木下 杢太郎 (きのした もくたろう) | |
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誕生 |
太田 正雄(おおた まさお) 1885年8月1日 日本・静岡県賀茂郡湯川村 (現・静岡県伊東市湯川) |
死没 |
1945年10月15日(60歳没) 連合国軍占領下の日本・東京都本郷区 東京帝国大学医学部附属医院 |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 |
詩人 劇作家 画家 |
国籍 | 日本 |
教育 | 博士(医学) |
最終学歴 | 東京帝国大学医科大学卒業 |
活動期間 | 1907年 - 1945年 |
主題 |
耽美詩 美術史 切支丹史 |
文学活動 | パンの会 |
代表作 |
『和泉屋染物店』(1911年) 『南蛮寺門前』(1914年) 『食後の唄』(1919年) 『芸林間歩』(1936年) 『百花譜』(1943年 - 1945年) |
デビュー作 | 「蒸気のにほひ」(1907年) |
ウィキポータル 文学 |
おおたまさお 太田正雄 | |
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研究分野 | 皮膚科学 |
研究機関 |
パリ大学 サン・ルイ病院 リヨン大学 東北帝国大学 東京帝国大学 |
出身校 | 東京帝国大学 |
主な業績 | 太田母斑の発見 |
主な受賞歴 | レジオン・ド・ヌール賞(フランス) |
プロジェクト:人物伝 |
木下 杢太郎(きのした もくたろう、1885年(明治18年)8月1日 - 1945年(昭和20年)10月15日。本名:太田正雄)は、静岡県出身の詩人、劇作家、翻訳家、美術史・切支丹史研究家。
東京帝国大学医科大学で学ぶ傍ら「パンの会」を興し、これと前後して『明星』『中央公論』『スバル』『白樺』で、詩のほか短歌・戯曲・小説などを発表。作風は南蛮情緒的、切支丹趣味、耽美享楽的などと評された。のち、自費によるヨーロッパ留学を経て愛知医科大学、東北帝国大学、東京帝国大学の医学部教授を歴任し、傍らで文明批評や随筆紀行を著述した。筆名はほかに、堀花村(ほりかそん)、地下一尺生、葱南(そうなん)、北村清六などがある。作品には詩集『食後の唄』(1919年)など。
本名の太田正雄としては医学博士としての顔を持ち、母斑症やハンセン病の治療および研究などで輝かしい業績を残した[1]。
1885年(明治18年)、静岡県賀茂郡湯川村(現・伊東市湯川)に、父・惣五郎、母・いとの末子として生まれた。兄に2代目伊東市長の太田賢次郎、土木技術者の太田圓三、甥には動物学者の太田嘉四夫(北海道大学教授)[2]がいる。 家業は「米惣」という雑貨問屋であった。その生家は現在、木下杢太郎記念館として保存されている。小学校は、東浦尋常小学校とそれが統合された伊東尋常高等小学校(現・伊東市立西小学校)とであった。
1898年(明治31年)、上京して獨逸学協会学校(現:獨協中学校・高等学校)へ入った。津田左右吉が歴史を教えた。文芸雑誌を読み、絵画にも親しんだ。文筆を習作し、同窓の長田秀雄と蒟蒻版の雑誌『渓流』を編んで回覧した。
1903年(明治36年)、第一高等学校の、ドイツ語主体で医学部希望の生徒が多い第3部へ入学し、転科を望んだ時期もあったが、1906年、東京帝国大学医科大学へ進んだ。
1907年(明治40年)、与謝野鉄幹の新詩社の機関誌、『明星』の同人となり、短編「蒸氣のにほひ」を発表した。夏に、鉄幹・北原白秋・吉井勇・平野万里と九州北部の南蛮遺跡を探訪し、新聞に連載された紀行文『五足の靴』[3]で、南蛮情緒の濃い、切支丹趣味の耽美享楽的な詩を詠んだ。
