於乙于同 (オウルドン) | |
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生誕 |
朴丘麻(パク・グマ) 生年不明 朝鮮忠清北道陰城郡 |
死没 |
1480年10月18日 朝鮮京畿道開城府 |
国籍 | 朝鮮 |
著名な実績 | 詩・漢詩 |
民族 | 朝鮮民族 |
於乙于同 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 어(을)우동 |
漢字: | 於(乙)于同 |
発音: | オウ(ル)ドン |
ローマ字: | Uhwudong |
英語表記: | Uhwudong |
於乙于同または於乙宇同(オウルドン、어을우동)、生年不詳 - 1480年10月18日)は、李氏朝鮮第10代国王成宗の治世中に活躍した両班出身の詩人、書道家、画家、妓生。於于同または於宇同(オウドン、어우동)とも呼ばれている[1]。
両班の妻でありながら、多くの男性と肉体関係を持った人物として知られる。当時、儒教主体の朝鮮では姦通は殺人罪に次ぐ、重罪であった。
本貫は陰城朴氏、父は承文院(現在の外交部にあたる)知事を務めた朴允昌(パク・ユンチャン)である。本名は丘麻(クマ、구마)とされる[2]。朝鮮第3代国王太宗の子・孝寧大君の孫にあたる泰江守・李仝(テガンス、イ・ドン)[3]と結婚し、1女を儲けた。しかし、夫は燕軽飛(ヨンギョンビ、연경비)という妓生を寵愛してしまう[2]。さらに、彼女は他の男性と密通した濡れ衣を着せられ、夫の家を追い出されてしまう。
彼女は麗しい美貌と長年、培ってきた高い教養を利用して、妓生に扮しながら、王族男性や官吏、奴婢と肉体関係を持つようになった。このような噂は王宮にまで伝わるようになり、彼女は抑留された。国王成宗と義禁府は厳重な審問を行った。
成化16(1480)年10月18日、成宗から風紀を乱した罪[4]として、絞首刑により処刑された。しかし、彼女と姦通した男性達は軽罪又は無罪であった[5][6]。