弥生 (睦月型駆逐艦)

弥生
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 睦月型駆逐艦
艦歴
起工 1924年1月11日
進水 1925年7月11日
竣工 1926年8月28日(第二十三号駆逐艦)
最期 1942年9月11日沈没
除籍 1942年10月20日
要目(計画)
基準排水量 1,315トン
常備排水量 1,445トン
全長 102.72 m
最大幅 9.16 m
吃水 2.92 m
ボイラー ロ号艦本式缶4基
主機 メトロポリタン・ヴィッカースタービン2基
推進器 2軸、38,500馬力
速力 37.25ノット
燃料 重油450トン
航続距離 14ノットで4,500海里
乗員 154名
兵装 45口径三年式12cm単装砲4門
留式7.7mm機銃2挺
61cm3連装魚雷発射管2基6門
(八年式魚雷12本)
爆雷投射器
爆雷12個
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彌生(やよい/やよひ)は日本海軍駆逐艦[1]睦月型駆逐艦の3番艦である[2]。艦名は旧暦3月のこと。艦名は初代神風型駆逐艦の「弥生」に続いて2代目。なお、日本海軍の登録上は旧字の「彌生」だが[3][4]、ここでは「弥生」と表記する[5]

艦歴

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1923年(大正12年)度計画艦。同年7月19日浦賀造船所で建造予定の駆逐艦に「第二十三駆逐艦」の艦名が与えられる[6]。一等駆逐艦に類別[7]

1924年(大正13年)1月11日起工、4月24日艦名を「第二十三号駆逐艦」に改正[8]1925年(大正14年)7月11日進水、1926年(大正15年)8月28日に竣工[9]佐世保鎮守府に所属した。1928年(昭和3年)8月1日附で「第二十三号駆逐艦」は「彌生(弥生)」と改名された[1]1930年(昭和5年)11月中旬、昭和天皇は戦艦「霧島」を御召艦として、岡山県宇野から横須賀へ帰京することになった[10]。第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)は「霧島」の供奉艦に指定される[11]。11月21日「霧島」は横須賀に到着し、天皇は退艦した[12]

1937年(昭和12年)からの支那事変により中支、南支方面に進出する。また、仏印進駐作戦に参加した。第30駆逐隊の構成艦はしばしば変更されており、「卯月、如月、夕月、望月」等が編入あるいは転出している。

太平洋戦争緒戦

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太平洋戦争開戦時、「弥生」は第四艦隊(司令長官井上成美中将:旗艦「鹿島」)・第六水雷戦隊(司令官阿部弘毅少将、旗艦「夕張」)・第30駆逐隊(司令安武史郎大佐)に所属していた。開戦時の第30駆逐隊は睦月型4隻(睦月如月、弥生、望月)である[13]。12月上旬、第六水雷戦隊・第十八戦隊(天龍、龍田)を主力とする艦隊は、第1次ウェーク島攻略作戦を実施する。

ウェーク島の戦いは米軍の反撃により、日本軍にとって予想外の展開となった。12月11日、姉妹艦「如月」がF4Fワイルドキャットの空襲により沈没、第30駆逐隊は開戦劈頭で3隻編制となった。また、ウェーク島砲台の攻撃で駆逐艦「疾風」が沈没した。第2次ウェーク島攻略作戦では、南雲機動部隊より派遣された第二航空戦隊の空母2隻(飛龍蒼龍)、重巡2隻(利根筑摩)、第17駆逐隊(谷風浦風)が航空支援をおこない、第六戦隊の重巡4隻(青葉衣笠加古古鷹)が陸上支援に加わった。その後も第六水雷戦隊各艦はラバウル方面、ブーゲンビル島ポートモレスビーの各攻略作戦に参加した。

