朱 樉(しゅ そう、至正16年11月11日(1356年12月3日)- 洪武28年3月20日(1395年4月9日))は、明初の皇族。
明の太祖洪武帝の次男。母は正妻の馬皇后。皇太子の朱標の同母兄弟。
洪武帝の次男として生まれる[1][2]。洪武3年(1370年)に秦王に封ぜられ、洪武11年(1378年)に西安へと赴任した[3][2]。
洪武22年(1389年)、宗室を管理する大宗正院が宗人府と改められ、朱樉はこの長である宗人令とされた[3][4]。洪武24年(1391年)、過失が多いとして首都の応天府へと呼び戻されたが、兄の朱標の取り成しにより罪を免れ、洪武25年(1392年)に西安へ帰還した[3][4]。
洪武28年(1395年)には将軍の甯正らを率いて洮州へと遠征に出て、これを降した[3][5]。洪武帝は喜んだが、同年3月に死去した[3][5]。享年は40[5]。愍の諡号が贈られた[3]。長男の朱尚炳が後を継いだ[3]。
朱樉の死因について『明史』には何も書かれないが、『太祖皇帝欽録』には朱樉が毒殺されたのではないかと述べる洪武帝の手簡が残る[6]。