後漢(こうかん[* 1])は、中国五代十国時代の王朝(947年[2] - 950年[3])で、五代のうちの一つの王朝である[4][* 2]。建国者はテュルク系突厥沙陀族の劉知遠で、劉姓であることから国号を漢とした[6]。都は開封にあった[7]。
942年5月に後晋の高祖石敬瑭が病死し、その遺志と異なる2代皇帝少帝石重貴が宰相の馮道と天平軍節度使の景延広によって擁立された[8]。
対遼強硬派の景延広は宰相と侍衛親軍馬歩軍都指揮使(中央禁軍総司令官)を兼ねて国政の実権を握り、歳幣の停止と遼に対する屈辱的外交からの脱却を図った。
しかし、この情報は遼の知ることになり、これが944年に二度の遼の南侵を招き、さらには946年11月に遼の太宗耶律堯骨による親征が開始された[9]。
946年12月に開封は落城し、少帝は遼に拉致され後晋は滅亡した[10][* 3]。
遼の太宗によるこの侵攻は、反遼姿勢をとる後晋の少帝政権に対する懲罰と燕雲十六州以南の華北の支配をもくろんだものであった[10]。
けれども遼本国では、遼の農耕社会の直接支配に対し、遼に批判的な遊牧勢力(述律太后の一派)の謀略活動があった。また、遼の略奪専門の「打草穀騎」と称する部隊が華北地方で激しい略奪活動をしたが、それに対する漢民族の激しい抵抗に遼軍は苦戦した。
こうして、947年4月、遼は軍の撤退を余儀なくされた[10]。
後晋の建国に際してその高祖の即位に功があり、「侍衛親軍馬歩軍都指揮使」として要所の節度使を兼ねていた劉知遠が、遼の南侵の激化に伴い「河東節度使」として晋陽に駐屯することとなった[6]。
この時の晋陽は遼に対する国の防衛拠点であった。この晋陽で、河東節度使の劉知遠は後に後漢の親衛部隊の中核となる兵力を自らの力で増強した[2]。
その後、後晋が遼に滅ぼされると、劉知遠は947年2月、皇帝に即位して後晋に代わる「後漢」を建国した[6]。
当時、強大な遼軍が開封を中心に華北を占領していて、これに対し華北各地では、遼軍に対する反抗運動が激化していた[2]。これとあわせ遼の本国では、太宗に対する不穏な動きがあったため、遼軍はついに退却した。
後漢軍の開封への入城はその遼軍が引き上げた後の947年6月となった[3]。
後漢の高祖(劉知遠)が開封に入城した時、後晋及び遼に任命された節度使たちとその将吏たちはその地位が安堵されたままだった[7]。彼らは、元節度使から皇帝になった後漢の劉知遠をひどく嫌った。このため後漢朝は成立当初から、後漢を認めず、後漢に敵意を持つ各地の有力藩鎮たちが各地で反乱を起こしていた。この反乱に後漢の劉知遠はひどく悩まされることとなった[7]。
この反乱を鎮圧して功を挙げたのが、当時宰相で枢密使でもあった郭威であった[7]。
この郭威がその後の「後周」の建国者となる。
後漢の高祖(劉知遠)は皇帝に即位後すぐの翌年948年1月に死去し、次の皇帝は、18歳の隠帝劉承祐が後を継いだ[7]。
950年4月に遼軍の南下に備えるため郭威は枢密使で「天雄軍節度使」となって鄴都へ赴任した[7]。この機に乗じ、隠帝側近により有力な武臣の粛清が行なわれた[7]。これに対し、郭威は直ちに行動を起こし開封へ入城して隠帝側近を殺した[7]。この際に隠帝劉承祐も殺された[7]。
郭威は一旦は劉知遠の甥(劉知遠の弟の劉崇の子)の劉贇(当時の武寧軍節度使)を次の皇帝に擁立したが、遼軍の南下に備えるために開封から東へ移動途次の澶州で、部下から皇帝に推戴され、こうして郭威は帝位に就き「後周」を建国した[7]。
後周の建国により不要となった劉贇は徐州から開封へ向かう途中で殺害された[11]。
劉贇の父の劉崇は自身が「河東節度使」として駐屯する晋陽で後漢を継承したとして自立し、十国の一つ「北漢」を建てた[12]。
その後、北漢は後周に代わって成立した北宋に滅ぼされる979年5月まで続いた[13]。
代数 | 廟号(諡号) | 名前 | 在位 |
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1 | 高祖 | 劉知遠 | 947年 - 948年 |
2 | 隠帝 | 劉承祐 | 948年 - 950年 |
劉知遠1 | 劉崇(1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劉承祐2 | 劉贇 | 劉鈞(2) | 娘 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劉継恩(3) | 劉継元(4) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
元号 | 年数 | 備考 | |
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1 | 天福 | 946年 - 947年 | 後晋の石敬瑭が使ったものを復活させた[* 4]。 |
2 | 乾祐 | 948年 - 950年 |
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