1942年(昭和17年)5月25日、第23駆逐隊の解隊にともない同隊所属だった姉妹艦「卯月」が第30駆逐隊に編入され、30駆は定数4隻を回復する[14]。6月1日以降、第六水雷戦隊は南洋部隊主隊に、「弥生」はラバウル方面部隊に編入された[15]。6月24日、「望月、弥生、夕凪」は南洋部隊主隊に編入され、海上護衛作戦に従事する[15]。6月には「もんてびでお丸」の護衛を行ったほか、7月1日からは「辰武丸」と「第二日新丸」をトラックから護衛し、7月10日に横須賀に着いている[16]。 7月10日、第六水雷戦隊の解隊にともない、軽巡洋艦「夕張」、第29駆逐隊(夕月、追風、朝凪、夕凪)、第30駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月)、「能代丸、長運丸」は第二海上護衛部隊へ編入された[17][15]。だが第30駆逐隊が第二海上護衛隊として作戦に従事する機会は訪れず、わずか4日で第八艦隊へ異動した[18]

ガダルカナル島の戦い

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8月7日、アメリカ軍ウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島フロリダ諸島に上陸、ガダルカナル島の戦いがはじまる。第30駆逐隊は8月15日に佐世保を出港、ソロモン方面へ進出する。梶本(弥生艦長)の証言を収録した文献によれば、『第30駆逐隊(睦月、弥生、望月)の3隻[19]は8月24日夜半にガダルカナル島を約10分間砲撃、同島への艦砲射撃の第1号となった』としている[20]。一方戦史叢書によれば、8月13日夜明け前、駆逐艦「追風夕月」によるガダルカナル島・ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃が実施された[21]。8月18日にも、一木支隊先遣隊約900名を揚陸させた陽炎型駆逐艦6隻(萩風陽炎谷風浦風浜風)のうち、「嵐、萩風、陽炎」によって陸上砲撃が実施されている[22]。「陽炎」は23日にも単艦でルンガ泊地に突入、陸上を砲撃した[23]

8月24日午前7時、第30駆逐隊はショートランド泊地を出撃[24]。旗艦「睦月」以下、駆逐艦「睦月、弥生、陽炎、磯風江風」はルンガ泊地に突入、同日22時より約10分間の飛行場砲撃に成功した[25]。ガ島砲撃部隊はソロモン諸島海域を離脱後、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:軽巡洋艦「神通」、第24駆逐隊《海風涼風》)及び哨戒艇「1号(初代島風)2号、34号、35号」に護衛された横須賀鎮守府所属横須賀第五特別海軍陸戦隊並びに陸軍一木支隊の輸送船3隻(ぼすとん丸、大福丸、金龍丸)と合流すべく北上した[26]。この増援部隊輸送船団は8月16日以降漸次トラック泊地を出撃し、8月25日のガダルカナル島揚陸を予定して同島へ向かっていた[27]。本船団を掩護するため空母「龍驤」、重巡「利根」、駆逐艦「天津風時津風」が派遣されていたが、24日昼間空襲で「龍驤」は撃沈されてしまった(第二次ソロモン海戦[28]

8月25日午前6時、ガ島砲撃部隊と増援部隊輸送船団は合同直後の陣形変更中のところを急降下爆撃機SBDドーントレス8機・B-17爆撃機3機に空襲され、二水戦旗艦「神通」被弾炎上、「睦月、金龍丸」沈没という被害を受ける[29][30]。「弥生」は「睦月」生存者を救助[31]。安武司令も「弥生」に移乗し、同艦が30駆司令艦となった[32][33]。「神通、涼風」はトラック泊地へ回航され、沈没艦生存者を乗せた「弥生、哨戒艇1号、2号」は安武司令の意見具申により、輸送船に先行してラバウルへ退避することになった[34][35]。輸送船「ぼすとん丸、大福丸」は駆逐艦「磯風」が指揮してラバウルへ避退した。 8月27日午前2時、睦月生存者を乗せた「弥生、1号、2号」はラバウルに到着[36]。第30駆逐隊は「睦月」を喪失し、さらに「卯月」も空襲により損傷[37]。内地へ回航された。一連の海戦(第二次ソロモン海戦)は戦術的にも戦略的にも米軍の勝利であった。

