敷波 | |
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基本情報 | |
建造所 | 舞鶴工作部 |
運用者 |
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艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 吹雪型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 昭和2年度艦艇補充計画 |
起工 | 1928年7月6日 |
進水 | 1929年6月22日 |
就役 | 1929年12月24日 |
最期 | 1944年9月12日戦没 |
除籍 | 1944年10月10日 |
要目(計画時) | |
基準排水量 | 1,680 t |
公試排水量 | 1,980 t |
全長 | 118 m |
水線長 | 115.3 m |
最大幅 | 10.36 m |
吃水 | 3.2 m |
主缶 | ロ号艦本式缶4基 |
主機 | 艦本式タービン2基2軸 |
出力 | 50,000 hp |
速力 | 38.0ノット |
航続距離 | 14ノットで5,000浬 |
乗員 | 219名(もしくは220名) |
兵装 |
12.7cm50口径連装砲3基6門 13mm単装機銃2挺 61cm3連装魚雷発射管3基9門 |
敷波(しきなみ)は、日本海軍の駆逐艦。吹雪型(特型)の12番艦(特II型の2番艦)である。艦名は頻りに寄せる波に由来し、この名を受け継ぐ日本海軍の艦船としては敷波型駆逐艦「敷波」に続き2代目に当たる。
舞鶴工作部で建造。一等駆逐艦に類別された。「磯波」「浦波」「綾波」と第19駆逐隊(第2艦隊第2水雷戦隊)を編成した。
日中戦争に際しては1937年(昭和12年)、上海、杭州湾上陸作戦に参加。
太平洋戦争では、南方進攻、ミッドウェー海戦、ソロモン諸島・ニューギニアの諸作戦に参加。このうち、1942年のバタビア沖海戦では、米重巡「ヒューストン」の撃沈に貢献している[1]。その後、南方で海上護衛、哨戒活動に従事した。
1943年6月、マカッサルで爆撃を受けて損傷した軽巡洋艦「鬼怒」を軽巡洋艦「球磨」とともにスラバヤまで護衛した[2]。7月22日、スラバヤで空襲により5名が戦死した[3]。
1944年(昭和19年)8月1日、シンガポール沖にて座礁事故を起こすも、離礁に成功する。応急修理の後、本格的な修理を受けるためにヒ72船団の護衛に協力して内地に向かうことになった。しかし、9月12日0155、船団は米潜水艦「グロウラー」 (USS Growler, SS-215)の雷撃を受ける。船団護衛部隊旗艦の海防艦「平戸」に魚雷1本が命中[4][5]。平戸は閃光と水柱に包まれ、それが消えると同時に海上からその姿を消し[6]、護衛司令官の梶岡定道少将が戦死してしまう。旗艦を失い、混乱する船団は米潜水艦部隊の雷撃により被害が次々に増える中、敷波は対潜掃討を行っていたが、0655、北緯18度16分 東経114度40分 / 北緯18.267度 東経114.667度の海南島東方洋上でグロウラーの再度の雷撃で魚雷2本が立て続けに命中して4分で沈没した[7]。駆逐艦長の高橋達彦少佐以下乗員200名余りが戦死し、乗員67名が海防艦御蔵に救助された。
1944年(昭和19年)10月10日に除籍された。
※『艦長たちの軍艦史』277-278頁による。