らマスコミの報道により、政治資金収支報告書の内訳が報じられ、平沼の集金力は亀井静香、中川秀直に次ぎ3番手であった。
12月4日、安倍内閣退陣以降停滞していた保守政治再建のための勉強会を立ち上げた。会長には中川昭一が就き、平沼は同会の最高顧問に就任した。また、11月28日に行われた同会の準備会合では東トルキスタンの人権活動家・ラビア・カーディルが招かれ、東トルキスタンにおける中国政府の弾圧・強制移住の実態などが話し合われた。12月17日には中川勉強会の正式名称が真・保守政策研究会(現・創生「日本」)に決定。
2008年(平成20年)2月18日、民主進歩党主席で中華民国総統の陳水扁(当時)から、日台友好に長年にわたって寄与した功績により「大綬景星勲章」を授与された。同年5月20日には、先の選挙で民進党を破り、新たに同国の総統に就任した中国国民党主席の馬英九の就任式に出席した[14]。
5月、占領下の1949年(昭和24年)にGHQが出した、国公立の小中学生に靖国神社の参拝および宗教的施設への訪問禁止に対する通達について、質問主意書を送付した[15]。これについて政府側は、「1952年(昭和27年)の主権回復に伴い、同通達は失効しており、小中学生の靖国神社訪問は問題はない」との回答を平沼側に行った。
2009年(平成21年)7月22日、都内のホテルで、保守系無所属の元衆議院議員や地方議員らでつくる「平沼グループ」の結成を発表。平沼は「新しい第三極」を目指しており、衆院選後に新党を結成する方針を明かした。また、総務大臣を辞任した鳩山邦夫や、自民党を離党した渡辺喜美らとの連携にも含みを持たせた[16]。
8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙では、前回と同様、無所属で出馬(ただし、今回は、平沼を中心に保守系無所属の議員たちで平沼グループを結成した後に出馬している)。この時も自民党公認の阿部俊子と民主党公認新人候補者を破り、10回目の当選を果たした。
9月15日には、平沼グループで当選した城内実・小泉龍司と共に「国益と国民の生活を守る会」を結成[17]、独立の会派で活動することとなった。
12月2日、自民党岡山県連は平沼へ自民党への復党を要請した。県連幹部から復党要請に対し平沼は「同志とよく相談したい。拙速を避けてじっくりと考えたい」と述べ、復党に慎重な考えを示した[18]。平沼は総選挙直後にも安倍や麻生太郎から、自民党への復党と2009年自由民主党総裁選挙への立候補を打診されたが、「自民党に戻れば、推薦人20人は集まるかもしれないが、総裁選に勝つことはできないだろう」としてこれを断った[19]。
2010年(平成22年)1月16日、岡山県津山市で開かれた後援会新年会にて、次期参院選に向けた対応について「自民党としっかり連携していくとともに、新しい流れ、新しい政党をつくる」と述べ、参院選前に新党を結成する考えを明言し、自民党との連携も明言した。また、民主党政権について「自民党以上に金権体質を持っている。鳩山由紀夫首相は母親から12億円もらっておきながら知らなかったと平気で嘘をつく。小沢一郎幹事長も秘書が逮捕されても幹事長を続けている」「民主党は衆院で多数を取って、やりたい放題やっている。その上、参院で単独過半数を取ったら日本に全体主義が生まれる恐れがある。そうなったら日本はおしまいだ」と述べた[20]。
3月19日、自民党幹事長の大島理森と会談した。会談で平沼は、次期参院選で地元の岡山県選挙区から出馬する自民党候補への支援を約束したとされる。実際、たちあがれ日本は第22回参議院議員通常選挙において岡山県選挙区の自民党新人候補に推薦を出している[21]。
BNNプラス北海道365が2010年(平成22年)3月22日から3月28日の間に実施した「新党結成を期待する議員は誰ですか?」というアンケートで、全体の6割以上にあたる102票を獲得し、1位となった。
2010年(平成22年)4月10日、自民党を離党した与謝野馨、園田博之らとともに新たな保守新党『たちあがれ日本』を結成。平沼が同党の代表を務めることとなり、同時に衆議院会派「国益と国民の生活を守る会」を離脱した。
2010年(平成22年)4月17日、永住外国人への地方選挙権付与(日本における外国人参政権)に反対する集会に参加し、「(法案阻止のために)命を懸けて頑張る」と述べた[22]。
2010年(平成22年)8月15日、みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会のメンバーらと共に靖国神社に参拝した。
