方 以智(ほう いち、拼音: 、1611年11月30日(万暦39年10月26日[1]) - 1671年11月9日(康熙10年10月7日))は、中国明末清初の思想家・自然学者・儒学者・禅僧。
清への仕官を拒み流浪の僧となった。イエズス会士の影響を受けつつ物理学・博物学・天文学・地理学・医学・音韻学を広く論じた。「質測・通幾」や三教合一の思想を説いた[2]。江戸時代の儒学者・本草学者・蘭学者に著作が読まれた。近現代の中国哲学研究で再評価された。著書に『通雅』『物理小識』『東西均』『薬地炮荘』など[3]。
字は密之(みつし)[2]。出家後の法名は大智または弘智[4]、字は無可、通称は薬地和尚。号は曼公・鹿起・龍眠愚者・浮山愚者[2]など。
1611年、南直隷安慶府桐城県[5]浮山(現在の安徽省銅陵市樅陽県[6])の名家に生まれる。幼少から学才を発揮し、家学である易学から天文暦学・医学・音楽・書画・兵法まで広く修めると同時に、李之藻の叢書『天学初函』等を通じてイエズス会士の著作を読み、特にニコラ・トリゴーの『西儒耳目資』を読んで中国語のラテン文字転写に関心を持つ[1]。また、アダム・シャールやフランチェスコ・サンビアシ、熊明遇[注釈 1]と若くして交流する[1][7]。
20歳頃、李自成の農民反乱が桐城まで波及したため、南京に避難する[8]。南京では、陳子龍・夏允彝らと交流する[9]。彼らとの縁で復社に参加し[9]、侯方域・冒襄・陳貞慧とともに「四公子」の一人に数えられる[10]。
1639年29歳の時、郷試に合格、翌年殿試に合格、進士となる[11]。庶吉士を務めた後、32歳の時、翰林院検討となる[11]。
1644年、順が北京に入ると投獄され拷問を受けるが、やがて脱獄し、妻子を置き去りにして出奔する[12]。その後、清を避けて南明に仕えるが、政争により辞職、以降偽名で薬売りなどをしながら遊歴生活を送る[12][13]。
1651年、広西でムスリムの清将馬蛟麟に捕まり[12]、服従か死か迫られるが、死を選んだ結果、却って釈放される[13]。その際、梧州の雲蓋寺で剃髪して僧となり、同寺に寓居する[12]。同寺で自祭文を書き、明の滅亡と同時に自分は死んだと宣言する[5]。翌年、施閏章とともに廬山に赴いた後[13]、桐城に帰郷し家族と再会する[5]。
1653年、南京の天界寺にて曹洞宗覚浪道盛禅師のもとで受戒、その後、南京の高座寺に潜居し著述に専念する[14]。
1655年、父の方孔炤が没したため3年間帰郷、その後6年近く諸寺を放浪する[14]。
1664年、放浪を終え、江西省吉安府の青原山浄居寺にて笑峰大然禅師後任の住職となる。以降、書き溜めてきた著書を立て続けに刊行する[14]。また、明代の書院を復興し鄒守益・聶豹の遺緒を継ごうとする[14]。この頃、王夫之・熊開元・金堡・余颺・張自烈(『正字通』の作者)らと交流する[14]。
1671年、「粤案」の容疑(おそらく復明運動関与の容疑)で逮捕され、吉安府から粤西の流刑地に護送中、贛江の万安県惶恐灘付近で病没する[14][15]。自殺とする説もある(余英時の説)[16][17]。
諸著作で「質測」と「通幾」を標語として掲げた。「質測」は「事物の観察を重んずる自然科学的思考」、「通幾」は「事物の背後にある理・兆しに通達する哲学的思考」のような意味であり、学者は両者を兼ね備えるべきだと説いた[22]。 「質測」と「通幾」は、父の方孔炤の造語と推定される[23]。序文を寄せた游子六『天経或問』でも使用されている[23]。
方以智の宇宙観は、後述の1950年代の侯外廬以来、「火一元論」と称される[24]。火一元論の形成過程には諸説あり[24]、張載の気一元論[24]、朱震亨の相火論[25]、覚浪道盛の尊火論[25]、西洋の四元素論[24]などの影響が指摘されている。
