朱 常瀛(しゅ じょうえい、1597年4月25日(万暦25年3月10日) - 1645年12月21日(隆武元年11月5日))は、中国明の皇族。初代の桂王である。万暦帝の七男で、母は李敬妃である。
李敬妃は朱常瀛を産んだ同月に亡くなった。万暦47年(1619年)8月、呂氏と結婚したが、呂氏は同月に急死した。
天啓7年(1627年)、湖南衡陽の領地に移り住んだ。官員の黄用と高道素は公金である建築資金を着服して、明らかに強度の不足している材料を桂王府の工事に使用した。翌崇禎元年(1628年)9月、一部の桁が崩壊したが、2人の官員は400両の小金を銭轡として朱常瀛に与えてごまかした。崇禎2年(1629年)3月3日未明、桂王府の屋根が突然崩れ落ち、6人の側室と侍女[1]が圧死した。朱常瀛だけでなく崇禎帝も激怒し、黄用と高道素は処刑された。崇禎9年(1636年)、新しい桂王府が落成した。
崇禎16年(1643年)、朱常瀛は張献忠の勢力を避けて広西に逃亡したが、隆武元年(1646年)11月に広西梧州で49歳で病死した。三男の朱由𣜬が王位を継いだ。
四男は南明最後の皇帝・永暦帝となったが、その際に朱常瀛は帝位を追贈された。廟号は礼宗、諡は体天昌道荘毅温弘興文宣武仁智誠孝端皇帝とされ、陵は興陵と名付けられた。