松島 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | Forges et Chantiers de la Mediterrane(フランス、ラ・セイネ)[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 海防艦[2]、防護巡洋艦[3] |
艦歴 | |
起工 | 1888年2月17日[3] |
進水 | 1890年1月22日[3] |
竣工 | 1892年4月5日[3] |
最期 | 1908年4月30日沈没 |
除籍 | 1908年7月31日 |
要目 | |
排水量 | 1894年6月時:4,278英トン[2][4] |
全長 | 325 ft 6 in (99.21 m)[5] |
水線長 | 301 ft 0 in (91.74 m)[5] |
垂線間長 | 295 ft 0 in (89.92 m)[5] |
水線幅 | 51 ft 3 in (15.62 m)[5] |
深さ | 35 ft 0 in (10.67 m)[5] |
吃水 | 平均:20 ft 0 in (6.10 m)[5] |
ボイラー | 低円缶 6基[6] |
主機 | 横置3気筒3段レシプロ 2基[7] |
推進 | 2軸 x 105rpm(内回り)[7] |
出力 |
6,519馬力[7] 公試:3,777馬力[4] |
速力 | 公試:14.7ノット[4] |
燃料 |
石炭:680トン[6] 1904年:石炭615トン[8][4] |
乗員 | 1890年10月定員:360名[9] |
兵装 |
32cm砲 1門 12cm速射砲 12門 47mm砲 6門 37mm5連装機砲 2基 35.6cm水上魚雷発射管 4門 |
装甲 |
甲板:2in(50.8mm)[10] 砲塔:12in(305mm)[10] 砲盾:4in(102mm)[10] 上甲板:39.7mm(1in9/16) 主甲板:38 - 51mm(水平部)、75mm(甲板傾斜部) 主砲防盾:100mm(最厚部) 主砲バーベット部:300mm(最厚部) 司令塔:-mm[要出典] |
松島(まつしま)は、日清戦争及び日露戦争で活躍した日本海軍の防護巡洋艦である。1892年4月5日、竣工し第一種に編入。1898年3月21日、二等巡洋艦に類別された。
清国が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として建造された、松島型(三景艦)のネームシップ。日清戦争時の連合艦隊旗艦である。同型艦は厳島、橋立。
明治維新後の混乱の時期を過ぎると、世界的な帝国主義の波の中で、日本は国土防衛と海外進出のために朝鮮半島を生命線とする国家戦略を立てていた。これに対立するのが歴史的に朝鮮の宗主国をもって任じていた清国であり、次第に日清両国の衝突は避けられないものと認識されるようになった。
1885年に清国北洋艦隊が就役させた定遠、鎮遠の定遠級戦艦2隻は日本海軍にとって大きな脅威となった。定遠級(基準排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲最大厚305mm)は日本海軍はもちろん、列強海軍が東アジアに配備していたどの大型艦をも凌駕する巨艦であった。
定遠級戦艦に対抗するため、より口径の大きい32cm(38口径)単装砲(カネー砲)を装備して建造されたのが松島型防護巡洋艦、いわゆる「三景艦」である。松島は後部甲板、他2隻は前部甲板に据え付けられた。
建造に際して設計技師士官エミール・ベルタンはフランス海軍の防護巡洋艦のように中口径砲を多数装備し、機関出力に優れる高速型の巡洋艦を提案した。しかし、日本海軍は機関出力や装甲を切り詰めてでも32cm砲を装備することにこだわり、当時の日本の港湾施設では4,000t台の艦艇が運用しうる上限の大きさであったこともあって、本艦は巡洋艦級の船体に比して大きすぎる32cm砲を搭載する艦艇となった。そのために32cm砲砲塔を首尾線方向から左右に旋回すれば砲身の重みで艦が傾斜して計算通りの仰角が取ることが出来ず、発射すれば反動で姿勢が変化し進路にまで影響を及ぼすという欠陥があった。
32cm砲の操作は技術的に未熟な日本海軍にとって難しく、故障が頻発し戦力化するには時間を要した。また、黄海海戦では、松島が発射した32cm砲弾は4発、他の三景艦も厳島が5発、橋立が4発だけである。鹵獲した鎮遠の検分では、32cm砲弾の直撃破孔が1つあったとされるが、命中弾はなかったとする説もあり、32cm砲が実戦で威力を発揮することはなかった。
1894年9月17日15時30分、黄海海戦において左舷4番12cm砲郭に鎮遠の30.5cm砲弾が命中、装薬が誘爆して大破し、57名が戦死した。
日露戦争では、哨戒と掃海活動に従事した。
1908年(明治41年)4月30日、海軍兵学校第35期卒業生の少尉候補生による遠洋航海で寄港した澎湖諸島の馬公で、火薬庫爆発を起こして轟沈した[11]。殉職者は、艦長と副長を含む乗員221名、少尉候補生33名、計254名に上った。死亡者には、大山巌の長男である大山高 少尉候補生、瓜生外吉の長男である瓜生武雄少尉、珍田捨巳の次男である珍田垂穂 少尉候補生もいた。慰霊碑が馬公、殉難者之碑が佐世保市内にある。この時、僚艦橋立に乗組んでいた永野修身大尉(当時)が真っ先に短艇を指揮して救援に向かったという話がある。
なお、日清戦争直前の1893年11月30日改正の「軍艦団隊定員表」によると、松島型の三景艦はいずれも、大佐(艦長)1名、少佐(副長)1名、大尉7名、少尉7名、機関少監(機関長)1名、大機関士3名、少機関士1名、大軍医2名、少軍医1名、大主計2名、少主計1名、上等兵曹3名、機関師4名、船匠師1名、1等下士20名、2等下士22名、3等下士15名、1等卒53名、2等卒96名、3等卒及び4等卒は合せて114名、以上、士官27名(内兵科16、機関科5、軍医科3、主計科3名。)、准士官8名、下士57名、卒263名、総計355名とされた。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
初代連合艦隊旗艦にふさわしく、松島にはいろいろなエピソードがある。