ラビの戦い、沈没

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第二次ソロモン海戦が行われていたころ、ニューギニア方面では、ニューギニア島東端のラビ攻略作戦が開始されていた。8月25日に陸戦隊が上陸するも苦戦。増援として呉鎮守府第三特別陸戦隊(呉三特)と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊の一部(吉岡中隊)の派遣が決定された[38]。「弥生」と駆逐艦「嵐」、「叢雲」、「第三十六号哨戒艇」、「第三十八号哨戒艇」、「第三十九号哨戒艇」が呉三特と吉岡中隊を乗せ、軽巡洋艦「天龍」、駆逐艦「浦風」、「谷風」に掩護されて8月28日にラバウルより出撃[39]。8月29日にラビ付近に到着し、陸戦隊を上陸させて帰途に就いた[40]

一方、ブナから舟艇機動でラビ攻撃に向かった佐世保鎮守府第五特別陸戦隊の一部(月岡部隊)が消息不明となっており、月岡部隊の上陸予定地であるタウポタ(ラビ北方)へ9月3日に「弥生」は連絡員を上陸させた[41]。しかし、月岡部隊上陸の形跡はなく、「弥生」はラビ方面の陸戦隊との連絡のためミルン湾へと向かった[42]。タウポタには連絡員20名が残されたが、その後救出できず、最終的に行方不明となった[43]

9月4日、「弥生」はミルン湾に進入し、糧食の揚陸と重傷者などの収容を行った[44]。この後、ラビからの撤収が決定された。

前述の月岡部隊はグッドイナフ島で敵機の攻撃により大発をすべて失ったうえ、通信も不能となっており、9月9日になってその居場所が判明[45]。9月10日、「弥生」と駆逐艦「磯風」がラバウルから救助に向かった[45]。しかし、9月11日に「弥生」はアメリカ陸軍航空軍B-17オーストラリア空軍ハドソンにより撃沈された[46]。 戦史叢書によれば9月11日12時ごろラビの東にあるノーマンビー島(ノルマンビー島)の東方で空襲[47]を受け、「弥生」は後部への被弾により舵が故障、続いて航行不能となり、16時15分沈没した[48]。第十八戦隊戦時日誌によれば15時35分に被弾し舵故障、15時45分に再度被弾して航行不能となり、16時15分に沈没[49]。沈没地点はノーマンビー島東方15浬の南緯10度3分 東経151度27分 / 南緯10.050度 東経151.450度 / -10.050; 151.450[50]。戦闘中に「弥生」と離れてしまっていた「磯風」が日没の16時40分ごろに「弥生」救出に向かったが、油らしきものが見つかったのみであった[50]。翌日の「天龍」、「浜風」による捜索でも成果はなかった[50]。陸地に灯火(これは「弥生」乗員によるものであった)を認めたものの、確認せずに帰投してしまっている[51]

梶本艦長以下「弥生」生存者はカッターボートに乗ってノーマンビー島へ上陸しており[52]、現地のタロ芋等を調達して飢えをしのいだ[53]。9月21日に「弥生」のものと思われるカッターが戦闘機により発見された[50]。これはノーマンビー島より出発した「弥生」のカッターで10名が乗っており、9月21日に「磯風」、「望月」と「君川丸」水偵による捜索で発見され「磯風」に収容された[54]。 同日深夜、2隻は収容した生存者の誘導のもとノーマンビー島北東端に到着、探照灯・サイレンを用いて連絡を取ろうとしたが、弥生乗組員は敵上陸のため森林に退避しており、救出に失敗した[50]。9月23日に陸攻がノーマンビー島で「弥生」生存者らしきものを発見[50]。9月25日21時に「磯風」、「望月」は再出撃し、2隻は26日夜半に同島へ到着すると梶本艦長以下乗組員83名を救助した[55]

「弥生」の戦死者は68名であった[56]。第三十駆逐隊司令も戦死している[50]

同年10月20日、駆逐艦「弥生(彌生)」は一等駆逐艦卯月型[57]、 帝国駆逐艦籍[3]、 第30駆逐隊[58]のそれぞれから除籍された。12月1日、「睦月、弥生」を喪失した第30駆逐隊も解隊された[59]。「弥生」沈没時の艦長だった梶本少佐は、のちに夕雲型駆逐艦清霜」艦長に就任[60]。「弥生」主計科のある短期現役士官は重巡洋艦「熊野」主計長となり、同艦沈没時に戦死した[61]

