束帯(そくたい、旧字体:束帶)は、平安時代以降の、天皇以下公家男子の正装(平安装束)。衣冠を「宿直(とのい)装束」と呼ぶのに対し、束帯は「昼(ひの)装束」と呼ばれる。
束帯は文官用と武官用に分かれる。冠は文官は纓(えい)と呼ばれる飾りを後ろに垂らした垂纓冠(すいえいのかんむり)をかぶり、武官は纓(えい)を巻き上げた巻纓冠(けんえいのかんむり)に緌(おいかけ)と呼ばれる馬毛製の扇状の飾りが付いたものをかぶる。
袍(ほう)は文官と三位以上の武官は脇が縫われている縫腋袍(ほうえきのほう)、四位以下の武官は活動さを優先した脇を縫わない厥脇袍(けってきのほう)を着用する。六衛府に所属する武官は弓箭(弓と矢)を装備することが許された。
靴は文官は浅沓(あさぐつ)、武官は牛革製の鞾(かのくつ)をはく。本来は文武を問わず鞾をはいた。
武官・中務省の官人、勅許を得た参議以上の文官は、大刀を佩用した。その場合、大刀は
以下は文官の束帯の構成である。
束帯の構成は下から、
下襲の後ろ身頃(背部)は長くできており、着用時は長く尾を引くように引き擦った。この部位を「
文官は冬期は半臂を廃して着用していた。これは文官の用いる縫腋袍は脇が縫われているので、着用の有無を外見から判別出来ない為である。夏期は半臂が透ける(袍の布地が薄い為)ので着用されていたが、近世に入ってからは夏期も廃された。なお、『今鏡』には、冬期にくだけた場面で袍を肩脱ぎした際、皆下襲が露わになる中で藤原教通のみがきちんと半臂を着用しており、周囲がいたく自らを恥じた、という伝承が残されている。この事から、本来は冬期も半臂を着用する制であったことが窺える。天皇に関しては半臂を略さないとされる。
衣冠は本来、宮中に於ける宿直用の装束(とのいぎぬ)であったが、宮中での勤務服として定着するにつれ、束帯は儀式に用いる儀礼的な服となった。このため、両者をまとめて「衣冠束帯」とも呼ぶ。
奈良時代の『養老律令』衣服令で、礼服、朝服、制服の服制が制定された[1]。
礼服は朝賀ならびに即位の礼の際に着用する最高礼装であったが、のちに朝賀が廃止されると、即位の礼のみに着用されることになった。
朝服は官吏が宮廷に参内する際の日常服であったが、平安時代になると和様化して束帯へと変化した。