朱印船(しゅいんせん)は朱印状(徳川将軍の朱印の押した渡航許可状)を外交・携えて貿易を行った船のこと。
その始まりは豊臣秀吉からとされているが、制度が義務付けられていたという確証はなく、制度化されたのは徳川家康の時代からとされる。
関ヶ原の戦いで全国統一した徳川家康は海外交易に熱心な人物で、関ヶ原の戦いから約半年前の1600年4月に豊後の海岸に漂着したオランダ船の航海士ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらを外交顧問として採用し、ガレオン船を建造させたほどである。1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、1604年に朱印船制度を実施した。これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航した。
朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎であった。なお、明は日本船の来航を禁止していたので、(ポルトガル居留地マカオを除けば)朱印船渡航先とはならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので、朱印状は発行されなかった。
家康の主目的は薫物(香道)の用材に使用する伽羅(奇楠香)の入手で、特に極上とされた伽羅の買い付けに絞っていた(『異国近年御書草案』)[1]。
いずれも赤道以北に限られていた。渡航先集計によると交趾(73回)で最も多く、暹羅(55回)、呂宋(54回)、安南(47回)と続く。
朱印船に乗り組むのは船長以下、按針航海士、客商、一般乗組員らである。航海士には中国人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人が任命されることが多く、一般乗組員にも外国人が入った。もちろん日本人もいた。
東南アジア諸港へ赴く朱印船の多くは中国産の生糸や絹の輸入が目的であった。日本でも絹は古代から産出したが、中国産に比べると品質が悪く、太平の世の到来で高級衣料である中国絹に対する需要が増大したためである。他方、かつて倭寇に苦しんだ明は日本船の中国入港を禁止しており、豊臣政権の朝鮮の役で敵対国となってからはなおさらであった。
明は中国商船の日本渡航も禁止していたが、これは徹底せず、密かに来航する中国船もあったが、日本側の旺盛な需要を満たすには十分な量ではなかった。このため明国官憲の監視が及ばず、中国商船は合法的に来航できる東南アジア諸港で日本船との出会い貿易が行われたのである。中国製品以外にも武具に使用される鮫皮や鹿皮、砂糖など東南アジア産品の輸入も行われた。
見返りとして、日本からは銀、銅、銅銭、硫黄、刀などの工芸品が輸出された。当時中国では銀が不足していたため、朱印船の主要な交易相手である中国商人は銀を欲した。しかも当時、日本では石見銀山などで銀が盛産されており、決済手段として最も適していた。ベトナムなどには日本の銅銭も輸出された。
朱印船として用いられた船は、初期には中国式のジャンク船が多数であった。後には末次平蔵の末次船や荒木宗太郎の荒木船に代表されるジャンク船にガレオン船の技術やデザインを融合させた独自の帆船が登場し、各地で製造され運用されることとなる。
それらの船のサイズは大抵500~750tであり、乗組員はおおよそ200人であった(人数が判明している15隻の平均人数は236人である)。また、東南アジア貿易が盛んであった時には、木材の品質もよく造船技術も優れていたシャムのアユタヤで大量の船が注文・購入された。
1620年代になると、朱印船が東南アジア地域の紛争に巻き込まれる事件が多発した。また、幕府の禁教令を背景にしてキリスト教カトリックの宣教師は、布教の拠点を東南アジアの日本町に移すようになり、朱印船を利用して日本人のキリスト教徒(キリシタン)や司祭を日本に送り出す戦術をとるようになった。
このような観点を踏まえつつ、江戸幕府は、東南アジア地域の紛争の悪影響の回避と、キリスト教の流入の防止の観点から、貿易の管理と統制を強化することを余儀なくされるようになった。
徳川秀忠が没し徳川家光の親政が始まると、幕府は、シナ海・東南アジア方面との中継ぎ貿易の管理と統制の拠点であった長崎の整備を進めていくことになった。1633年以降、長崎奉行は2人の旗本から任命されることとなり、幕府は、奉行が長崎に赴任するときに、奉行の職務を定めた通達(いわゆる「鎖国令」)を出した。
1633年の通達(「第1次鎖国令」)では、奉書船以外の渡航や、東南アジアに5年以上永住している日本人の帰国を禁止した。1635年の通達(「第3次鎖国令」)では、すべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国が全面的に禁止され、その結果、朱印船貿易は終末を迎えた。
この措置によって東南アジアで朱印船と競合することが多かったオランダ東インド会社が莫大な利益を得、結局は欧州諸国としては唯一、出島貿易を独占することになる。