平経盛像/赤間神宮所蔵 | |
時代 | 平安時代末期 |
生誕 | 天治元年(1124年)? |
死没 | 元暦2年3月24日(1185年4月25日) |
墓所 | 赤間神宮七盛塚 |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 |
氏族 | 桓武平氏維衡流坂東平氏系伊勢平氏 |
父母 | 平忠盛、源信雅の娘 |
兄弟 | 清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度、他 |
子 | 経正、経兼、広盛、経俊、経光、敦盛、輝経? |
平 経盛(たいら の つねもり)は、平安時代末期の平家の武将。平忠盛の三男。平清盛の異母弟。平敦盛らの父。
兄弟達と同様、兄の清盛に従い保元・平治の乱に参戦。平治の乱では仁和寺に逃げ込んだ首謀者の藤原信頼の捕縛にあたり、宮廷の守護や追討使を務める。
母の身分の関係からか、官位の昇進は当初より異母弟の教盛・頼盛に比べて遅れており、生涯を通じて目立った政治的活動を行うことはなかった。中村文は保元の乱では清盛と行動を共にしているものの母方の叔父である源成雅が崇徳上皇側に立ち、母方の従兄弟である藤原師長(藤原頼長の子)とは乱後も親交を持っていたこと、頼長の養女である太皇太后・藤原多子の宮職を長年にわたり務めて彼女が庇護に関わっていた以仁王の元服にも参画したとみられていること、後白河法皇が甥の平重盛と共に経盛を自らの院司として積極的に取り込もうとしていることから、平清盛ら他の平家一門との関係は必ずしも円滑ではなかったのではないか、と推測している[1]。
その反面、父・忠盛から歌人としての側面を受け継ぎ、歌壇での活動は活発であった。守覚法親王の仁和寺歌会や二条天皇の内裏歌会などに出席し、自らも歌合を催している。太皇太后・藤原多子の職事を長年に亘って務めた関係から、歌壇の中心である徳大寺家の実定・実家(多子の兄弟)、女流歌人・小侍従(多子の女房)、六条藤家の藤原清輔(共に太皇太后宮多子に仕えた)・重家兄弟と親密な交流があった。歌壇の参加者には二条天皇や藤原多子、更には多子の養父・藤原頼長の関係者が多いと指摘されている(藤原教長・藤原実清のような保元の乱で配流された人々も帰京後に経盛の歌合に参加している)[1]。『千載集』によみ人知らずとして1首入首が確認されるほか、名を呈しては『新勅撰和歌集』以下、勅撰集に12首が入集。家集として『経盛集』がある。
寿永2年(1183年)7月の一門都落ちに同行して西走、元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで経正、経俊、敦盛ら子息のほとんどを失った。
元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いに敗れ、弟の教盛とともに入水して果てた。享年62。(享年61とも)
※日付=旧暦