歴代艦長

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※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』250-252頁による。階級は就任時のもの。

艤装員長

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  1. 和田省三 中佐:1925年11月10日 -

艦長

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  1. 和田省三 中佐:1926年8月28日 - 1927年11月1日
  2. 杉本嘉多雄 少佐:1927年11月1日 - 1928年3月1日
  3. 原顕三郎 中佐:1928年3月1日 - 1928年3月15日
  4. 鈴木田幸造 少佐:1928年3月15日 - 1929年11月1日[62]
  5. (兼)山本正夫 少佐:1929年11月1日[62] - 1929年11月15日[63] (本職:卯月駆逐艦長)
  6. 坂野民部 少佐/中佐:1929年11月15日 - 1930年8月1日[64]
  7. 西岡茂泰 中佐:1930年8月1日 - 1933年11月15日
  8. 杉野修一 少佐:1933年11月15日 - 1934年10月22日
  9. 杉野修一 少佐:不詳 - 1935年3月15日[65]
  10. (兼)倉永恒記 少佐:1935年3月15日[65] - 1935年4月25日[66]
  11. 折田常雄 少佐:1935年4月25日 - 1937年11月15日[67]
  12. 吉川潔 少佐:1937年11月15日 - 1938年9月15日[68]
  13. 入江籌直 少佐:1938年9月15日 - 1938年12月15日[69]
  14. 上杉義男 少佐:1938年12月15日 - 1939年3月18日[70]
  15. (兼)作間英邇 少佐:1939年3月18日 - 1939年5月15日[71] (本職:夕月駆逐艦長)
  16. 安並正俊 少佐:1939年5月15日 - 1939年10月15日[72]
  17. (兼)作間英邇 少佐:1939年10月15日[72] - 1939年11月15日[73] (本職:夕月駆逐艦長)
  18. 原口曻 少佐:1939年11月15日 - 1940年1月6日[74]
  19. 杉谷永秀 少佐:1940年1月6日 - 1940年10月15日[75]
  20. 石井勵 少佐:1940年10月15日 - 1941年9月10日[76]
  21. 肝付正明 少佐:1941年9月10日 - 1942年7月5日[77]
  22. 梶本顗 少佐:1942年7月5日 - 1942年9月20日[78]
  23. 小屋愛之 大尉:1942年9月20日[78] - 1942年9月30日[79]

