生年月日 | 1968年1月25日(56歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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出身地 |
日本 福岡県福岡市城南区 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 1.72 m (5 ft 7+1⁄2 in) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 75 kg (11 st 11 lb) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 専修大学 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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村田 亙(むらた わたる、1968年(昭和43年)1月25日 - )は、日本の元ラグビー選手、元専修大学監督。
小学1年時にラグビーを始めた。専修大学ラグビー部4年時には主将として関東大学リーグ優勝に貢献。その後チームは関東大学交流試合で明治大学と対戦し、13-13で引き分ける。試合直後、大学選手権出場をかけた抽選に臨むも、はずれくじを引き涙を呑む。
大学卒業後、東芝府中に入社。向井昭吾監督(当時)が掲げた「PからGO」の戦術にマッチしたプレースタイルをいかんなく発揮し、1996年(平成8年)度からの日本選手権3連覇に貢献した。
1990年(平成2年)にはU23日本代表としてアメリカ代表に勝利。1991年(平成3年)のアメリカ代表戦で日本代表初キャップを得る。ラグビーワールドカップには第2回大会(1991年)スコットランド代表戦、第3回大会(1995年)ニュージーランド代表戦、第4回大会(1999年)ウェールズ代表戦の3度出場している。日本代表キャップ数は41。
1999年(平成11年)、フランスリーグのバイヨンヌとプロ契約し、日本人初のプロ選手となった[1]。デビュー戦でいきなり2トライを挙げるなど、フランスリーグでは44試合出場し7トライを挙げ、チームの中心選手として活躍した。また、この時からラグビーマガジンと自身の公式サイトとで、フランスでの生活を報告するようになる。
2001年(平成13年)にヤマハ発動機ジュビロに移籍。円熟味を増したプレーでチームを引っ張り、2002年(平成14年)度には関西社会人リーグ初優勝を果たす。
2005年(平成17年)には37歳で日本代表に復帰し、ロス・トンプソンが持っていた最年長出場記録を更新した[注釈 1]。またトップリーグにおいても一時期最年長出場記録を持っていた(40歳)[注釈 2]。
「月刊VS.(バーサス)」の記事では、「トップリーグなら40歳までプレーできる」とコメントしている。2007-08シーズンも現役続行が決まったため40歳を現役で迎えた。
2008年(平成20年)1月、2007-08シーズンをもって現役引退することを表明。2月2日東芝戦後に引退セレモニーが行われ、同い年の親友で、同じ磐田市をホームとするジュビロ磐田の中山雅史選手から花束を贈呈され、お互いのユニフォームを交換した。
2008年(平成20年)2月、日本ラグビー協会より7人制日本代表監督の要請を受け就任。同年3月の香港セブンズで初指揮を執った。同年の10月には、やはり香港で行われたラグビーワールドカップセブンズ予選で、日本代表を、2009年(平成21年)3月にドバイで行われる本大会への出場に導いた。
2012年(平成24年)から2023年2月まで[4]の11シーズンOBである専修大学ラグビー部の監督を務め、同大学は2014年に13年ぶりの1部復帰を果たした。しかし2021年にはリーグ全敗、入替戦にも敗戦し在籍期間で2度目の2部降格。翌年の2022年シーズンでの1部復帰は叶わずその責任を取る形で退任したとの事[5]。 同い年には中山雅史(サッカー)のほか、ラグビー界には清宮克幸がいる。