方宗鰲 | |
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『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1884年[1][2][3][4] |
死去: | 不詳[5] |
出身地: | 清広東省普寧県 |
職業: | 教育者・経済学者・官僚・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 方宗鰲 |
簡体字: | 方宗鳌 |
拼音: | Fāng Zōng’áo |
ラテン字: | Fang Tsung-ao |
和名表記: | ほう そうごう |
発音転記: | ファン・ゾンアオ |
方 宗鰲(ほう そうごう、1884年 – 没年不詳)は、中華民国の教育者・経済学者・官僚・政治家。別号は少峯[1]。主に経済学者として活動する一方で、中華民国臨時政府と南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。
清末の1903年(光緒29年)に日本へ留学し、東京同文書院を卒業した。帰国後は故郷の普寧県で師範速成学校を創立している。1908年(光緒34年)に官費留学生として日本へ再び留学し、山口高等商業学校を卒業[1]。1914年(民国3年・大正3年)に明治大学商科を卒業した[6]。なお、来日中には進歩党東京支部政務部長をつとめており、雑誌『国家及国家学』に寄稿している[7]。
帰国後は北京の各大学で教鞭をとり、北京中国大学教務長兼商学系主任、朝陽大学教授、北京大学法学院教授を歴任し[2][3]、経済学の論文を各雑誌に都度都度寄稿している。
王克敏が中華民国臨時政府を樹立すると、方宗鰲は初めて政界入りし、議政委員会秘書長(議政委員会委員長:湯爾和)として抜擢された[8]。1939年(民国28年)1月9日、 黎世蘅と入れ替わりで教育部次長(教育部総長(兼):湯爾和)に改任される[9]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流して華北政務委員会に改組されると、教育部も教育総署に改組された。5月4日、方宗鰲は教育総署署長代理[10]兼秘書主任に任命されている[11][12]。11月8日、教育総署督弁・湯爾和が病没したため、翌9日から12月19日まで、方が署長代理在任のまま督弁事務を代行している[13]。周作人が後任の督弁に就任した後の1941年(民国30年)7月1日、方は署長代理等を辞職し[14]、政界から離れた。
翌月の8月1日、方宗鰲は新設された(正確には復活した)北京大学法学院の院長に就任している[15]。1944年(民国33年)10月25日、新たに発足した中日文化協会華北総分会の理事に就任した[16]。
1945年以降における方宗鰲の動向は不詳である。