日本美術院

公益財団法人日本美術院
設立 1898年明治31年)
種類 公益財団法人
法人番号 2010505001952 ウィキデータを編集
本部 東京都台東区谷中四丁目2-8
理事長 田渕俊夫
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本部

公益財団法人日本美術院(にほんびじゅついん)は、1898年創立の美術家の団体であり、公益財団法人院展は日本美術院の公募展(展覧会)の名称として現在も使われており、院展と日本美術院はほぼ同義に扱われることが多い。現在は日本画のみを対象としている。

沿革

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  • 1898年(明治31年)、岡倉覚三(天心)が東京美術学校を排斥されて辞職した際[1]に、自主的に連座して辞職した美術家達(橋本雅邦六角紫水横山大観下村観山寺崎広業小堀鞆音菱田春草西郷孤月)がいた。彼らは日本美術界の旧弊に抗う岡倉の美術研究の構想に賛同し、岡倉がそれをまとめる形で美術研究団体としての日本美術院谷中大泉寺にて結成した[注釈 1]。7月1日に創設趣旨を発表し、10月15日に創立した。
  • 第一回展覧会では横山大観の「屈原」が展示された。以後、日本絵画協会と合同で春秋2回、絵画展覧会を開催するが、1900年(明治33年)秋季の展覧会が最盛期で、以後資金の欠乏、院の内紛、綱紀の乱れなどが原因で徐々に沈滞するようになる。
  • 1905年(明治38年)に茨城県・五浦海岸へ別荘(六角堂)を建設した岡倉は、翌1906年(明治39年)に第一部(絵画)をそこへ移転させる。しかし当時の岡倉はフェノロサの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に入っており、五浦とボストンを往復するうちに同院への興味を失っていく。1906年9月6日に規則を改正し、第1部(絵画)を東京に、第2部(彫刻)を奈良に置き、12月ころ第1部は茨城県五浦の研究所に移り、大観・春草・観山・木村武山は天心にしたがって同地に移住した。
  • 1910年(明治43年)、岡倉がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、同院は事実上の解散状態となる。
  • 1914年大正3年)、文展(文部省美術展覧会)に不満を持つ大観や観山らは、前年に岡倉が歿したことを契機にその意志を引き継ぐ動きを見せ、9月2日開院式をおこない、日本美術院を再興する。場所は谷中三崎坂南町52番地(現所在地)[2]。1946年9月2日開院式、同人は今村紫紅・横山大観・安田靫彦・小杉未醒・下村観山・木村武山ら。
  • 1935年昭和10年)5月28日、文相松田源治が美術界の挙国一致体制をととのえるために帝国美術院を改組すると発表。既存の会員に加えて在野とみなされていた芸術家20人を加える内容で、日本美術院のメンバーからは横山大観を含む7人が新たな会員に選ばれた[3]。5月31日、帝国美術院規定を廃し、帝国美術院官制を制定(勅令)。6月1日、栖鳳・大観・藤島・安井らを会員に任命し、美術界は改組をめぐって紛糾し、とりわけ旧帝展系作家に不満がおこった。
  • 現在、日本を代表する日本画の美術団体としてその活動を継続している。

過去に存在した部門

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第二部

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国宝の修理などを事業として行う日本美術院第二部が奈良に設置された。しかし、美術院の運営がうまくいかなくなり事実上茨城県五浦に移転した際、第二部は国宝などが多く修理の依頼も多い京都へ移転し、美術院という名で分離し別個に運営を行うことになった。なお、この第二部は公益財団法人美術院という名称で現存しており、「公益財団法人美術院国宝修理所」を運営している。

彫塑部・洋画部

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当初は美術全般の団体として日本画部・彫塑部・洋画部を有していたが、下記の事情により彫塑部と洋画部が消滅した。

彫塑部
1920年(大正9年)に彫刻部から彫塑部へと名称変更したのち、1961年(昭和36年)に解散する。
洋画部
1920年(大正9年)、小杉未醒(放庵)が離脱したことにより洋画部所属同人が連袂退会し、解消に至る[4]

主催展覧会

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同院が主催する展覧会である院展は一般に公募展と認識されているが、その実体は、所属を問わず広く作品を募り審査を経て出品される一般の部と、審査を経ずに出品される同人の部から構成されており、公募を行っているのは前者の一般の部のみである。 また、規定サイズを号で表示しない理由は、同院発足時に尺貫法で規定したものをメートル法へ換算したため該当する号が無い、との説が有力である。

春の院展

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毎年4月上旬(年度により3月下旬の場合もある)より日本橋三越本店にて約2週間開催されるのを皮切りに、約4ヶ月かけて全国10ヶ所弱を巡回する。三越本店会場は入場無料であるが、巡回会場は基本的に入場有料である。 同展覧会の前身が習作展試作展小品展であることから、秋に行われる再興院展よりも出品サイズが小さく、特に同人作家にとっては実験的な作品を発表する場として位置づけられている。

  • 規定サイズ
    • 縦型(外装込) - 150cm×75cm以内
    • 自由形(外装込) - 106cm×106cm以内
  • 主な賞
    • 外務大臣賞
    • 春季展賞
    • 奨励賞

再興院展

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毎年9月上旬より東京都美術館にて約2週間開催されるのを皮切りに、約1年かけて全国10ヶ所強を巡回する。全会場で入場有料。 規定サイズが大きく、作品を分割して運搬する作家も散見される。また、規定サイズを大幅に下回る作品が出品されることは皆無である。これは、小さな作品は春の院展で取り扱う慣例に倣ってのことである。

  • 規定サイズ
    • 縦横自由(外装込) - 225cm×180cm以内
  • 主な賞
    • 内閣総理大臣賞
    • 文部科学大臣賞
    • 日本美術院賞(大観賞)
    • 奨励賞

院内の序列

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同院は出品者に序列を設けている。昇格基準は非公開だが、低いものから順に以下の通りである。 地位が上がれば入賞・入選しやすくなるということは無く、むしろ序列の高い者ほど弛まぬ努力を要求される。同人作家は特別な理由の無い限り毎回出品しなくてはならない、などがその最たるものであろう。

  • 一般
  • 研究会員
  • 院友
  • 特待
  • 招待
  • 同人

重要人物一覧

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主幹

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評議員長

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特別賛助員

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名誉賛助員

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正員

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姓名50音順、日本美術院創立時のもの。

同人

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推挙順、2004年(平成16年)3月現在。

日本画

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彫刻・彫塑

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洋画

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注釈

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  1. ^ 当初の構想では、絵画や彫刻だけでなく、漆工、金工、銅鋳、陶器のような装飾芸術の分野も含まれ、岡崎雪声宮川香山なども会員であった。『東洋の理想』 ニヴェデイタの「序文」8頁。

脚注

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  1. ^ 川路柳虹『現代日本美術界』中央美術社、1925年、P.60頁。 
  2. ^ 石井柏亭『日本絵画三代志』創元選書、1942年、P.176頁。 
  3. ^ 帝国美術院の改組を閣議承認『大阪毎日新聞』昭和10年5月29日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p410 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 川路柳虹『現代日本美術界』中央美術社、1925年、P.66頁。 

参考文献

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  • 日本美術院編『日本美術院百年史第1~15巻』 日本美術院刊、1989~1999年。
  • 日本美術院編『日本美術院百年史索引』 日本美術院刊、2004年。

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯35度43分19.7秒 東経139度46分4.2秒 / 北緯35.722139度 東経139.767833度 / 35.722139; 139.767833