日産・NPT-90は、1990年に日産自動車傘下のニッサン・パフォーマンス・テクノロジー(NPTI)によって開発されたレーシングカー。これは、1989年にIMSAで総合優勝し、大成功を収めた日産・GTP ZX-Tの後継車。NPT-90は、1990年と1991年のチャンピオンシップを勝利し、1992年シーズンの終わりに日産はIMSAから撤退した。
正式にはNPT-90として知られているが、GTP ZX-Turboのネーミングが描かれたマシンでレースを続けた。これは、日産がその名前を使用して300ZXを販売する為の試みだった。
GTP ZX-Turboの5年間の開発と改良の後、日産はトヨタとジャガーの参戦により、チャンピオンシップを守り続けるには新型車が必要であること考えた。そのため、日産の北米モータースポーツ部門であるNPTIは、元のローラ・T810/日産ベースのシャーシをやめ、まったく新しいマシンを製造した。新車は以前の角張った外観を直し、コックピットは丸く狭くなった。車のノーズにある大きな吸気口も小さなダクト形状に置き換えられ、ターボチャージャー用の大きな垂直のエアインテークは車の側面に配置された。
日産は、GTP ZX-Turboの3リッターターボチャージャー付きV6エンジン、VG30を引き続き使用することにしたが、2バルブに代わり、4バルブヘッドを追加するなど、より高出力を可能にする改良を加えた。1992年に最終的に、日産はNPT-91でVG30の排気量を2.5Lに減らすことを選んだ。
NPT-90はその参戦中の間にアップグレードされ、1991年シーズンの半ばに車名がNPT-91に変更された。 1992年のさらなるアップグレードは、 NPT-91AからNPT-91Dとしてさまざまな仕様で示された。
最初のNPT-90シャーシが開発中であった間、NPTIはGTP ZX-Turboを使用して1990年シーズンを戦った。最初のシャーシはシーズン途中で完成し、ハートランドモータースポーツパークでデビューし、2位のGTP ZX-Turboに続いて8位でフィニッシュした。ライム・ロック・パークでのエンジントラブルにより、NPT-90はレースから外れたが、次戦のミッドオハイオでレースに勝利したことで、戦闘力を示すことができた。ワトキンスグレンで2回目の優勝をし、2番目のシャーシが完成すると、NPT-90にGTP ZX-Turboからマシンを引き継いだ。
残りのシーズン、NPT-90はロード・アメリカでの1勝しかできなかったが、両方の車での上位フィニッシュとシーズン初めのGTP ZX-Turboの勝利により、日産は2年連続でコンストラクターズチャンピオンシップを獲得する。ジェフ・ブラバムは3年連続のドライバーズチャンピオンシップ獲得した。
1991年シーズン前、日産はNPT-90はスプリント指向の設計のために、耐久レースのデイトナ24時間レースには出場しない事になった。しかし、前年度とは異なり、日産はヨーロッパからの日産・R90CKを参戦させ、総合2位に入りチャンピオンシップを支援した。しかし、NPT-90はセブリング12時間レースには使用され、日産は1,2位を獲得することに成功した。しかし、より短いレースでは、ジャガーが日産を圧倒し始め、3連勝した。アップグレードされたNPT-91がトピーカとライム・ロック・パークで勝利を収めた。しかし、ジャガーは勝利を重ね、トヨタとプライベーターのイントレピッドもレースで勝利を収めた。
時々のレースで3台の車を走らせたとしても、NPT-91は、シーズンの残りの間、勝利を獲得することができなかった。しかし、これまでと同様に、シーズン中の安定したポイントフィニッシュにより、日産は3年連続のコンストラクターズチャンピオンシップを獲得することができた。ジェフ・ブラバムは、チームメイトのチップ・ロビンソンをわずか5ポイントで破り、4度目のドライバーズチャンピオンシップを獲得した。
デイトナ24時間レースで日本の日産・R91CPが総合優勝を果たした。この勝利に続き、NPT-91がマイアミでのレースで勝利した。しかし、続くセブリングで日産は4年連続の勝利を獲得することができなかった。残念ながら、この傾向はシーズンが進むにつれて続き、NPT-91はアクシデントとさまざまなメカニカルトラブルに苦しだ。
ロード・アトランタのレースで、タイヤのバーストで2台のNPT-91シャーシを破壊する2回の大規模なクラッシュが起こった。チップ・ロビンソンもジェフ・ブラバムも幸い大きな怪我を負わなかったが、チームマネージャーのトレバー・ハリスは後に「その週末から本当に回復したことはなかった」と語った。 [1] [2]
シーズンの途中でツインターボ付きのNPT-91Cスペックが加わっても、NPTIチームは苦戦を続けた。チームはまた、資金調達にも苦労していた。そのシーズンは1勝にとどまり、日産はトヨタに次ぐコンストラクターズチャンピオンシップで2位になった。ジェフ・ブラバムは、ドライバーズチャンピオンシップで3位だった。
日産はNPT-90に代わる新しいマシン開発を開始した。 IMSAのGTP規則に準拠するために、日産・P35を開発する作業が開始された。しかし、IMSAは1994年にGTPクラスを廃止する意向を発表し、日産は再び新しいマシン開発を停止した。日産は代わりに量産車ベースのIMSAクラスでの240SXと300ZXの取り組みに集中することを選択した。
ワークスの撤退によって、自動車パーツメーカーモモの創業者、ジャンピエロ・モレッティは1993年シーズンに使用するためにNPT-90(シャーシ番号90-03)を購入した。この車は、セブリング12時間レースで2位、ミッドオハイオで3位となるなどいくつかのレースで良いパフォーマンスを発揮した。モモ・レーシングの活躍により、日産はコンストラクターズチャンピオンシップで3位を獲得し、モレッティはドライバーズチャンピオンシップで3位となった。同年シーズンを最後にGTPクラスは廃止され、NPT-90はIMSA GTPレースから姿を消した。
シャーシ番号90-03のNPT-90(1993年の元モレッティのシャーシ)は、1996年のデイトナ24時間レースでペガサスレーシングによってエントリーされた。IMSAのWSC(ワールド・スポーツカー)規制に準拠するように屋根は外され、シャーシは軽量化され、 BMW V12エンジンを搭載した。 [3]車はレースをスタートしたが、86周後にオルタネーターの故障でリタイアし、総合67位、クラス13位だった。 [4]ドライバーは、フアン・カルロス・カルボネル、ジム・ブリオディ、ジョン・フィールドによってドライブされた。
シーズン後半、ジェイコブスモータースポーツはペガサス・NPTIでマイケル・ジェイコブスを2回(ワトキンスグレン6時間とデイトナフィナーレ)走らせようとしたが、どちらのエントリーも叶わなかった。 [5]