廖承志 | |
---|---|
プロフィール | |
出生: | 1908年9月25日 |
死去: | 1983年6月10日 |
出身地: | 東京府豊多摩郡大久保村(現・東京都新宿区) |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 廖承志 |
簡体字: | 廖承志 |
拼音: | Liào Chéngzhì |
和名表記: | りょう しょうし |
発音転記: | リャオ・チョンヂー |
廖 承志(りょう しょうし、リャオ・チョンヂー、1908年9月25日 - 1983年6月10日)は中華人民共和国の政治家。
1949年の中華人民共和国の建国以降中国共産党の対外活動の責任者を務め、日本との関係では特に1962年に高碕達之助との間で取り交わした覚書に基づくLT貿易(廖承志と高碕達之助の頭文字をとってLT協定と呼ばれる)を開始した人物として知られる。中日友好協会では1963年の設立時から死去まで会長の任にあった。
廖は日本生まれの日本育ちで、江戸っ子なみのベランメエ調の日本語も話すことができるほどであり、1972年の日中国交正常化交渉では首脳の通訳として活動[1][2]、中国共産党史上最高の知日家として中国外交陣における対日専門家育成の基礎を作った。
1908年、中国国民党の幹部であり孫文の盟友で片腕だったあった父の廖仲愷[3]と、同じく中国国民党の幹部であり後に中国国民党革命委員会中央執行委常務委員となった母の何香凝[4]の間に東京の大久保[5]で生まれた[6]。別名に母方の姓を用いた何柳華。[要出典]
暁星小学校に入学し、少年時代を東京で過ごし、その後中国に戻った[6]。1919年に帰国し嶺南大学(現・中山大学)に入学。[要出典]1925年に父が暗殺されると、再来日して早稲田大学附属第一高等学院で学んだ[6]。1928年、済南事件をきっかけに帰国、中国共産党に入党。1928年から1932年の間に渡欧してヨーロッパの中国人船員のオルグ工作を担当した。1930年には、モスクワ中山大学に学ぶ。そこでのちに中華民国総統になる蔣経国と机をならべた。
1932年に帰国し中華全国総工会宣伝部部長に就任。一時逮捕されたり反革命の嫌疑で党籍を剥奪される時期もあったが、党の宣伝関係などの要職を歴任。1937年より香港において抗日戦争を戦う華僑の組織化の責任者となる。
1942年に国民党政府に逮捕され1946年まで入獄。1946年に米国の仲介で成立した国共両党間の捕虜交換により出獄し、1949年の中華人民共和国建国まで、新華社社長、党南方局委員、党宣伝部副部長などを歴任。建国後は政府の華僑事務委員会副主任、党中央統一戦線工作部主任など対外工作の要職に就いた。
1955年にバンドンのアジア・アフリカ会議に参加して1956年にアジア団結委員会副主席となり、1957年にはカイロのアジア・アフリカ人民連帯会議にも出席して1958年にはアジア・アフリカ団結委員会主席となった。日本と国交のなかった1950年代に訪日し、対日関係の窓口として活動を行った。
1962年11月9日、責任者の名前のイニシャル、廖(LIAO)の「L」と高碕(TAKASAKI)の「T」をとってLT貿易協定と言われる「中日長期総合貿易覚書」に調印し、友好商社による細々とした民間友好貿易から半官半民のLT貿易へと拡大、1964年4月20日には「中日両国の貿易事務所の設置と常駐記者の交換に関する覚書」(詳しくは日中記者交換協定を参照。)に調印し、後の国交正常化に至るまでの日中交流の道を開いた。
1963年には中日友好協会が設立されて会長に就任、その後一貫して対日交渉の最高責任者の地位にあった。文化大革命中に先頭にたって文革推進の立場から日本共産党攻撃を行い、北京駐在日本共産党員を「足蹴にしてしまえ」と叫んだという記録が残っている。しかし結局本人も「親日派」であると批判され一時失脚し、後に復活。1972年の日中国交正常化に際しては毛沢東や周恩来の通訳を務める[1]などして尽力した。通訳にあたっては同席する他の中国人通訳のちょっとした訳の間違いなどが、日中間の漢字表現の違いから誤解を招かぬよう、そばでやさしく訂正したりもして進行を円滑にしていた[2]。
1979年の中米国交回復後、1982年には台湾の当時の総統であった蔣経国に対し祖国統一を呼びかけた。党中央委員・第5期全人代常務委員会副委員長にも選ばれた。
なお、息子の廖暉(りょう き)も父の後を継いで1984年から1997年の間は華僑事務委員会主任、その後は香港・マカオ事務委員会主任を務めている。現在、第17期中国共産党中央委員(第12期以降、連続当選)も務める。