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新字体(しんじたい)は、日本で第二次世界大戦後に告示された漢字表に示された漢字の字体のうち、従前の活字と異なる形となった簡易字体(略字、異体字)を指す。新字体に対し、日本語でそれ以前に慣用されていた漢字の字体を「旧字体」という。
新字体は明治期から続く文字改革の流れで誕生した。すべてが戦後に新しく考案されたのではなく、従来広く手書きで使われていた誤字・譌字・略字を正式な字に昇格させたものが多い[1]。1923年に臨時国語調査会が発表した「常用漢字表」に略字表が含まれるなど、戦前から略字の導入が構想されていた。
1946年に内閣が告示した「当用漢字表」では131字が簡易字体で示され、1949年に告示した「当用漢字字体表」[2]により、約500字が簡易字体となった[3]。1951年には当用漢字以外で子の名付けに使うことができる漢字を示す「人名用漢字別表」が告示されたが、その中には「彦」「穣」「聡」「蘭」のように当用漢字に合わせて字体整理が施された簡易字体のものがあった。1950年代以降に活字の改刻が進むと、新聞や書籍など印刷物の漢字はほぼ全面的に新字体に切り替えられた。
当用漢字は、原則として印刷文字の字形と筆写文字の字形をできるだけ一致させることを目指した。必ずしも筆写に適していない従来の活字字体を、画数の多さなどを理由に略字体や俗字体に変更した。
一方、1981年制定の「常用漢字表」(2010年改定)は主として印刷文字の面から検討され、明朝体活字の一種を用いて字体例を示している(通用字体)。通用字体は(狭義の)新字体をすべて蹈襲し、1981年に追加された字種では、新字体に準ずるものが採用された。さらに1981年「常用漢字表」告示の際には「燈」を簡略化した「灯」を通用字体として採用した。
新字体は、旧字体の旁(つくり)を同音の画数の少ない文字に差し替える、複雑な部分を省略した記号に置き換えるなどの手法で簡略化したものである。新字体に対し、明治以来使用されてきた漢字の字体は「旧字体」「正字体」「康煕字典体[注釈 1]」などと称される。そもそも当用漢字の制定以前は、学校で使用される教科書においても複数の字体が併用されるなど、字体について厳密な統一がなされていなかった。ゆえに個々の文字について旧字体とみなされる字体は必ずしも一定ではないものの、おおまかには康煕字典体と一致し、台湾・香港などで用いられている繁体字におおむね一致する。
新字体の滲透は漢字により差があり、新字体が多く使われるが逆の場合もある。
「当用漢字表」まえがきで固有名詞は「別に考えることとした」とされたことから、人名や地名などでは旧字体や異体字の使用が継続されており、JIS漢字コードやUnicodeでも新字体とその他の字体が混在並存するため、混乱が生じることもある。
当用漢字は、1920年代から具体化しつつあった漢字略字化案をもとに国語審議会が制定し、1946年11月16日に内閣によって告示された1850字の漢字である。この際に、当用漢字外の漢字の使用が制限された。続いて1949年に「当用漢字字体表」が告示され、ここでは楷書や草書で使用されていた字体などをもとに、多くの新字体が採用されている。
1948年1月1日の戸籍法改正により、当用漢字外の漢字は子の命名に使用できないとされたが、これに対する国民からの不満が大きかったため、1951年5月25日より人名用漢字が「人名用漢字別表」として追加指定されるなど、使用可能な漢字の制限はいくぶん緩和された。
1981年に、当用漢字の後継として常用漢字が制定された。常用漢字は当用漢字とは異なり、表外漢字の使用を制限するものではなく、分かりやすい文章を書くための漢字使用の目安とされるものである。
新字体は、本来当用漢字・常用漢字・人名用漢字のみに適用されるものであるから、これらの漢字表に含まれない「表外漢字」には及ばない。たとえば、「擧」は「挙」に簡略化されたが、「欅」は同じ「擧」の部分を含んでいながらも表外漢字であるため簡略化されない。
しかし1950年代には、常用漢字表で採用されている新字体の略し方を、改定前の常用漢字表にない漢字にも及ぼした字体である「拡張新字体」が出現した。当初は新聞の書体として用いられ、朝日新聞では独自に表外字の簡略化を徹底した字体(朝日文字)を作り使用していた時期があった。