脚注

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  1. ^ a b #達昭和3年6月pp7-8『達第八十號 驅逐艦及掃海艇中左ノ通改名ス 本達ハ昭和三年八月一日ヨリ之ヲ施行ス|昭和三年六月二十日 海軍大臣岡田啓介|第二十三號驅逐艦 ヲ 驅逐艦 彌生(ヤヨヒ)トス』
  2. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.1『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|睦月型|睦月、如月、彌生、卯月、皐月、水無月、文月、長月、菊月、三日月、望月、夕月』
  3. ^ a b #内令昭和17年10月(4)pp.9-10『内令第千九百三十二號 佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 彌生 右帝国驅逐艦籍ヨリ除カル|佐世保鎮守府在籍 呂號第六十一潜水艦 右帝国潜水艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府在籍 特務艦 樫野 右帝国特務艦籍ヨリ除カル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎』
  4. ^ 戦史叢書』、『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』等。
  5. ^ 戦闘詳報で「弥生」を用いた部隊・艦もある。
  6. ^ #達大正12年7月p.7『達第百六十二號 艦艇製造費ヲ以テ大正十二年度ニ於テ建造ニ着手スヘキ一等驅逐艦五隻ニ左ノ通命名ス|大正十二年七月十九日 海軍大臣財部彪|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 第十九驅逐艦|舞鶴要港部工作部ニ於テ建造 第二十一驅逐艦|浦賀造船所ニ於テ建造 第二十三驅逐艦|石川島造船所ニ於テ建造 第二十五驅逐艦|藤永田造船所ニ於テ建造 第二十七驅逐艦』
  7. ^ #達大正12年7月p.7『達第百六十三號 艦艇類別等級表中驅逐隊ノ欄第十七ノ下ニ「第十九、第二十一、第二十三、第二十五、第二十七」ヲ加フ|大正十二年七月十九日 海軍大臣財部彪』
  8. ^ 大正13年4月24日付 達第49号。
  9. ^ #艦船要目(昭和12年12月1日現在)p.4『彌生|一等驅逐艦|(艦要目略)|浦賀船渠會社|大正13-1-11|14-7-11|15-8-28|(兵装略)』
  10. ^ #S5御召艦準備p.26『一.軍艦霧島行動予定』
  11. ^ #S5御召艦準備p.2『一.御召艦 軍艦霧島/二.供奉艦 第三十駆逐隊(睦月、如月、彌生、卯月)/三.右ノ外宇野港ヘハ呉鎮守府ヨリ警備艦トシテ軍艦天龍及第十八駆逐隊ヲ派遣ノ予定』
  12. ^ #S5御召艦準備p.25『5.11.21(霧島艦長)天皇陛下ニハ午後1時28分横須賀御入港午後2時17分天機御麗シク御退艦遊バザル』
  13. ^ #編制(昭和16年12月31日現在)p.2
  14. ^ #内令昭和17年5月(3)p.39『内令第九百三十一號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月二十五日 海軍大臣嶋田繁太郎|第二十三駆逐隊ノ項ヲ削ル|第二十九駆逐隊ノ項中「追風」ノ上ニ「夕月、」ヲ加フ|第三十駆逐隊ノ項中「望月」ノ下ニ「、卯月」ヲ加フ』
  15. ^ a b c #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)44頁『第六水雷戦隊のSN作戦における活躍と同隊の解隊』
  16. ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、60ページ
  17. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)pp.51-52『(ロ)自7月10日至7月14日『区分/第2海上護衛隊|艦(隊)名/夕張、第29駆逐隊(夕月追風朝凪夕凪)、第30駆逐隊(睦月弥生望月卯月)、能代丸長運丸』
  18. ^ #S1704第二海上護衛隊日誌(1)p.53『Ⅱ編制ノ経過概要 7月中旬以降當隊ノ編制右ノ如ク改メラレ稍兵力ノ充実ヲ見ルモ第三十駆逐隊ハ當隊ノ任務ニ従事スルニ至ラズシテ當隊ヨリ除カレ、夕張、第二十九駆逐隊又「ソロモン」「ニューギニヤ」方面作戦ニ従事中ニシテ本月ハ當隊固有ノ護衛任務ニ服スル機会ナク、専ラ能代丸、長運丸ノ2艦ニ依リ當隊任務ヲ遂行セリ』
  19. ^ 写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』p55の望月行動年表によると「望月」この時はまだ佐世保にいる。
  20. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)216頁
  21. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)512頁
  22. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)534頁
  23. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)559頁
  24. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)585頁
  25. ^ #S1708外南洋部隊増援部隊詳報(1)pp.16-17『(20)30dg(卯月望月缺)磯風江風陽炎ハ8月24日2200「ルンガロード」ニ進入飛行場附近ヲ砲撃シタル後北方ニ避退セリ。陽炎ハ敵潜1隻ヲ砲撃及爆雷攻撃ニ依リ概ネ確実ニ撃沈セリ』
  26. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)586頁
  27. ^ #S1708外南洋部隊増援部隊詳報(1)pp.10-11『(一)挺身隊(4dg《野分舞風欠》17dg《磯風欠》及陽炎)ハ陸軍一木支隊先遣隊(陸兵約900名)ヲ分乗4dg司令指揮ノ下ニ8月16日0500「トラック」ヲ出撃ス。同時刻第二梯団(陸軍輸送船ぼすとん丸、大福丸《一木支隊ノ約1500名乗船》護衛艦艇《神通哨34哨35》)「トラック」發|(二)8月17日0700哨1哨2金龍丸ヲ護衛シ「トラック」發|(三)24dgハ前進部隊電令作第24号ニ依リ2Sd司令官ノ指揮ヲ受ケ一木支隊ノ護衛ニ任ゼラレシヲ以テ8月17日1500「トラック」發|(四)8月18日1300 24dg第二梯団ニ合同ス』
  28. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)104頁
  29. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)587頁
  30. ^ #ラバウル海軍航空隊(学研M文庫)113-114頁
  31. ^ #S1708二水戦日誌(4)pp.12-13『25日30dg司令/30dg(望月卯月缺)ハ地点「ケムヌ14」ニ於テ金龍丸ノ救助処分ニ従事中、睦月ハ0827敵B-17三機ノ爆撃ヲ受ケ後部機械室ニ命中0940遂ニ沈没セリ、生存者ハ全部弥生ニ収容セリ|戦死(行衛不明モ含ム)准士官以上3名下士官兵37名、負傷者准士官以上3名下士官兵8名』
  32. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)217頁
  33. ^ #S1708二水戦日誌(4)p.12『25日1145 30d司令/8月25日司令駆逐艦ヲ弥生ニ変更セリ』
  34. ^ #S1708二水戦日誌(4)p.16『25日1300 30dg司令/一.金龍丸ハ大火災大爆発ヲ起セルヲ以テ睦月ノ魚雷ニテ処分セリ|二.睦月ハB-17三機ノ爆撃ヲ受ケ0940沈没セリ|三.金龍丸睦月ノ生存者ハ全部本艦ニ収容セリ|四.重傷者13名有リ至急陸上病院ニ入院セシムル必要有ルニ付「ラボール」ニ回航セシメラレ度』
  35. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)590頁
