朱 標(しゅ ひょう、至正15年9月5日(1355年10月10日)- 洪武25年4月25日(1392年5月17日))は、中国・明朝の初代皇帝洪武帝の長男で皇太子。第2代皇帝建文帝の父。母は表向き馬皇后とされたが、産みの母は李淑妃[1]。
明朝創建後、皇太子に立てられて重臣常遇春の娘常氏を妻に迎える(なお、建文帝の生母は側室の呂氏である)。温厚な人柄であり、父が進める重臣たちの粛清を諌めたりしたために、父からは頼りなく思われたという。
洪武25年(1392年)4月に急死した。享年38。
父に先立って急死すると、朱元璋はその死を深く悲しんで懿文太子の諡号を贈った。さらに実子である朱允炆(建文帝)が即位すると、興宗の廟号、孝康皇帝の諡号が追号された。
朱標の早世は、父による粛清を加速させた上に、靖難の変の原因の一つになるなど、数々の悲劇を生み出す原因となった。永楽帝が帝位につくと、懿文太子に追降した。後に、弘光帝が南明の皇帝に即位すると、孝康皇帝の諡号が復されあらためて追尊された。