その後たちあがれ日本は、石原慎太郎が東京都知事の職を辞した際に新たな保守勢力の結集を目指して彼を迎え入れ、2012年(平成24年)11月13日「太陽の党」に党名変更(選挙法制上は「新党改革」のパターンを踏襲)。平沼は石原と共に共同代表となった。しかしその3日後に衆議院は解散。
2012年11月17日、太陽の党はいわゆる第三極の結集を目指すため、日本維新の会と合併して解散することになった。衆議院の解散で国会議員は失職したものの、新たに国会議員団代表に就くことになった[23]。
12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙では、日本維新の会公認で出馬。自民党公認の阿部俊子と民主党公認新人候補者を再び破り、11回目の当選を果たした。
2014年(平成26年)7月31日に日本維新の会が解党(分党)し、石原慎太郎を支持するグループは8月1日に次世代の党を結党した。平沼は党首に就任した。
12月14日に行われた第47回衆議院議員総選挙に出馬し、自民党公認の阿部俊子を破り、12回目の当選を果たした。しかし次世代の党の当選者は平沼と園田博之の2名にとどまった。
2015年9月25日、園田と共に次世代の党を離党。両者の離党後に自民党岡山県連は党本部に対して復党願いを提出した[24]。また、河村建夫や野田聖子なども同日に、平沼の復党要請書を谷垣禎一幹事長に提出した[25]。10月2日、自民党党紀委員会は園田も含めて復党を承認し、正式に自民党へ復党した[26]。
2017年9月22日、自身の高齢と脳梗塞での後遺症を理由に第48回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界を引退する決意を固めたことが報道によって明らかとなった。自身の後継候補として、次男の平沼正二郎を擁立する方針であることも明らかとなった[27]。10月6日、自民党は岡山3区での公認候補擁立を見送り、阿部俊子と平沼正二郎をいずれも無所属で出馬させ、当選した方を追加公認することを決定した。党岡山3区支部長の阿部は推薦にとどめた[28][29]。10月22日に行われた第48回衆議院議員総選挙で次男の正二郎は阿部に敗れ落選した[30]。2021年10月31日に実施された第49回衆議院議員総選挙にも無所属で出馬し、前回敗れた阿部に13,000票あまりの差を付けて初当選した(阿部は今回自民党公認候補であったため比例復活した)。
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 |
政党内比例順位 /政党当選者数 |
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落 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月 5日 | 37 | 旧岡山1区 | 無所属 | 1万7080票 | 3.68% | 5 | 9/9 | / |
落 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月 7日 | 40 | 旧岡山1区 | 自由民主党 | 4万5584票 | 9.60% | 5 | 7/10 | / |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年 6月22日 | 40 | 旧岡山1区 | 自由民主党 | 8万6850票 | 17.39% | 5 | 1/9 | / |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 44 | 旧岡山1区 | 自由民主党 | 6万3898票 | 13.16% | 5 | 5/7 | / |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年 7月 6日 | 46 | 旧岡山1区 | 自由民主党 | 7万2673票 | 14.23% | 5 | 4/7 | / |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年 2月18日 | 50 | 旧岡山1区 | 自由民主党 | 8万5648票 | 16.16% | 5 | 4/8 | / |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年 7月18日 | 53 | 旧岡山1区 | 自由民主党 | 7万5521票 | 14.91% | 5 | 3/8 | / |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 57 | 岡山3区 | 自由民主党 | 13万101票 | 65.32% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 6月25日 | 60 | 岡山3区 | 自由民主党 | 12万6003票 | 64.07% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 9日 | 64 | 岡山3区 | 自由民主党 | 12万5949票 | 67.27% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年 9月11日 | 66 | 岡山3区 | 無所属 | 9万9931票 | 48.97% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年 8月30日 | 70 | 岡山3区 | 無所属 | 9万5871票 | 46.61% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 73 | 岡山3区 | 日本維新の会 | 7万3752票 | 44.77% | 1 | 1/4 | / |
当 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 75 | 岡山3区 | 次世代の党 | 7万3852票 | 49.18% | 1 | 1/3 | / |
妻・眞佐子は征夷大将軍・徳川慶喜の曾孫。徳川斉昭や徳川慶篤、高松宮宣仁親王、昭和天皇、秩父宮雍仁親王は親戚。
飯田信臣……飯田包亮 ┃ ┣━━節子 ┃ ┃ ┏平沼淑郎━━廣女 ┃ 筧正夫 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┏宣子 平沼晋━┫ ┣━━━┫ ┃ ┃ ┗平沼赳夫 ┃ ┃ ┃ ┣平沼騏一郎…┏━平沼恭四郎 ┃ ┃ ┃ (中川) ┃ ┗藝子 ┃ ┃ ┏男 ┃ ┃ ┃ 中川友次郎 ┃ ┣━━━╋女 ┣━━━━┛ ┃ ┃ 貞以 ┃ ┗正二郎 ┃ ┃ (15代将軍) ┃ 徳川慶喜━━徳川慶久━┳徳川慶光━━━┳真佐子 ┃ ┃ ┗喜久子 ┗徳川慶朝 ┃ ┏━高松宮宣仁親王 大正天皇━┫ ┗━昭和天皇━━━━明仁上皇
タイトル | 放送日 |
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構造改革の欺瞞と友愛政治の偽善を正せ | 2009年8月1日 |
保守政治の未来、日本国家の近未来をどうするのか | 2009年8月8日 |
如何にせん保守政治【前編】 | 2009年12月31日 |
如何にせん保守政治【後編】 | 2009年12月31日 |
公職 | ||
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先代 創設 |
経済産業大臣 初・第2代:2001年 - 2003年 |
次代 中川昭一 |
先代 深谷隆司 |
通商産業大臣 第64代:2000年 - 2001年 |
次代 経済産業大臣へ |
先代 亀井静香 |
運輸大臣 第70代:1995年 - 1996年 |
次代 亀井善之 |
議会 | ||
先代 谷垣禎一 |
衆議院議院運営委員長 第54代:1996年 - 1997年 |
次代 亀井善之 |
先代 高村正彦 |
衆議院農林水産委員長 1993年 |
次代 竹内猛 |
先代 衛藤征士郎 |
衆議院大蔵委員長 1991年 |
次代 太田誠一 |
党職 | ||
先代 結成 |
次世代の党党首 初代:2014年 - 2015年 |
次代 中山恭子 |
先代 橋下徹 |
日本維新の会代表代行 第2代:2013年 - 2014年 |
次代 松野頼久 |
先代 松野頼久 |
日本維新の会国会議員団代表 第2代:2012年 - 2014年 |
次代 松野頼久 |
先代 結成 |
太陽の党共同代表 石原慎太郎と共同 初代:2012年 |
次代 日本維新の会へ合流 |
先代 結成 |
たちあがれ日本代表 初代:2010年 - 2012年 |
次代 太陽の党へ |
先代 船田元 |
自由民主党青年局長 第19代:1986年 |
次代 北川正恭 |
その他の役職 | ||
先代 麻生太郎 |
日本会議国会議員懇談会会長 第3代:2003年 -2017年 |
次代 古屋圭司 |