Teruo SUGIHARA | |
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基本情報 | |
名前 | 杉原 輝雄 |
生年月日 | 1937年6月14日 |
没年月日 | 2011年12月28日(74歳没) |
出身地 | 大阪府茨木市 |
経歴 | |
成績 | |
初優勝 | 日本オープン(1962年) |
賞金王 | なし |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2014年 |
選出部門 | プレーヤー |
2009年2月25日現在 |
杉原 輝雄(すぎはら てるお、1937年〈昭和12年〉6月14日 - 2011年〈平成23年〉12月28日)は、大阪府茨木市出身のプロゴルファー。
約50年に渡って現役を続行してきた存在感の大きさから「日本プロゴルフ界のドン」と呼ばれた、永久シード権獲得者であった。
農家の三男として生まれるが、実家は僅かな小作をしながら質素に暮らしていた[1]。小学生の頃から関西の名門である茨木カンツリー倶楽部にキャディとして働き、中学卒業後の1953年に同CCに就職[2]。飴やビー玉を買うための小遣いほしさに土日、ボールを拾うため弁当を持ってクラブに通うようになったのがきっかけであった[1]。定時制高校に通いながら[2]、洗濯係を経て研修生となり、寺本金一らに師事しゴルフを始める。その頃の中卒の初任給が3〜5,000円であったが、プロゴルファーは3万円くらいはもらっていたというクラブで得た情報に、杉原は大金が取れるゴルファーになることを決め込んだ[1]。客がラウンドする前から、終わるまで練習グリーンでずっとパットをするなど努力を続け、1957年に20歳でプロへ転向[2]。
1958年の関西オープンでデビューすると、1962年の日本オープンでは一進一退の混戦を制し、陳清波( 中華民国)・橘田規・小針春芳を抑えて初優勝[3]。1963年にはアジアサーキットのフィリピンオープンでベン・アルダ( フィリピン)の2位に入り[4]、1964年には中日クラウンズで中村寅吉との競り合いを制して8打差の大逆転優勝を果たし、細石憲二に競り負けた前年の雪辱を果たした[5]。
1965年には関西オープン、関西プロを共に2連覇するなど勢いに乗り、日本シリーズでは4日間首位を走る完全優勝をさらった。初日は3アンダー70で2位の橘田と石井富士夫に5打差、2日目も71と好調で2位の橘田に8打差の独走態勢を固めた。舞台を東京に移した3日目も2アンダー70と安定し、2位の橘田に11打の大差。最終日も危なげなく前日同様の11打差をつけたまま逃げ切ったが、6アンダー284は前年優勝の陳と同スコアであった[6]。
1970年には初日69、2日目73で2日間首位を快走。東京での3日目は69で回って2位の島田幸作に4打差の大量リードとなり、最終日も危なげなく通算6アンダーで5年ぶり2度目の制覇[7]。1973年は3連覇がかかった尾崎が伸び悩んだことで安田春雄との争いになり、杉原が逆転で3年ぶり3度目の優勝を決め250万円を獲得[8]。
1965年には第1回関西有名プロゴルフ競技で50歳の戸田藤一郎と同スコアで優勝し初代覇者となり、1967年の同大会では杉本英世をプレーオフで下して2勝目を挙げる[9]。1968年にはアジアサーキットの香港オープンでランドール・バインズ( オーストラリア)の2位に入り[10]、1969年の同大会では最終日に首位に4打差でスタート[11]。土砂降りの雨の中で前半2つ伸ばし、13番からの3連続バーディーで、序盤で躓いた首位ラモン・ソタ( スペイン)を逆転[11]。ベストスコア66の通算6アンダー[11]でモーリス・ベンブリッジ( イングランド)を抑えて優勝[12]し、1977年の同大会でも謝敏男(中華民国)の2位に入る[13]。
1971年の関西プロでは56歳の戸田と一歩も譲らぬプレーオフを演じ、10番、11番、18番の3ホール合計で争うもので、2人のプレーを大勢のギャラリーが見守った[14]。10番、11番はお互いにパーで、勝負は18番にもつれ込む。途中からやや上りのホールで、56歳の戸田はすっかり疲れ果てていたが、杉原は「おとっつあん、しっかりしってよ」と戸田の尻を押しながら歩いた[14]。結果はパット勝負となり、杉原は敗れたが、戸田との互角の勝負を繰り広げたことで、杉原の名声はますます上がった[14]。
1973年にはツアー施行に伴い、賞金シード権を獲得。以降22年に渡り賞金シードを獲得し続けたが、優勝回数は国内男子プロとしては尾崎将司・青木功に次ぐ歴代3位であるものの、ツアー施行後は青木・尾崎に中嶋常幸を加えた「AON時代」[注 2]に突入していたためにレギュラーツアーにおいて賞金王を獲得したことは無い。