  36. ^ #S1708二水戦日誌(6)p.39『27日二.0330弥生哨1哨2「ラバール」着』
  37. ^ #S1709第8艦隊日誌(1)pp.59-60『二十五日(天候略)増援部隊ハ「ガ」島北方150浬附近ニ於テ空襲ヲ受ケ金龍丸沈没神通被弾、船団ハ北方ヘ避退ス、敵機動部隊「サンクリストバル」島ノ南東方面ニ於テ伊一五発見、一木先遣支隊ノ消息判明ス、呉五特横五特佐五特ノ一部ヲ以テ「ラビ」攻略ヲ開始ス、空襲ニ依リ睦月沈没卯月至近弾ニ依リ船体漏洩箇所ヲ生ズ』
  38. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、619-620ページ
  39. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、620ページ
  40. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、621ページ
  41. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、399、610-611、613、633ページ
  42. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、630-631、633ページ
  43. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、633ページ
  44. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、631ページ
  45. ^ a b 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、634ページ
  46. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II、1942年9月11日の項
  47. ^ 戦史叢書ではB-17B-25約10機によるとする
  48. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、634、636ページ
  49. ^ 昭和17年9月1日~昭和17年12月24日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)、第42画像
  50. ^ a b c d e f g 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、636ページ
  51. ^ 昭和17年9月1日~昭和17年12月24日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)、第9画像
  52. ^ #空と海の涯で240頁
  53. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)218頁
  54. ^ 戦史叢書第49巻 南東方面海軍作戦<1>ガ島奪回作戦開始まで、634、636ページ、昭和17年9月1日~昭和17年12月24日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)、第10画像
  55. ^ #S1709十八戦隊日誌(1)pp.10-11『25日2100RR発再度磯風望月ヲシテ之ガ救出ニ向ハシム。経過別図第三ノ通ニシテ艦長梶本少佐以下83名ノ救出ヲ了セリ。更ニ帰途同日1000頃「ウッドラーク」島北西方海面ニテ被弾沈没セル気象観測船恭海丸乗員ヲ捜索セシメタルモ何等消息ヲ得ル能ハズ27日1700RR帰着』
  56. ^ 「睦月」型駆逐艦の戦時兵装の変遷と行動、114ページ
  57. ^ #内令昭和17年10月(4)pp.5-6『内令第千九百二十五號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十七年十月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|驅逐艦、一等卯月型ノ項中「彌生、」ヲ削ル|潜水艦二等ノ部「呂六十一型」ヲ「呂六十二型」ニ改メ同項中「呂號第六十一、」ヲ削ル』
  58. ^ #内令昭和17年10月(4)pp.10-11『内令第千九百三十四號 |驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「荒潮」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「彌生」ヲ削ル』
  59. ^ #内令昭和17年12月(1)p.4『内令第二千二百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|第三十驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  60. ^ #佐藤 艦長続編(文庫)219頁
  61. ^ #空と海の涯で497-498頁
  62. ^ a b 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
  63. ^ 『官報』第866号、昭和4年11月16日。
  64. ^ 昭和5年8月2日付 官報第1078号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2957545 で閲覧可能。
  65. ^ a b 『官報』第2459号、昭和10年3月16日。
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  68. ^ 昭和13年9月15日付 海軍辞令公報(部内限)号外 第239号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074300 
  69. ^ 昭和13年12月15日付 海軍辞令公報(部内限)号外 第273号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  70. ^ 昭和14年3月19日付 海軍辞令公報 (部内限)第315号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500 
  71. ^ 昭和14年5月15日付 海軍辞令公報(部内限)第335号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075700 
  72. ^ a b 昭和14年10月16日付 海軍辞令公報(部内限)第391号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400 
  73. ^ 昭和14年11月15日付 海軍辞令公報(部内限)第402号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700 
  74. ^ 昭和15年1月8日付 海軍辞令公報(部内限)第427号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077600 
  75. ^ 昭和15年10月15日付 海軍辞令公報(部内限)第543号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
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  77. ^ 昭和17年7月6日付 海軍辞令公報(部内限)第895号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  78. ^ a b 昭和17年9月20日付 海軍辞令公報(部内限)第946号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086900 
  79. ^ 昭和17年10月1日付 海軍辞令公報(部内限)第954号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072087200 

