General Council of Trade Unions of Japan (JCTU) | |
略称 | 総評 |
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設立年月日 | 1950年(昭和25年)7月11日 |
解散年月日 | 1989年(平成元年)11月 |
後継組織 |
日本労働組合総連合会 総評センター |
組織形態 | ナショナルセンター |
加盟団体数 | 50単産(うちオブザーバー加盟1単産)[1] |
組合員数 | 391万人 |
国籍 | 日本 |
本部所在地 |
〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3丁目2-11 総評会館(現・連合会館) 北緯35度41分44.7秒 東経139度45分55.6秒 / 北緯35.695750度 東経139.765444度 |
支持政党 | 日本社会党 |
日本労働組合総評議会(にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)は、かつて存在した日本における労働組合のナショナルセンター。略称は総評(そうひょう)。1950年に設立され、日本社会党を支持・議員を多数輩出し、戦後日本における最大の全国的労働組合の中央組織・圧力団体であった[2]。1980年代後半以降の労働戦線統一の流れにより、日本労働組合総連合会(連合)に発展的解消を遂げる形で1989年に解散した。
第二次世界大戦の日本敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の保護と育成の下に再出発した日本の労働運動は経済・社会情勢を背景に急進的かつ政治的色彩の濃いもので、日本共産党も大きな影響力を及ぼしていた。しかし冷戦の勃発によりGHQが反共姿勢(いわゆる「逆コース」)を強めたことに伴い、1947年(昭和22年)の二・一ゼネスト中止、東宝争議への米軍出動など、日本共産党の影響力が強い産別会議や全労連などに集約されていた労働運動は行き詰まりをみせた。1948年(昭和23年)にはGHQの意向により政令201号が公布され、公務員の争議権が剥奪された。さらに1950年(昭和25年)にはレッドパージにより共産党員とシンパが大量解雇されるに至った。
そのため労働組合主義や日本共産党の排除、国際自由労連(世界労連から分裂して結成)加盟などを指向する運動潮流の分岐と結集が進んだ。
1950年(昭和25年)7月11日、日本労働組合総評議会(総評)の結成大会が東京都港区の東交会館で行われた[3]。初代議長には炭労出身の武藤武雄、事務局長には都市交出身の島上善五郎が選出され、総同盟、国労、日教組、都労連、海員組合、私鉄総連など主要なナショナルセンターと単産(産業別単一労働組合の略[4])が参加した。総評結成にはGHQの強い意向が働いており、結成大会で日本共産党排除や国際自由労連への接近を内容とする大会宣言を採択し、産別会議・全労連とは一線を画する労働組合として出発した。
こうしてGHQの援助の下に、反共的色彩の強いナショナルセンターとして出発した総評であったが、翌1951年3月10日の第二回大会で、講和をめぐって民同左右が対立し、行動綱領として再軍備反対・全面講和・中立堅持・軍事基地反対の平和四原則を決定し、国際自由労連に加盟する議案を否決するなどして、右派が後退し、早くも左傾・反米へと方向転換した。事務局長に高野実を選出した。吉田内閣が国家公安保障法(後に破防法として成立)、集会デモ取締法、ゼネスト禁止法、労働三法改正の成立を図ったことに対し、同1951年6月に「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を設置し、国会審議中の1952年には政治ゼネストを4波にわたって行った(労闘スト)。日本炭鉱労働組合連合会(炭労)と電力会社の単産である日本電気産業労働組合(電産)を筆頭に、加盟単産も戦闘的な労働争議を展開した。総評のこの変化を当時のマスコミは「ニワトリからアヒルへ」と呼んだ。一説に、これは総評の変化を当時のGHQ労働組合担当者が「チキン(臆病者)が役立たず(lame duck、レームダック)になった」と罵ったのを、通訳が理解できず「アヒルになった」と直訳したからという。
1952年7月の第3回大会では、右派の国際自由労連一括加盟案が否決され、左派社会党への支持を決定して左派路線を明確にした。人事においても電産委員長の藤田進が新たに選ばれるとともに高野実が事務局長に再選され、民主化同盟(民同。二・一ゼネスト中止後に労組内から日本共産党の勢力を排除する[5])左派の主導権が確立した。一方で右派は役員を出さず、総評内の左右の対立は深まっていった。
1952年12月25日、全繊同盟・海員組合・全映演・日放労の4単産は、総評指導部の政治闘争を重視した指導を批判する「総評批判――民主的労働組合の立場に立って」と題する声明を発表し、右派系組合と執行部の確執が表面化した(4単産批判)。両者の対立は解消されることなく、7月8日の第4回大会を経た1953年7月から11月にかけて日放労を除く右派系の3単産は相次いで総評から脱退し、右派ナショナルセンターである総同盟を1951年6月に再建、1954年4月22日には新たな連絡協議体として全日本労働組合会議(全労)を結成した。
一方で総評は3単産の脱退を機に階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え、第2回大会以来の路線転換を完成させた。日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。総評の持つ政治的影響力は絶大で、しばしば横紙破りな行動が物議をかもしたところから「昔陸軍、今総評」などと揶揄された。この総評の左派路線形成には社会主義協会の影響があった。関係者の回想では、1950年代後半から1960年代にかけて、総評本部の専従者はほとんどが社会主義協会会員であったという。
1958年2月15日、産別会議は2つの単産が加盟していたのみだったが、その1つの主力単産である全日本金属労働組合(全金属)が総評の全国金属労働組合(全国金属)と統合して総評へ合流し、同時に産別会議も解散した。 同年8月15日、和歌山県で勤務評定反対、民主教育を守る国民大会を開催。行われたデモで警官隊と衝突。また、傘下の労働者子弟の登校拒否を支持した[6]。
1961年5月18日、週刊誌『新週刊』を創刊、1962年7月5日、廃刊、負債4億700万円、1962年7月24日、週刊新社(石川達三)から再刊、10月16日、休刊。
1978年(昭和53年)には、OECD労働組合諮問委員会へ参加した。
1983年(昭和58年)には49単産451万人、全組織労働者の36%が総評傘下にあり、その約7割は官公労働者であった。毎年中立労連とともに春闘共闘会議を組織し、春闘を賃金決定機構として定着させた。
1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(全民労連。後の日本労働組合総連合会(連合))に合流するため、1989年11月に解散した。
総評の政治活動を継承する組織としては、1989年9月に総評センターが作られ、さらに1992年10月には社会党と連帯する労組会議に移行。そのようにして、連合とは別の形態で日本社会党(のちに社民党)を支持していたが、民主党の結成後は軸足を民主党に移す動きが強まり、1997年7月に民主・リベラル労組会議に移行。1999年5月には、連合政治センターの結成に伴い、民主・リベラル労組会議も解散し、独自の政治活動に一応の終止符を打った。
2017年10月には立憲民主党が結成され、旧総評系労組の組織内議員の大半が参加した。
日本社会党支持を運動方針に明記し、日本共産党とは個別の課題で共闘するとしていた。1964年の4.17ゼネスト問題で、日本共産党がストライキに反対する方針をとった結果、一部の組合では組合内の日本共産党員に対して攻撃をかけることもあった[7]。
解散を決定した臨時大会(1989年11月)が開かれる直前である、1989年7月の加盟単産を以下に示す[8]。結成当初は民間の基幹産業の単産も多く加盟していたが、民間労組の多くが同盟に加盟するようになると、官公庁労組が中心となった。