かつては距離のあるコースや、雨で球が飛ばなくなった日はお手上げと言われていたが、1973年のゴルフダイジェストトーナメントでは4日目は雨で時々試合は中断された程の悪条件下で優勝[15]。
1977年、1978年、1980年と全日空札幌オープンを2連覇を含めて3勝している。1977年は最終日に3番ホールの15mのロングパットを決めており、ドライバーの飛距離ではなく、小技を駆使して手堅くパープレーでまとめての逆転勝利となる。杉原は通算33勝目を挙げ、この時点で中村、尾崎と並ぶ日本最多勝記録となった[16]。1978年は精密機械のようなゴルフで青木・中嶋を圧倒し、飛ばし屋の2人がショートアイアンで打つケースを後方からウッドでピンに絡める技術を駆使し、通算4アンダーで連覇を達成。杉原は通算34勝で史上2位の中村に並ぶ[16]。1980年はスタートから名勝負を繰り広げ、最終日3番ホールから5連続バーディー。15番ホールでは木に遮られショットができない危機に陥るも、左打ちで切り抜け、3度目の大会制覇を成し遂げた[16]。
関西の若手を引っ張るリーダーとしても慕われ、1984年には日本プロゴルフ選手会初代会長に就任[2]。1987年には突然激しい腹痛に見舞われ腎嚢胞を患うが[2]、1989年にはツアー施行後25勝で永久シード権を獲得。25勝目を決めたのはダイワKBCオーガスタで、開催中は着々とスコアを伸ばし、最終日の最終18番で1.5mのバーディーパットをカップイン。世界初のツアーとシニア同年優勝と4人目の「名誉終身シード選手」を獲得[17]し、1990年には日本ユネスコフェアプレー賞を受賞。同年には「NHK趣味講座 杉原輝雄の実戦ゴルフ」に講師として出演し、1991年にはJGA認定証(グランドマスター)、1995年にはゴルファー・オブ・ザ・イヤー1995を獲得する。1997年には前立腺癌の告知を受けるが、ゴルフを続けられなくなるという理由で手術を拒否し、投薬治療を選択した。
2001年の静岡オープン以来レギュラーツアーの予選通過はなかったが、2006年のつるやオープンで58試合ぶりに予選を通過。68歳10ヶ月での予選通過は日本ツアー最年長記録であると同時に、アメリカツアーのサム・スニードが達成した67歳2ヶ月をも上回る世界最年長記録である。2008年には癌が転移していることも判明したが「生涯現役」を標榜して、シニアツアーと並行してレギュラーツアーにも出場を続け、同じ関西出身の金井清一と共に両ツアーを盛り上げた。2007年9月13日に行われた日本プロゴールドシニア最終日でエージシュートを達成しトータル3アンダー141で優勝するが、同日に行なわれたチャレンジトーナメントのSRIXONチャレンジでは長男の敏一が優勝し、親子同日優勝を達成。2008年6月14日には71歳の誕生日を迎えた日に開催された「杉原輝雄メモリアル第4回旭川オープンゴルフ選手権大会[注 3]」において予選70ストロークで決勝へ進出し、決勝でも71ストロークと2日連続のエージシュートを達成。同大会には川岸良兼、鈴木亨、宮里聖志、小山内護、宮本勝昌、加瀬秀樹、尾崎直道、飯合肇、丸山大輔、すし石垣、上田論尉等のレギュラー・シニアツアーのトッププロが出場していた[18]。7月9日、10日に行われた関西プロゴールドシニアでも70,65の2日連続のエージシュートを達成し、135の通算9アンダーで優勝した[19]。
2009年には中日クラウンズで同一大会50年連続出場を達成し、アーノルド・パーマーのマスターズ連続出場およびC.エバンズの全米アマにおける連続出場の世界タイ記録に並ぶ。2日目には11番パー4で残り150ヤードの第2打を6Iで直接沈めてイーグルを奪取し、1999年のミズノオープン初日に6番で達成して以来となる11年ぶりのイーグルで、自らの連続出場の世界記録更新に華を添えた[20]。2010年4月29日にはクラウンズ出場が51年連続となり、世界記録を更新[21]。
2011年の同大会へは体調不良の為参加を見送ると発表、記録も途切れることとなった[22]。同年12月20日にはスポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受けるが、8日後の28日に前立腺癌のため死去[23]。74歳没。法名は「釋修輝(しゃくしゅうき)」。30日には永久契約を結んでいたデサントの担当者が前日東京から足を運び、来季契約書を遺族に手渡した。翌31日の葬儀の際には棺に入れられ、粋な計らいでファンを感動させた。
2014年12月16日、第3回日本プロゴルフ殿堂入り顕彰者に選出された[24]。
前述の趣味講座の他に、サンテレビジョンで1980年代から長年にわたりゴルフレッスン番組の司会を担当した。杉原が出演した番組のタイトルは以下の通りである。なお、一部の番組には敏一も出演している。