拡張新字体はその後、1983年に制定されたJIS X 0208-1983(83JIS、いわゆる「新JIS」)にも採用された。表外字も広く常用漢字にならって簡略化され、「欅」を簡略化した「﨔」という字体もある。また「灘」は「さんずい」以外の部分が「難」と同じように略されたが、2014年に制定されたJIS X 0213-2014では「くさかんむり」状の部首が「廿」の形へ改められている。
漢字は字形が繁雑なため、第二次世界大戦前から筆記時には多くの略字が通用していた。「門」・「第」がしばしば略字「门」・「㐧」で書かれるのと同様である。個別に簡略を行ったため、例えば同じ「しんにょう」を含む漢字でも、「道」・「通」は簡略化されているが、「遜」・「逕」など20世紀中に当用漢字・常用漢字・人名用漢字とされなかった漢字は基本的に簡略化されていない。
旧字体 | 舊 | 體 | 來 | 鐵 | 與 | 學 | 臺 | 氣 | 國 | 關 | 眞 | 澤 | 鹽 | 櫻 | 廣 | 邊 | 濱 | 寶 | 惠 | 齒 | 縣 |
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新字体 | 旧 | 体 | 来 | 鉄 | 与 | 学 | 台 | 気 | 国 | 関 | 真 | 沢 | 塩 | 桜 | 広 | 辺 | 浜 | 宝 | 恵 | 歯 | 県 |
2通り以上の字体が使われていた漢字を統一したもの。「効」の字には「效」という字体もあるが「効」に統一された。
手書きの形に合わせたものもある。「道」などの「しんにょう」は活字では二つ点、筆記では一つ点で書かれていたため、原則として一つ点に統一された。また、「青」は「月」の部分が活字では「円」、筆記では「月」と書かれていたため「月」に統一された。なお漢字の「円」は「圓」と書かれていたため「月」と混同することはない。
「半」・「尊」・「平」・「益」などは、「ソ」の部分が活字では逆の「ハ」となっていたが「ソ」に原則統一された。「絆」・「鮃」などは現在も「ハ」の形のままであるものの、筆記でこれにならう必要はない。
字体の統一は徹底したものではなく、前述のとおり、地名や人名などの固有名詞ではある程度例外が許容されている。
「葛」の字は葛飾区における字体が「」(人葛)であり、葛城市の字体は「」(ヒ葛)である。JIS X 0208の例示字形は「」(ヒ葛)とされているが、JIS X 0213:2004では「」(人葛)に変更され、2006年以降主要なオペレーティングシステムの標準フォントはこれに準拠している。
「しんにょう」の「点の数」は人名など「司馬遼太郎」の「遼」や「辻邦生」の「辻」は二つ点である。さらに「若槻禮次郎(礼次郎)」のように「礼」の字が4字体、「郎」の字が2字体あるために、表記に揺れが生じる例もある。
「半」や「平」が「ハ(半、平)」か「ソ(半、平)」かについても、「佐藤」や「加藤」の「藤」は「ハ藤(藤)」、「ソ藤(藤)」といって戸籍上は区別されており、「藤」については「くさかんむり」の「+ +」形や「月」の点を斜めに打つ場合もある。
新字体の導入後に旧字体を意図的に使用する例もある。大相撲の元横綱曙太郎の四股名「曙」は、当初は旁の「署」に点がなかったが「『点』は『天』に通じ、天下を取ってから点をつける」といい、大関昇進と同時に「点のある『曙』」に改められた。
眞子内親王の名前「眞子」は新字体では「真子」となるが、固有名詞にも新字体を使うことを原則とする新聞などのマスメディアにおいても新字体での表記は見られない。映像作家の手塚眞の本名は新字体で「真」と表記するが、旧字体の「眞」で活動している。その他、筆名や芸名、バンド名、フィクションなどの作品名で、あえて旧字体を使用する例が多数ある。
鉄道駅の駅名では、元になる地名や施設名が旧字体を使う場合でも新字体にする場合が大半(例:四條畷市と四条畷駅、五條市と五条駅、當麻寺と当麻寺駅など)であるが、区別のため旧字体を使用する例もある。例えば兵庫県美方郡香美町の山陰本線にある「餘部(あまるべ)駅」は1959年に開業したが、すでに同じ兵庫県内の姫新線に1930年開業の「余部(よべ)駅」が存在し、区別のため新字体の「余」ではなく旧字体の「餘」を使用している。また、駅名に大学の名称が含まれる場合に、旧字体が正式名になる大学名で駅名にも旧字体を使用する場合(例:獨協大学前駅、龍谷大前深草駅など)がある。
漢字の行書体及び草書体を活字体として楷書体化し、新字体にしたもの。圖→図、觀→観、晝→昼など。「門」の略字「门」も書き順は違うが行書に由来する。中国大陸の簡体字では「门」を採用しているが、日本の活字では通常は使用しない。
