日産・バイオレット | |
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![]() 2代目 1979年6月改良型 | |
概要 | |
別名 | 日産・バイオレットリベルタ (3代目) |
販売期間 | 1973年 – 1984年 |
ボディ | |
ボディタイプ | |
駆動方式 | 後輪駆動 |
系譜 | |
先代 | ダットサン・ブルーバード(510型) |
後継 |
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バイオレット(VIOLET)は、日産自動車がかつて生産・販売していた中級小型乗用車。
1971年8月に登場した610型ブルーバードUは、それまでの510型ブルーバードからクラス・価格ともに上級へ移行したため、従前のブルーバードユーザーがブルーバードUへの代替を躊躇する懸念があった。さらはに日産サイドの商品企画や販売政策もあって、610型ブルーバードUの発売以降も、510型ブルーバードはラインナップを大幅に整理した上で併売されることとなった。
これを受けて510型ブルーバードの実質的な後継車種とするべく、下級のサニーと上級のブルーバードUの中間を担う新規車種として開発されたのがバイオレットである。型式はブルーバードの系列である「710型」が割り当てられており、ブルーバードに「710型」は存在しない(610型の次は810型となる)。
日産・バイオレット(初代) 710型系 | |
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![]() 1973年1月発売型 4ドアセダン 1400GL | |
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概要 | |
販売期間 | 1973年1月 - 1977年5月 |
ボディ | |
乗車定員 | 5名 |
ボディタイプ | |
駆動方式 | 後輪駆動 |
パワートレイン | |
エンジン |
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変速機 |
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サスペンション | |
前 | マクファーソンストラット式独立懸架 |
後 | セミトレーリングアーム式独立懸架(リーフ式車軸懸架) |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,450 mm |
全長 | 4,120 mm |
全幅 | 1,580 mm |
全高 | 1,385 mm(セダンは1,405 mm) |
車両重量 | 925 – 1,000 kg |
その他 | |
ブレーキ |
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販売終了前月までの新車登録台数の累計 | 30万6419台[1] |
系譜 | |
先代 | ダットサン・ブルーバード |
1973年1月に登場[2]。キャッチコピーは「もう、なにかが始まっている。」、「しなやかなクルマ」(発売当初)[3]、「伝統のメカニズム」[4]。
ボディタイプは当初4ドアセダン、2ドアセダン、2ドアハードトップの3種類[2][5]。後に5ドアのライトバンが追加された[6]。
サスペンションは、前輪にはマクファーソンストラット式独立懸架が全車に採用され、後輪は、スポーツグレードのSSSにのみ510型ブルーバードと同様のセミトレーリングアーム式独立懸架、その他のグレードにはリーフ式車軸懸架が採用された[7][注釈 1]。ラリーでは510型ブルーバード譲りのスポーツグレード・SSS(スリーエス)が活躍していた。
510型ブルーバードが直線的でクリーンな外観だったのに対し、710型バイオレットは複雑な曲面で構成されたファストバックスタイルだが、後方視界と居住性の悪さが不評[9][10]で、後に4ドアセダンはノッチバックスタイルへ大幅なマイナーチェンジを行う[10]。タクシー仕様車では、710型バイオレットの4ドアセダン(5人乗り・3速コラム・前席ベンチシート、L16型 1,600 cc LPG)が、510型ブルーバードのタクシー仕様車の実質的な後継車種として発売され(上級クラスへ移行した610型ブルーバードUにはタクシー仕様車が設定されていなかった[注釈 2])、エンジンは後に昭和50年・51年排ガス規制に絡んでL18型 1,800 cc LPGに変更されている。なお、当時右側通行であった沖縄向けに左ハンドルのタクシー仕様車もごく少数生産された。1976年7月に、810型ブルーバードにタクシー仕様車が設定された後も1977年5月頃まで販売が継続されていた。
日産・バイオレット(2代目) A10型系 | |
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![]() 1977年5月発売型 2ドアセダン(米国仕様) | |
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![]() 1979年6月改良型 4ドアセダン(輸出仕様) | |
概要 | |
別名 | ダットサン・510(北米) |
販売期間 | 1977年5月 - 1984年 |
デザイン | 山下敏男 |
ボディ | |
乗車定員 | 5名 |
ボディタイプ | |
駆動方式 | 後輪駆動 |
パワートレイン | |
エンジン |
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変速機 |
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サスペンション | |
前 | マクファーソン式ストラットコイル |