1908年(明治41年)、年初に新詩社を脱退し、暮に筆頭発起人として、白秋、勇、および、美術雑誌『方寸』同人の石井柏亭・山本鼎・森田恒友・倉田白羊らと、『パンの会』を立ち上げ、美術家たちと詩人たちがそこで若さを爆発させた[4]。3年半頻繁に催されたこの集いには、鉄幹、上田敏、永井荷風、荻原碌山、小山内薫、高村光太郎、武者小路実篤、谷崎潤一郎、岡本一平らも顔を出した。9月、上田敏の洋行壮行会で森鷗外とはじめて面語してから、ときおり鷗外を訪ねたものの、「先生から聴かうと欲した所は万事をすてて文芸の事に従へといふ言葉であった。而して先生は一度もそれらしい言葉をば言はれなかった」[5]。なお後年、鷗外宅で開かれた観潮楼歌会に出席したほか、医者としての杢太郎が強い倫理性、人道的な色彩を帯びてくるのは鷗外観の深まりとほぼ時期が同じであり、岩波講座『日本文学』(1932年(昭和7年))に載せられた「森鷗外」の執筆や『鷗外全集』(岩波書店、1936年(昭和11年) - 1939年(昭和14年))の主編集者を務める等、鷗外研究にも大きな足跡を残した[6]。
1909年(明治42年)、石川啄木創刊の『昴』の編集を手伝い、白秋・長田秀雄と季刊誌『屋上庭園』を創刊し、昴に切支丹ものの『南蛮寺門前』を載せるなどした。
『白樺』1911年11月に、評論「山脇信徳君に与ふ」を発表し、これをきっかけに武者小路実篤らと絵画の約束論争がおこった。
1911年(明治44年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、翌1912年衛生学教室を経て、鷗外の勧めに従い皮膚科の土肥慶蔵教授についた。昴へ『和泉屋染物店』を載せた。その頃から癩病研究を志した。
1916年(大正5年)から1920年(大正9年)まで、奉天(現、瀋陽)の満鉄付属地の南満医学堂教授兼奉天医院皮膚科部長を勤めた。この間に大陸の古典・古美術にも興味を広げ、中国・朝鮮を探訪。満州赴任の翌年には河合正子(姉きんの夫の連れ子)と結婚し、49歳までに二男三女をもうけた。
1921年(大正10年)から1924年(大正13年)まで欧州に留学し、主にフランスのソルボンヌ・サン・ルイ病院(Hôpital Saint-Louis)・リヨン大学で研究した。かたわら、語学を学び、各国に旅行し、南蛮・切支丹の文献を集めた。その間の1922年(大正11年)、医学博士号を得た。
1924年(大正13年)、帰国して、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)教授となり、1926年(大正15年)、東北帝国大学医学部教授に転じて、皮膚病黴毒学講座を担当した。引き続き、医真菌学の研究を行い、1930年(昭和5年)、日本ミコロギー学会を設立し国内外の専門家との交流に勤めた。
1934年(昭和9年)、皮膚科学会総会で『中毒疹』を報告した。
1937年(昭和12年)、東京帝国大学医学部教授となって皮膚科学講座を担当した。伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の研究員をも兼ね、癩病の研究を進め次第に世界的権威と目されるようになった。また、思想弾圧を受けた学生たちに心のより所を与えるため、「鷗外の会」を作って指導した[7]。
1938年(昭和13年)、『眼上顎褐青色母斑』を独立疾患として発表した。太田の名に因み『太田母斑』とも呼ばれている。
1941年(昭和16年)、日仏交換教授として、当時日本軍が仏印進駐していたフランス領インドシナへ出張し、レジョン・ドヌール勲章を受けた。
1943年(昭和18年)、『百花譜』と自ら呼んだ植物写生を始め、872枚を描いた。1944年(昭和19年)、上海・南京の医学会に出席した。
1945年(昭和20年)、4月に『わらい蕈』を、5月に『すかんぽ』を、『文芸』誌に掲載した。6月より腹部の変調を訴え、10月15日、胃幽門部の癌により、東大病院柿沼内科で没した。戒名は斐文院指学葱南居士。墓所は多磨霊園。
妻・正子は、夫の弟子に心筋梗塞の看護を受け、1980年(昭和55年)まで生きた。
裁判官・弁護士の斎藤直一、社会運動家で静岡県議をつとめた太田慶太郎は甥にあたる。
創作は、雑誌に発表してから単書にまとめた。経緯は、岩波版「全集 25巻」所収の『著作年表』に詳しい。
以下の出版年度は、西暦年次。/の前は初版、後者は復刻・改版である。