方以智は『物理小識』で「ヒトの脳」について論じたことでも知られる[26][27]。中国医学では、精神の座は脳ではなく心臓とするのが伝統的だったが、方以智は西洋医学の影響で脳局在論を主張したとされる[26][27]。以上の内容は、20世紀初頭の医学史家富士川游に端を発する[26]。21世紀現代では、脳局在論ではなく脳と心臓の折衷論だったとする指摘もある[28]。
その他、『草書扇面』『四妙図』『枯樹図』[39]などの書画が伝わる。
同時代の王夫之に思想が高く評価された[40]。王夫之は、方以智の「質測」の手法こそが真の「格物窮理」であり、宋代の邵雍や蔡元定の手法は偽りの格物窮理であると評した[41][40]。また王夫之は、方以智が諸葛亮の木牛流馬を論じたことにも言及している[42]。
清末までの間、『浮山文集』が禁書に認定されたものの[43]、『通雅』『物理小識』『薬地炮荘』は『四庫提要』に著録された[44]。しかしながら、目立った受容は無かった[44]。
清末の光緒10年(1884年)、『物理小識』が再刊された[32]。
江戸時代の日本では、『通雅』と『物理小識』が儒学者・本草学者・蘭学者に盛んに受容された[45][注釈 2]。また、序文を寄せた游子六『天経或問』も盛んに受容された[47]。
儒学者では、三浦梅園が『贅語』で『物理小識』を引用している[30]。また、新井白石は『東雅』と『同文通考』で『通雅』を引用しており、小瀬復庵から『物理小識』を借りたとする書簡も残っている[48]。また、伊藤東涯は『名物六帖』時運箋で『通雅』を引用しており、手沢本にも『通雅』と『物理小識』がある[49]。その他、太宰春台『聖学問答』、中村蘭林『学山録』にも受容されている[49]。
本草学者では、小野蘭山が『本草綱目啓蒙』で『通雅』と『物理小識』を引用している[50]。また、平賀源内は『物類品隲』で『物理小識』を引用しており、『火浣布略説』の火浣布観にも影響を受けている[51]。その他、貝原益軒にも受容されている[49]。
蘭学者では、杉田玄白が『解体新書』で『物理小識』を暗に引用している[52]。その他、志筑忠雄『暦象新書』[53]、宇田川榕菴『舎密開宗』『植学独語』[30]、大槻玄沢『重訂解体新書』[54][55]、山村才助『訂正増訳采覧異言』[55]にも受容されている。
好古家の藤原貞幹は、粘葉装を論じる際に『通雅』を参照している[56]。
『通雅』と『物理小識』は、清からの輸入と和刻本出版の双方が行われた。長崎奉行所の役人だった大田南畝は、随筆『瓊浦又綴』で、文化2年に『物理小識』が唐船持渡書として輸入されたことを取り上げている[48]。松平定信は随筆『花月草紙』で、『物理小識』の和刻本を出版したいと思ったが、書肆の須原屋伊八(須原屋の一員)が既に出版していたので断念した、と語っている[46]。
民国初期の梁啓超は、『通雅』を小学[要曖昧さ回避]書として高く評価し[57]、黄宗羲・顧炎武・王夫之・朱舜水と並ぶ「清初五大師」の一人に位置付けた[58]。明治日本では、上記の富士川游が『物理小識』の脳説に着目した。
中華人民共和国では、1957年の侯外廬の論文[59]を皮切りに、唯物論者・無神論者として盛んに研究されるようになった[60]。侯外廬は、上記の1962年の李学勤本『東西均』に序文を寄せてもいる[5](李学勤は侯外廬の元助手にあたる)。1964年に毛沢東や楊献珍が関与した「一分為二と合二而一」論争の「合二而一」は、『東西均』三徴篇に由来する言葉である[61]。2001年には龐朴が『東西均』の最初の注釈書を刊行した[5]。
中華人民共和国以外でも、余英時[62]、重澤俊郎[62]、坂出祥伸[62]、小川晴久[62]、杉本つとむ、W.J.ピーターソン[62]ら多くの学者が研究している。