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名前 | ||||||
カタカナ | パク・ユンギ | |||||
ラテン文字 | Park Yoon-Ki | |||||
ハングル | 박윤기 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 大韓民国 | |||||
生年月日 | 1960年6月10日(64歳) | |||||
出身地 | 江原道太白市 | |||||
身長 | 170cm[1] | |||||
体重 | 64kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW[1] | |||||
利き足 | 左 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1979-1982 | ソウル市役所 | |||||
1983-1986 | 油公コッキリ | 84 | (19) | |||
1987 | ラッキー金星ファンソ | 13 | ( 2) | |||
1988-1989 | マツダSC | |||||
代表歴 | ||||||
1978-1979 | 韓国 U-19 /20 | |||||
監督歴 | ||||||
1991-1996 | ソウル工業高校 | |||||
2003-2004 | 江陵第一高校 | |||||
2004-2007 | ソウル工業高校 | |||||
2008 | 牙山ユナイテッドFC | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2010年12月27日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
朴 潤基[1](パク・ユンギ、朝: 박윤기[2]、1960年6月10日 - )は、大韓民国の元サッカー選手、指導者。江原道太白市出身。ポジションはフォワード(FW)。
Kリーグ初代得点王。
小学4年生からサッカーを始める。1978年東北高校在学時にU-19韓国代表に選出され、張外龍らと共にAFCユース選手権1978に出場し優勝する[3]。
1979年、家庭の経済的理由から高校卒業後は大学進学を諦め、実業団リーグのソウル市役所FCへ入団する。同年には崔淳鎬らと共にU-20韓国代表に選ばれ、1979 FIFAワールドユース選手権に3試合出場した[4]。ソウル市役所では中心選手として活躍、全国サッカー選手権大会2回優勝に貢献、1982年第37回大会にはMVPを受賞した。この活躍から1983年から始まるスーパーリーグ(現Kリーグ)のチームからスカウトされる[3]。
1983年、スーパーリーグの油公コッキリ(現済州ユナイテッドFC)に入団。開幕戦となった対ハレルヤFC(現高陽ザイクロFC)戦でKリーグにおける記念すべき1号ゴールを決めている[5]。その後も得点を重ね14試合9ゴールで、Kリーグ初代得点王および同年のベスト11に選ばれる。1985年に足首を負傷したこともあり低迷し、1986年に戦力外となった[3]。
1987年、スーパーリーグのラッキー金星ファンソ(現FCソウル)に移籍し、同年の浦項製鉄アトムズ(現浦項スティーラース)戦でKリーグ通算1000ゴール目を挙げている。ただ、このゴールが自身キャリアにおけるKリーグ最後の得点となった[3]。
1988年、日本サッカーリーグ2部のマツダSC(現サンフレッチェ広島F.C)に入団し、コーチ兼任選手として1988年-1989年のJSLの1シーズン在籍した後、現役引退した[3]。
その後は帰国しソウル工業高等学校サッカー部にスタッフ入りし安貞桓をスカウト、1991年から監督に就任し安などを指導した。また在籍中、1994年にU-19韓国代表コーチも兼務し、AFCユース選手権1994に挑むもグループリーグで敗退した。以降もアマチュアを中心に指導者として活躍した[3]。
2008年にはK3リーグ・牙山ユナイテッドFC監督に就任している。