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C12070082300『大正12年達完/7月』。 
    • Ref.C12070089800『昭和3年達完/6月』。 
    • Ref.C12070162900『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(3)』。 
    • Ref.C12070166000『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年10月(4)』。 
    • Ref.C12070166700『昭和17年10月~12月内令4巻止/昭和17年12月(1)』。 
    • Ref.C13071968200『昭和11年12月11日現在10版内令提要追録第1号原稿/巻1 追録/第6類機密保護()』。 
    • Ref.C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。 
    • Ref.C05021029500『公文備考 昭和5年C儀制巻1/第3482号5.10.22御召艦準備に関する件』。 
    • Ref.C08030142500『昭和17年4月10日~昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030142600『昭和17年4月10日~昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030095600『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030095700『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030095800『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030095900『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030096000『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(5)』。 
    • Ref.C08030096100『昭和17年8月1日~昭和17年8月31日 第2水雷戦隊戦時日誌(6)』。 
    • Ref.C08030096400『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(1)』。 
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    • Ref.C08030096700『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030096800『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030096900『昭和17年8月13日~昭和17年8月31日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報(6)』。 
    • Ref.C08030022500『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030022600『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030062800『昭和17年9月1日~昭和17年12月24日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030062900『昭和17年9月1日~昭和17年12月24日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書49 南東方面海軍作戦(1) ガ島奪還作戦開始まで』朝雲新聞社、1971年9月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0460-1
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続篇』(光人社、1984年) ISBN 4-7698-0231-5
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9 
    • 貴重な勝利 <駆逐艦「清霜」艦長・梶本顗中佐の証言>(太平洋戦争時、夕風艦長、弥生艦長《沈没時》、三重空教官、兵学校教官、清霜艦長等)
  • 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
  • 奥宮正武『ラバウル海軍航空隊』学習研究社、2001年3月(原著1992年)。ISBN 4-05-901045-6 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。
  • 門司親徳「第2章 呉鎮守府第五特別陸戦隊の作戦」『空と海の涯で―第一航空艦隊副官の回想』光人社、2012年(原著1978年)。ISBN 978-4-7698-2098-7 
  • 田村俊夫「「睦月」型駆逐艦の戦時兵装の変遷と行動」『睦月型駆逐艦 真実の艦艇史4 謎多き艦隊型駆逐艦の実相』歴史群像太平洋戦史シリーズ64、学研、2008年、ISBN 978-4-05-605091-2、95-156ページ