斉燮元

斉 燮元
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1885年4月28日[1]
光緒11年3月14日)
死去: 1946年民国35年)12月18日
中華民国の旗 中華民国 南京市
出身地: 清の旗 直隷省順天府寧河県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 齊 燮元
簡体字 齐 燮元
拼音 Qí Xièyuán
ラテン字 Ch'i Hsieh-yüan
和名表記: せい しょうげん
発音転記: チー シエユエン
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斉 燮元(せい しょうげん)は清末民初の軍人。北京政府直隷派に属し、後に中華民国臨時政府華北政務委員会に加わった。撫万

事績

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直隷派として

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斉燮元は天津武備学堂、陸軍大学、日本陸軍士官学校で学び、北洋第6鎮で軍歴を開始した。1913年民国2年)以降は、陸軍第6師第12旅旅長、江西将軍署参謀長、第6師師長を歴任している。

1917年(民国6年)、直隷派の重鎮李純に随従して江蘇省に入る。斉は、江蘇督軍参謀長兼江寧鎮守使、蘇皖贛三省巡閲副使などをつとめた。1920年(民国9年)、李純が自殺すると、斉がそれを引き継ぐ形で江蘇督軍兼蘇皖贛三省巡閲使に就任し、直隷派の有力指導者となった。

1924年(民国13年)9月、斉燮元は浙江督軍盧永祥との間で、第2次奉直戦争の前哨戦となる江浙戦争を開始した。福建督軍孫伝芳の支援もあって、斉は盧を破った。しかし、第2次奉直戦争で直隷派が敗北すると、斉の立場も動揺する。奉天派張宗昌が復帰した盧を支援して南下してくると、斉は孫と「江浙聯軍」を組織して対抗しようとした。しかし、孫は中央の段祺瑞に篭絡されて動こうとしなかった。完全に孤立した斉は下野して日本へ亡命した。

続いて、1925年(民国14年)冬に、斉燮元は湖北省で再起した呉佩孚の下に加わり、十四省討賊聯軍副司令に任命された。しかし、中国国民党北伐軍に敗北して、またしても下野に追い込まれた。

親日政府での活動

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斉燮元 (『最新支那要人伝』1941年)

1930年(民国19年)、閻錫山馮玉祥らが蔣介石に挑戦すると、斉燮元もこれに参加し、江北招撫使に任命された。しかし、閻・馮は敗北し、斉は天津のイギリス租界に逃げ込む。さらに北平に移り、隠居した。

1937年(民国26年)12月、王克敏らが中華民国臨時政府を創設すると、斉燮元もこれに参加し、臨時政府常務委員(議政委員会常務委員)兼治安部総長に特任された[2]。翌1938年(民国27年)4月19日、陸軍軍官学校校長を兼任した[3]。このほか、清郷総署督弁も兼ねている。

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。斉燮元は同委員会常務委員兼治安総署督弁に特派され[4]、これと同時に、新たに組織された華北綏靖軍の総司令にも特派されている[5][6]。また、国民政府中央では中央政治委員会聘請委員[7]に任命された。同年4月2日、国民政府中央の軍事委員会委員を兼任した[8][9]1943年(民国32年)2月、華北政務委員会内務総署督弁に就任し、諮議会議副議長も兼ねた。

日本敗北後の1945年(民国34年)12月5日、斉燮元は張英華李鵬図(斉の義弟、妻の弟)らと共に、軍事委員会調査統計局(軍統)によって天津特別市で逮捕された[10][11]。翌1946年(民国35年)5月27日に南京へ護送され[12]、首都高等法院で死刑判決を受けている。同年12月18日、南京市雨花台で銃殺刑に処された[13]。享年62(満61歳)。

脚注

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  1. ^ 『最新支那要人伝』は1879年生まれとするが、本記事は徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』、来新夏ほか『北洋軍閥史』に従う。
  2. ^ 『同盟旬報』1巻18号通号18号、昭和12年12月中旬号、同盟通信社、38頁。
  3. ^ 臨時政府令、令字第175号、民国27年4月19日(『政府公報』第14号、民国27年4月25日、臨時政府行政委員会公報処、1頁)。
  4. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
  5. ^ 国民政府令、民国29年3月30日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、国府2頁)。
  6. ^ 華北政務委員会の人事自体は、発令前の同月22日における中央政治会議で議決された(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
  7. ^ 第2期以降は「延聘委員」。なお、中央政治会議を改組した中央政治委員会の人事は、発令前の同月24日に決定・公表されている(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、185-186頁)。
  8. ^ 国民政府令、民国29年4月2日(『国民政府公報』第19号、民国29年5月13日、国民政府文官処印鋳局、1頁)。
  9. ^ 斉燮元の軍事委員会委員就任自体は、発令前の前月22日における中央政治会議で、すでに議決されていた(『外交時報』94巻2号通号849号、昭和15年4月15日、外交時報社、182-185頁)。
  10. ^ 李(2002)、616頁。
  11. ^ 益井(1948)、132頁では「北平で逮捕」としている。
  12. ^ 益井(1948)、19頁。
  13. ^ 益井(1948)、132頁。

参考文献

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  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2001年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 
  • 李鵬図「我所知道的斉燮元」中国人民政治協商会議全国委員会文史資料委員会編『文史資料存稿選編 第2輯 晩清 北洋 下冊』中国文史出版社、2002年。ISBN 7-5034-1254-2 
  • 益井康一『裁かれる汪政権 中国漢奸裁判秘録』植村書店、1948年。 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
李純
江蘇督軍
1920年10月 - 1924年12月
(1921年9月までは署理)
次代
韓国鈞(江蘇督弁)
  中華民国臨時政府
先代
(創設)
治安総長
1937年12月 - 1940年3月
次代
(廃止)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
華北政務委員会
治安総署督弁
1940年3月 - 1943年11月
次代
(廃止)
先代
王揖唐
華北政務委員会
内務総署督弁
1943年2月 - 11月
次代
(廃止)