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選手情報 | |||||||||||||||||||||
ラテン文字 | Tatsuo Sugimoto | ||||||||||||||||||||
国籍 | 日本 | ||||||||||||||||||||
種目 | 短距離走 | ||||||||||||||||||||
生年月日 | 1970年11月25日(53歳) | ||||||||||||||||||||
出身地 | 静岡県沼津市 | ||||||||||||||||||||
身長 | 182cm | ||||||||||||||||||||
体重 | 80kg | ||||||||||||||||||||
成績 | |||||||||||||||||||||
オリンピック |
100m 1次予選9組4着 (1992年) 4x100mR 6位 (1992年) | ||||||||||||||||||||
世界選手権 |
100m 2次予選3組7着 (1991年) 4x100mR 準決勝1組7着 (1993年) | ||||||||||||||||||||
地域大会決勝 |
アジア選手権 100m 8位 (1998年) 4x100mR 2位 (1998年) | ||||||||||||||||||||
国内大会決勝 |
日本選手権 100m 2位 (1993年) | ||||||||||||||||||||
自己ベスト | |||||||||||||||||||||
100m | 10秒30 (1991年) | ||||||||||||||||||||
200m | 20秒99 (1991年) | ||||||||||||||||||||
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編集 |
杉本 龍勇(すぎもと たつお、 1970年11月25日 - )は、日本の陸上競技選手、サッカー指導者(フィジカルコーチ)。静岡県沼津市出身。血液型はO型。静岡県立浜松北高等学校、法政大学(卒業後、ドイツ留学)、中京大学大学院博士課程修了。
年 | 大会 | 場所 | 種目 | 結果 | 記録 | 備考 |
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1991 | 第16回ユニバーシアード (en) | シェフィールド | 100m | 準決勝 | 10秒56 (+0.8) | |
4x100mR | 予選 | 40秒69 (4走) | ||||
第3回世界選手権 | 東京 | 100m | 2次予選 | 10秒61 (+1.5) | ||
4x100mR | 予選 | 39秒19 (2走) | ||||
1992 | 第25回オリンピック | バルセロナ | 100m | 1次予選 | 10秒56 (-1.6) | |
4x100mR | 6位 | 38秒77 (4走) | 当時日本記録 | |||
1993 | 第17回ユニバーシアード (en) | バッファロー | 100m | 準決勝 | 10秒33 (+3.4) | |
4x100mR | 2位 | 38秒97 (2走) | ||||
第4回世界選手権 | シュトゥットガルト | 4x100mR | 準決勝 | 39秒01 (2走) | ||
1998 | 第12回アジア選手権 (en) | 福岡 | 100m | 8位 | 10秒59 (-0.6) | |
4x100mR | 2位 | 39秒30 (2走) | ||||
『日本陸上競技連盟七十年史』参照[3] |
年 | 大会 | 種目 | 結果 | 記録 | 備考 | |
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1989 | 第73回日本選手権 | 100m | 5位 | 10秒48 (+1.6) | ||
1991 | 第75回日本選手権 | 100m | 4位 | 10秒47 (0.0) | ||
1992 | 第76回日本選手権 | 100m | 3位 | 10秒37 (+0.8) | ||
1993 | 第77回日本選手権 | 100m | 2位 | 10秒60 (-2.8) | ||
1997 | 第81回日本選手権 | 100m | 3位 | 10秒55 (-0.8) | ||
『日本陸上競技連盟七十年史』参照[4] |
182cm、80kgと恵まれた体型から、日本人離れしたパワータイプのスプリンターであった。
インターハイ、インカレの実績ですでに日本のトップスプリンターの1人であったが、日本選手権のタイトルや日本記録はならず、また、25歳を越してから活躍が乏しく、オリンピック代表も22歳でのバルセロナに終わった。バルセロナでは4×100mリレーのアンカーとして、日本の戦後初のオリンピックでのリレー種目決勝進出に貢献。決勝のレーンは優勝したアメリカの隣で、カール・ルイスの隣のコースを走った。
高校時代の恩師である加藤晴一との出会いが彼の人生の中で最もインパクトが強く、現在の自分が在るのは加藤の指導が多大に影響していると公言している。また、自らを最後の加藤イズムの継承者であると語り、その指導方法にそれを垣間見る。