漢字の一部分を削る。「応」は「應」と書いたが「倠」を削除、「芸」は「藝」であったが中間にある「埶」部分を削除、「圧」は「壓」から「猒」を削除、「缶」は「罐」から「雚」を削除、「聴」は「聽」から耳の下「王」と罒と心の間の「一」を削除、「独」と「触」は「獨」と「觸」から「罒」と「勹」を削除、「県」は「縣」から「系」を削除、「号」は「號」から「虎」を削除、「処」は「處」から「虍」を削除、「医」は「醫」から「殳」と「酉」を削除、「声」は「聲」から「殳」と「耳」を削除、「予」は「豫」から「象」を削除、「余」は「餘」から「𩙿」を削除、「糸」は「絲」であったのをひとつにし、「虫」は「蟲」をひとつにした。だが、これにより、後述の通りもとあった別字と重複したり、本来の部首まで削られたがために部首が変更されたりした漢字も数多く存在する。
ただし、新字体の中には筆画(画数)が増加したものもある。たとえば「歩」がそうであり、旧字では右下の点のない「步」であった。このため、「頻」や「涉」といった字も「頻」・「渉」というように1画増やされている。旧字体「卷」の下の「㔾」(二画)が「己」(三画)になり、「巻」になったら一画増えることになった。「卑」・「免」(四角の中から外へ線がつながるか否か)、「致」(旁が「夊」から「攵」に)、「雅」・「緯」(「ヰ」の部分の左下をつなげるか否か)なども増加している。
簡略化のために部首が変わった字もある。「闘」がそれであり、もともと、部首は「門(もんがまえ)」ではなく「鬥(とうがまえ)」で、もとの字体は「鬬」または「鬪」である。この部首の文字には「鬨」や「鬩」などがある。現在、多くの辞書が「門」の部に「闘」を掲載している。同様の例は他に「効」、「勅」、「収」、「叙」も該当し、もとの字体はそれぞれ「效」、「敕」、「收」、「敍」で「攴(ぼくにょう)」から「效」、「敕」は「力(ちから)」に、「收」、「敍」は「又(また)」に変わり、多くの辞書が「力」の部に「効」と「勅」を、「又」の部に「収」と「叙」をそれぞれ掲載している。そのほか「党」、「秘」、「覇」も該当し、もとの字体はそれぞれ「黨」、「祕」、「霸」で「黨」は「黒(くろ)」から「儿(ひとあし)」に、「祕」は「示(しめすへん)」から「禾(のぎへん)」に、「霸」は「雨(あめかんむり)」から「襾(にし)」に変わり、多くの辞書が「儿」の部に「党」を、「禾」の部に「秘」を、「襾」の部に「覇」をそれぞれ掲載している。
「声」、「医」、「号」、「処」、「点」などは本来の部首を取り除いた(「声」は「聲」から「耳」、「医」は「醫」から「酉」、「号」は「號」から「虍」、「処」は「處」から「虍」、「点」は「點」から「黒」がそれぞれ部首である)ため辞書での扱いが変わった。多くの辞書では、「声」は「士(さむらい)」の部、「医」は「匸(かくしがまえ)」(「匚(はこがまえ)」と統合されていることもある)の部、「号」は「口(くち)」の部、「処」は「几(つくえ)」、「点」は「灬(れっか)」の部に掲載されている(が、旧字体の部首から「声」を「耳部」、「医」を「酉部」、「号」と「処」を「虍部」、「点」を「黒部」に分類する辞書も存在する)。
「争」、「為」、「寿」、「売」、「変」、「双」、「両」、「当」、「帰」などは本来の部首の部分が変わった(「争」は「爭」から「爪」、「為」は「爲」から「爪」、「寿」は「壽」から「士」、「売」は「賣」から「貝」、「変」は「變」から「言」、「双」は「雙」から「隹」、「両」は「兩」から「入」、「当」は「當」から「田」、「帰」は「歸」から「止」がそれぞれ部首である)ため辞書での扱いが変わった。多くの辞書では、「争」は「亅(はねぼう)」の部、「為」は「灬(れっか)」の部、「寿」は「寸(すん)」の部、「売」は「士(さむらい)」の部、「変」は「夊(すいにょう)」(「夂(ふゆがしら)」と統合されていることもある)の部、「双」は「又(また)」の部、「両」は「一(いち)」の部、「当」は「⺌(しょう)」(「彐(いのこがしら)に分類する辞書もある)の部、「帰」は「刂(りっとう)」の部に掲載されている。
