とくがわ よしひろ 徳川 義寛 | |
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生誕 |
1906年11月7日![]() |
死没 | 1996年2月2日(89歳没) |
国籍 |
![]() |
出身校 |
東京帝国大学文学部美学美術史学科 ベルリン大学 |
職業 |
侍従(1936年 - 1969年) 侍従次長(1969年 - 1985年) 侍従長(1985年 - 1988年) 公益法人日本博物館協会会長 |
子供 | 徳川義真 |
親 |
父:徳川義恕男爵 母:徳川寛子 |
徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年11月7日 - 1996年2月2日)は、日本の官僚。宮内官僚として52年にわたり天皇家を支え、昭和天皇の側近、侍従長の役割も果たした。
尾張(名古屋)藩主徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子は北白川宮永久王の妃で皇籍離脱後は香淳皇后付の女官長、皇太后宮女官長を務めた。
1906年(明治39年)、尾張徳川家分家、徳川義恕の長男として東京府に生まれる。1927年(昭和2年)、学習院高等科を卒業し、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。1936年(昭和11年)、侍従となる。
終戦前夜、降伏を阻止しようとする陸軍幹部らの反乱(宮城事件)にあい、脅されながらも昭和天皇の玉音放送の録音盤を守った[1][2]。
戦後も昭和天皇の側近を務め、宇佐美毅宮内庁長官や入江相政侍従長らとともに、1971年(昭和46年)のヨーロッパ各国歴訪、1975年(昭和50年)のアメリカ合衆国ご外遊にも随行した[3]。
1985年(昭和60年)に入江侍従長の逝去を受けて侍従長に就任した。以降はから1988年(昭和63年)まで昭和天皇に仕えた[2]。
1964年(昭和39年)には姪の華子が義宮正仁親王と結婚して常陸宮家が興り、常陸宮妃となる。1969年(昭和44年)からは、実妹北白川祥子が女官長に就任し、兄妹で天皇・皇后に長く仕えた。 侍従長退任後は、公益法人日本博物館協会会長を務めた。没後の1999年(平成11年)に、終戦時の詳細な日記『徳川義寛終戦日記』が刊行され、話題となった。
日本の爵位 | ||
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先代 徳川義恕 |
男爵 徳川義恕家第2代 1946年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |
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