弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11は、ロシアの作曲家ピョートル・チャイコフスキーによって、1871年2月に作曲された弦楽四重奏曲である。第2楽章「アンダンテ・カンタービレ」の冒頭は有名で、ムード音楽などにも編曲されたことがある。
1865年にサンクトペテルブルク音楽院を卒業したチャイコフスキーは、ニコライ・ルビンシテインの要請を受け、ルビンシテインの創設したモスクワ音楽院の教師に赴任し、後任の指導に当たりつつ作曲活動を行っていた。生計は楽ではなかったが、少しずつ作曲家としての実力・評価を高めてきていたので、ルビンシテインはチャイコフスキーに、自作によるコンサートの開催を勧める。経費その他も配慮して小ホールでの演奏会になったが、それに向いたプログラムを組むのに曲数が足りなかったので、急遽作曲されたのがこの弦楽四重奏曲である。
チャイコフスキーは、この第1番を含む弦楽四重奏曲を全部で3曲、モスクワ音楽院で教師を務めていた1870年代に作曲し、他にはサンクトペテルブルク音楽院の学生時代の最後の年に習作として書かれた変ロ長調の弦楽四重奏曲のうちの1楽章のみが残されている。弦楽四重奏曲の他には、ニコライ・ルビンシテインの死を悼んで作曲されたピアノ三重奏曲「ある偉大な芸術家の思い出のために」が有名でよく演奏され、弦楽六重奏曲「フィレンツェの想い出」も時おり演奏される。
1876年12月にモスクワ郊外の領地ヤースナヤ・ポリャーナから久々にモスクワに来たレフ・トルストイに敬意を表して、ニコライ・ルビンシテインは特別音楽会を催した。この時にはこの曲も演奏されたが、アンダンテ・カンタービレが演奏された時、チャイコフスキーの隣に座っていたトルストイは感動のあまり涙を流した。
このことをチャイコフスキー自身は、10年後の1886年7月2日の日記に「あの時ほど、喜びと感動をもって作曲家として誇りを抱いたことは、おそらく私の生涯に二度とないであろう」と記している。
有名な第2楽章の以外にも美しい旋律が多く、またチャイコフスキーらしい情熱的な展開が魅力的である。各楽器の扱いは管弦楽の縮図のような筆致をみせ、時には大仰でもありそれが室内楽の真のスタイルではないと言われることもあるが、それもまた時には型破りな効果を見せる。