李厚洛 이후락 | |
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1973年 | |
生年月日 | 1924年2月23日 |
出生地 | 日本統治下朝鮮 慶尚南道蔚山郡 |
没年月日 | 2009年10月31日(85歳没) |
死没地 | 韓国 ソウル特別市江東区 |
出身校 | アメリカ陸軍指揮幕僚大学卒業 |
選挙区 | 蔚山市・蔚州郡 |
在任期間 | 1979年3月12日 - 1980年10月27日 |
第6代 大韓民国中央情報部長 | |
在任期間 | 1970年12月21日 - 1973年12月3日 |
大統領 | 朴正煕 |
第3代 駐日大韓民国大使 | |
在任期間 | 1970年1月 - 1970年12月 |
大統領 | 朴正煕 |
第3代 大統領秘書室室長 | |
大統領 | 朴正煕 |
李 厚洛(イ・フラク、ハングル:이후락、日本語読み:り こうらく、 1924年2月23日 - 2009年10月31日)は、韓国の政治家である。本貫は鶴城李氏[1]。
慶尚南道・蔚山郡(現在の蔚山広域市)生まれ。1942年、蔚山農業学校を卒業、翌1943年に九州の大刀洗陸軍飛行学校に入隊したが、第二次世界大戦の終戦後に帰国。1946年3月23日付で軍事英語学校を卒業して少尉に任官(10079番)[2]。第5連隊B中隊(中隊長:李致業少尉)小隊長[3]。1949年、陸軍参謀学校卒業。1950年3月に来日して第25師団で研修を受けていたが[4]、朝鮮戦争が勃発すると帰国。1951年、陸軍本部情報局次長。同年4月6日、陸軍本部情報局長代理[5]。同年9月、兵科教育のため渡米[6]。1952年、アメリカ陸軍兵站学校卒業。同年9月1日、陸軍本部兵站監[7][8]。同年、准将に昇進。1954年、教育総本部参謀長。1957年、駐アメリカ大使館付武官。1959年、第79機関長。1961年1月、予備役編入。
朴正煕により国家再建最高会議広報室長に任命されたことが、政界入りのきっかけである。
第三共和国では大統領秘書室長、駐日本大使[9]、第四共和国初期には韓国中央情報部長を務めた。1971年大韓民国大統領選挙では朴正煕陣営の総指揮を振るった。
1972年5月2日、密かに平壌を訪れ、金日成と2度にわたり会談。韓国に帰った後の7月4日、ソウルで韓国側当事者として南北共同声明を発表した。
1973年、尹必鏞事件と金大中事件のために中央情報部長を解任された[1]。特に金大中事件に深く関与しているとされている。
1978年に国会議員に無所属で立候補、当選した(当選後に民主共和党に入党)。しかし、朴正煕が暗殺されたのに加え、新軍部登場後、1980年の国会解散により議員職を剥奪され、権力型不正蓄財者として指名された[1]。その後は政界を去って隠遁生活に入り、2009年10月31日、脳腫瘍と老人性疾患によりソウル市内の病院で死去[10]。
本人と家族が国内外に保有する不動産などの財産が数百億から千億ウォン台に達したとされ、かなりの金持ちである[11]。
長男は実業家、元国会議員の徐廷貴の娘、次男はハンファグループの金鍾喜の娘の金英恵、五男はSKグループの崔鍾賢の四女とそれぞれ結婚した[12][13]。また、第9代国会議員の金元圭も姻戚である[14]。
軍職 | ||
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先代 李翰林 |
大韓民国陸軍本部情報局長 代理:1951.4.6 - 1951.4.19 |
次代 金宗平 |
先代 李澔 |
大韓民国陸軍本部兵站監 第5代:1952.9.1 - 1954.9.6 |
次代 白善鎮 |
外交職 | ||
先代 厳敏永 |
駐日大韓民国大使 第3代:1970 |
次代 李澔 |
公職 | ||
先代 金桂元 |
大韓民国中央情報部長 第6代:1970. 12. 21 - 1973. 12. 3 |
次代 申稙秀 |
先代 金元圭 崔炯佑 |
大韓民国国会議員(蔚山市・蔚州郡) 無所属、崔炯佑とともに 1979 - 1980 |
次代 李奎禎 高元準 |