生誕 |
1930年6月13日 中華民国 湖北省漢口市 |
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死没 |
2021年11月2日 アメリカ合衆国 コロラド州[1] |
出身校 | 北京大学 |
研究機関 | 中華人民共和国 中国社会科学院 |
研究分野 | 中国哲学、西洋哲学・美学(カント[2]、マルクス主義[3]など) |
主な概念 | 「西体中用」「情本体」「積澱(积淀)」「文化心理構造(文化心理结构 )」 |
李沢厚 | |||||||
繁体字 | 李澤厚 | ||||||
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簡体字 | 李泽厚 | ||||||
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李 沢厚(り たくこう、拼音: 、1930年6月13日[4] - 2021年11月2日[5])は、中国の哲学者・美学者[6]。西洋哲学・美学の知見をもとに、中国の伝統文化や近代化を論じ、1980年代(改革開放期)の論壇を牽引した。
1930年湖北省漢口市に生まれ、3歳のとき一家で湖南省寧郷県に移住する。李沢厚自身は湖南の人と称していた[7]。北京大学哲学系卒業後、1958年に最初の単著『康有為譚嗣同思想研究』(《康有为谭嗣同思想研究》)を著わして学界に登場する[7]。1950年代から60年代、朱光潜と美学論争を展開する[8]。文革中の1970年代初頭、下放先の農村(五七幹部学校)で、カント『純粋理性批判』の英訳版(エブリマンズ・ライブラリー版)を『毛沢東選集』の隙間に隠して読み雌伏する[9][10]。
1980年代、文革が明け、雨後の筍のように外国思想が中国に紹介され、論壇が活気に満ちた「文化ブーム」(文化热)の中心を担う[11]。特に、主著『美の歴程』(《美的历程》)などを通じて「美学ブーム」(美学热)を牽引し、劉暁波や劉小楓と論を戦わせる[8]。その間、全人代文教委員、中国社会科学院哲学研究所所員、パリ国際哲学研究所所員、米国やシンガポールの大学の客員教授などを務める[12]。
1989年に六四天安門事件が起こると、政府と反体制派の間の仲裁に当たる[5]。一方で事件以後、反体制派の扇動者として政府から糾弾される[13]。その背景として、五四運動を「不充分に終わった啓蒙」とみなす李沢厚の論が、反体制派の旗印である「新啓蒙」に影響を与えたこと、などがあった[13]。
1990年代になると、劉再復との共著『革命よさらば』(《告别革命》)の中で改良主義の立場をとる[14]。 1992年、米国コロラド州ボルダーに移住する[15]。以降、コロラドカレッジ、ミシガン大学、ウィスコンシン大学マディソン校、スワースモア大学、コロラド大学ボルダー校などで講義する[16]。その間、時々中国に戻りつつ、ボルダーで平穏に暮らす[15]。
1981年『美の歴程』(《美的历程》)、1979年から1987年「中国思想史三部作」(《中国近代/古代/现代思想史论》)など、多くの著書がある[12]。英訳もされている[12]。
ほか[22]。