「並」、「万」、「円」、「尽」、「塩」、「与」、「旧」などは本来の字体と全く変わった(「並」は「竝」から「立」、「万」は「萬」から「艸」、「円」は「圓」から「囗」、「尽」は「盡」から「皿」、「塩」は「鹽」から「鹵」、「与」は「與」から「臼」、「旧」は「舊」から「臼」がそれぞれ部首である)ため辞書での扱いが変わった。多くの辞書では、「並」、「万」、「与」は「一(いち)」の部、「円」は「冂(けいがまえ)」の部、「尽」は「尸(しかばね)」の部、「塩」は「土(つちへん)」の部、「旧」は「日(ひ)」の部に掲載されている。
漢字の大半は形声文字である[注釈 2]。形声文字には事物の類型を表す意符と発音を表す音符がある。「青」・「清」・「晴」・「静」・「精」・「蜻」・「睛」がみなセイの音をもつのは音符が「青」であるためであり、「清」の場合、部首の「さんずい」が意味を、「青」が音を表している。「練(レン)」・「錬(レン)」」・「蘭(ラン)」・「欄(ラン)」・「瀾(ラン)」の音符は「煉瓦」の「煉」のように「柬(カン)」であるが、「柬」は「東」と略されている。そのため「東(トウ)」を音符にもつ「棟」・「凍」とは区別がつかなくなっている。
繁雑な音符をもつ漢字を、同じ音を持つ別の音符に置き換えてつくられた新字体がある。たとえば、「囲」はもともと「圍」であったが、「韋」も「井」も同じイと読む(ただし、「井」は訓)ため簡単な井に変更された。竊→窃、廳(廰)→庁、擔→担、膽→胆、證→証、釋→釈[注釈 3]、癡→痴、廣→広[注釈 4][注釈 5]、犧→犠、據→拠、鐵→鉄なども同様。なお、「魔」や「摩」を「广+マ」、「慶」・「應」を「广+K」・「广+O」、「機」を「木キ」と書く人がいる[4]が、それもこれを応用した略字といえよう。
当用漢字字体表による簡略化には部分字形の不統一が幾つか見られる。
「瀧」は「龍」を「竜」に簡略化して「滝」となったが、「襲」は簡略化されていない[注釈 6]。「獨」・「觸」は「蜀」を「虫」に簡略化して「独」・「触」に、「屬」・「囑」は「蜀」を「禹」に簡略化して「属」・「嘱」となったが、「濁」は簡略化されていない。「佛」・「拂」は「弗」を「厶」に簡略化して「仏」・「払」となったが、「沸」・「費」は簡略化されていない。「假」は「叚」を「反」に簡略化して「仮」となったが、「暇」は簡略化されていない。「燈」は「登」を「丁」に簡略化して「灯」に[注釈 7]、「證」は「登」を「正」に簡略化して「証」になったが、「登」・「澄」は簡略化されていない[注釈 8]。「傳」・「轉」は「專」を「云」に簡略化して「伝」・「転」に、「團」は「專」を「寸」に簡略化して「団」になったが、「專」は「専」と中央部を省略したにすぎない。「碎」・「粹」・「醉」は「卒」を「卒」の異体字の「卆」に簡略化して「砕」・「粋」・「酔」になったが、「卒」単独字は「卆」を正字に採用しなかったほか、「率」は簡略化されていない[注釈 9][注釈 10]。
「呈」・「程」・「聖」などでは「壬(テイ、土部1画)」を「王」に変えたが、「廷」・「庭」・「艇」では「壬」のままであった。「壬(ジン、士部1画)」を部分字形に持つ「任」・「妊」も「壬」のままであった。「犯」の旁の部分「㔾」は「犯」・「厄」・「危」・「腕」・「範」では変わらないが、「巻」・「圏」では「己」に変えている。「偉」の旁の部分「韋」は「偉」・「違」・「緯」・「衛」では変わらないが、「圍」では「韋」を「井」に変えて「囲」になった。「域」の旁の部分「或」は「域」・「惑」では変わらないが、「國」では「或」を「玉」に変えて「国」になった。「凝」の旁の部分「疑」は「凝」・「疑」・「擬」では変わらないが、「癡」では「疑」を「知」に変えて「痴」になった。「損」の旁の部分「員」は「損」・「韻」・「員」では変わらないが、「圓」では字体を変えて「円」になった。「偶」の旁の部分「禺」は「偶」・「愚」・「遇」・「隅」では変わらないが、「萬」では字体を変えて「万」になった[注釈 11][注釈 12]。
主に上記のように簡略化されているが、既存の別の字と重なってしまったものもある。
中国文学者の高島俊男は、漢字の導入は日本語にとって不幸なことであったとする一方[6]、筆写字(手書き文字)は文章の中の文字であり文脈で読まれるものだから他の文字と類似してもかまわないが[7]、印刷字は一つ一つが独立してその字でなければならず、印刷字を筆写字と同じようにした新字体は間違いだったと主張している[8]。高島は、印刷字を筆写字にあわせてしまったために、例えば、「專」は「専」、「傳」・「轉」は「伝」・「転」、「團」は「団」となってしまい、「專」の部分が持っていた「まるい」・「まるい運動」という共通義をもった家族(ワードファミリー)の縁が切れてしまったと指摘している[9]。