設立 | 1966年(昭和41年) |
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設立者 | 初代中央委員会議長:福田正義 |
種類 | 政治団体 |
目的 | 共産主義・毛沢東主義・反米愛国 |
本部 | 日本 山口県下関市上田中町3-3-28 |
公用語 | 日本語 |
会長 | 本田和人 |
重要人物 | 森脇保、寺尾五郎 |
機関紙 |
公式サイト:人民の星&機関紙:革命戦士(最終:2018年5月号) 関連紙:長周新聞 |
ウェブサイト | 人民の星社(最終更新:2018年5月号) |
日本共産党から分裂した党派 |
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Portal:政治学 |
毛沢東思想 |
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日本共産党(左派)(にほんきょうさんとう さは)は、共産主義を目指す日本の左翼組織の一つ。日本共産党から中国共産党への反党対外盲従・極左として除名された福田正義らが1969年11月に結成した[1]。毛沢東主義・親中国共産党系である[2][3]。スターリン主義時代のソ連に肯定的であり、ウクライナ戦争など米露対立深化以降はロシアよりも欧米・ウクライナに批判論調である[4]。「日共左派」、「山口左派」「人民の星派」ともいう。主に山口県で活動する。結党時から、左翼ナショナリズム色が強い「反米帝・反売国の愛国正義」を掲げる[2][5][3]。日本共産党(左派)の公式サイトと機関紙の最終更新は2018年であるが[6]、除名前で日本共産党中国地方委員会の常任委員時代の福田正義が1955年4月に創刊した長周新聞[7]は、2022年5月時点で更新中である[8]。
1966年6月に、日本共産党山口県委員会では日本共産党中央指導部の自主独立路線をめぐり、県委員長山田喜一ら中央支持派と、県常任委員福田正義らの中国共産党路線支持派に分かれて対立した[9]。同9月3日の山口県党第11回県委総会で中央派が福田ら5名を除名し、反中央派幹部を相次いで統制処分にした[9]。このため「長周新聞」を発行して同志の糾合を図っていた福田らは、9月30日に「日本共産党山口県委員会(左派)」を結成した。
1969年11月に福田らは、「日本共産党(左派) 第一回全国大会」を開催し、「一九二二年以来の日本共産党の革命的伝統を継承する唯一の組織」[10]と称し、以後「日本共産党(左派)中央委員会」と名乗った。
山口県に拠点を置き、毛沢東主義の立場から、中国共産党の長征になぞらえて山口県を「日本の延安」と捉えていた[11]。概して新左翼の学生運動には好意的だったが、連合赤軍は批判していた[12]。1971年9月20日に議長の福田が訪中した際、周恩来首相に「日本の真の革命政党の代表」と持ち上げられた[13]。中華人民共和国がアメリカ合衆国と関係を改善すると、さらに急進的な共産主義国家だったアルバニア派(ホッジャ主義)に転向した後、再び毛沢東主義へと戻っている。現在ではフィリピン共産党のシソン派など他国の毛沢東主義派グループと国際的な関係を持っている。
ゆとり教育と「個性重視教育」が「凶暴な攻撃的個人主義」を育てているとみなす観点から体罰を肯定的に捉えるなどの主張をしている[14]。
機関紙やホームページでは、「闘」は「斗」(「斗争」「斗い」など)、「働」は「仂」(「労仂者」など)、「々」は使わない(「人々」は「人人」など)、韓国について言及する際は国名を括弧書き(在「韓」米軍)するなど、独特の表記を用いるのが特徴。
かつては新左翼と同様にヘルメットを用い、白地に赤色ふち入りで前面に黒字で「先鋒」と記す。
1969年11月30日に採択された第一回全国大会の政治報告では、明治維新以後の戦前の日本は絶対主義天皇制の帝国主義国家であり、1945年の敗戦後の日本はアメリカ帝国主義に従属し、アメリカ資本と国内の独占ブルジョワジーによって政治、経済的に支配されている独占資本主義の従属国だと規定した[2]。その観点から「売国反動派」のブルジョワジーを批判し、日本人民のアメリカ帝国主義と国内の反動派との闘争を重視している[2]。スターリン批判後のソビエト連邦を修正主義、社会帝国主義であると批判し、トロツキズムと日本共産党の修正主義はマルクス・レーニン主義・毛沢東主義に敵対するアメリカ帝国主義の手先だと断じている[2]。アメリカ帝国主義と独占売国ブルジョワジー双方に反対する、プロレタリア社会主義世界革命の一環としての「反米帝・反売国の愛国正義」の日本革命を訴えた[2]。
日本共産党は日本共産党(左派)を分派と規定し、「福田一派」という用語などで批判している。他にも日本共産党は1967年時点で「日本共産党(左派)」を反党対外盲従分子又は極左日和見主義者又は極左日和見分子、反党教条主義者としている[3]。
他に関連紙として『長周新聞』(長周新聞社)がある。
主に長周新聞勤務員などを「民主主義と生活を守る下関市民の会」推薦の無所属候補として擁立している。1979年の下関市議会議員選挙において「民主主義と生活を守る下関市民の会」会長の小倉哲郎が当選して以降、途中空白期間を挟み兵頭典将、次いで本池妙子を同市議選にて当選させている(いずれも長周新聞勤務員)。候補者や議員の動向は『人民の星』や『長周新聞』などで詳しく伝えられる。2019年の同市議選では本池妙子に代わって長周新聞記者の実娘本池涼子が立候補。3000票以上獲得し、立候補者41人中第5位で当選した[15]。議会内では会派に所属していない[16]。