後 | 4リンクコイル式リジッド(リーフ式リジッド) |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,400 mm |
全長 |
4,080 mm(クーペは4,260 mm、コンビは4,150 mm) |
全幅 | 1,600 mm |
全高 |
1,390 mm(クーペは1,350 mm、コンビは1,410 mm) |
車両重量 | 870 – 990 kg |
その他 | |
ブレーキ |
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販売終了前月までの新車登録台数の累計 | 25万1001台(オースター/スタンザとの合算)[14] |
系譜 | |
後継 | ダットサンADバン |
1977年5月20日、A10型にフルモデルチェンジ[15]。ブルーバードから独立し独自の型式が与えられた。
デビュー時のボディタイプは4ドアノッチバックセダンと、「オープンバック」と称する3ドアハッチバッククーペ、そしてライトバンの3種類(海外市場向けはライトバンの代わりにステーションワゴンが設定)。その後1980年には5ドアハッチバックセダンを追加している[16]。
サスペンションは、前輪は先代モデルと同じマクファーソン式ストラットコイル、後輪は全車種4リンクコイル式リジッド[15][17](ライトバンはリーフ式リジッド[15])であった。セダンは510型ブルーバードを意識したボクシーで機能的なスタイルに戻っている。
姉妹車として、スポーティ志向の「バイオレットオースター」(→オースター)、ラグジュアリー志向で「ミニ・セドリック」的な性格の「スタンザ」が登場[17]。さらに、モデルチェンジで下級クラスに回帰した910型ブルーバードの登場後は、同じ販売店で競合することとなる。
オーストラリアではバイヤーに人気があったものの、スタイリングやドライブトレーンに関して特に「Wheels」誌[要文献特定詳細情報]によって大きく批判されていた。メキシコではダットサン・サムライ(DATSN-SAMURAI)として、後の日産・サムライ (NISSAN-SAMURAI) として現地生産・販売を行っていた。メキシコ及びラテンアメリカ圏では1984年まで生産・販売が続けられ、後継としてB11型ツル(日本名:サニー)が投入された。
日産・バイオレットリベルタ (3代目)[23] T11型系 | |
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![]() 4ドアセダン(米国仕様) | |
![]() 5ドアハッチバック(米国仕様) | |
概要 | |
販売期間 | 1981年6月 - 1982年6月 |
ボディ | |
乗車定員 | 5名 |
ボディタイプ | |
駆動方式 | 前輪駆動 |
パワートレイン | |
エンジン |
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最高出力 |
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最大トルク |
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変速機 |
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サスペンション | |
前 | 独立懸架ストラット |
後 | 独立懸架ストラット |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,470 mm |
全長 | 4,300 – 4,405 mm |
全幅 | 1,655 – 1,665 mm |
全高 | 1,385 mm |
車両重量 | 870 – 990 kg |
その他 | |
主ブレーキ |
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姉妹車 |
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系譜 | |
先代 | 日産・バイオレット |
後継 | 日産・リベルタビラ |
3代目はバイオレットリベルタ(VIOLET LIBERTA)として登場。チェリーF-IIとその後継車であるパルサーに次ぐ日産3車種目の前輪駆動車であり、新開発のCAエンジンを搭載し、日産の世界戦略車として位置づけられた。ボディタイプは4ドアセダンと5ドアハッチバックの2種類[22]。ボディと一体化したウレタンバンパーが採用され、CD値は0.38(5ドアハッチバック)[22]で、当時としては先進的なスタイルであったものの、カラードバンパー、サイドプロテクターは上級グレードのみの装備であった。
なお、当時の日産の前輪駆動(FF)技術には未熟な点があったため、エンジンの振動とトルクステアの挙動が大きい・MT車のギアレシオが高すぎるなどの欠点があった。また、駆動方式と2,000 ccのモデルの有無を除けば、日産店の主力車種であるブルーバード(排気量1,600 cc、1,800 cc、2,000 cc)と同クラス・同排気量のバイオレットリベルタ(排気量1,600 cc、1,800 cc)が競合したことも、販売面で不利に働いた。
A10/A11型は日産のWRC参戦の主力マシンとなり、1979年 - 1982年のサファリラリーで4大会連続総合優勝を達成した[28][注釈 5]。
この4連覇は全て元FIA評議委員長でケニア在住のシェカー・メッタが日産ワークス時代にドライブしたもので、WRC史上初の「同一ドライバーで同一イベント4連覇」を記録している。日本国内ではスーパーシルエットレースに参戦するなど、強烈なスポーツイメージも兼ね備えていた。PA10型のサファリラリー歴代優勝マシンは現在、メッタのマールボロ・カラーマシンも含めて全てが日産の座間事業所内にある座間記念車庫に保管されている。