松平 広忠(まつだいら ひろただ)は、戦国時代の武将。三河国額田郡岡崎城主。安祥松平家第4代当主。松平清康の子。母は青木氏(青木貞景もしくは青木弐宗)の娘。徳川家康の父。
多くの史料では、大永6年[2](1526年)4月29日出生としている[3]。また、「松平記」や「三河記大全」は天文18年(1549年)に24歳没としており、没年と享年から計算すると生年は等しくなる。
その他25歳没とするもの[4]、また27歳没とするもの[5]もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年(1526年)である。「三河物語」は23歳没とするが年次の記述がない。
青木貞景の娘とされているが[6]、清康の室であった松平信貞の娘とする異説もある[7]。
通称は次郎三郎[11]。また岡崎三郎と称したことが発給文書より確認されている[12]。
大永6年(1526年)4月29日、安祥松平家第3代当主・松平清康の長男として誕生。幼名は竹千代とされるが、他にも複数伝わる[13]。
天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が家臣・阿部正豊に殺害される(森山崩れ)。これにより竹千代が事実上家督を相続し、安祥松平家第4代当主となる。この直後[14]、織田信秀が三河へ侵攻した。織田軍の数は総勢8千とも伝わり、迎え撃つ松平勢は雑兵700[15]から800[16]ほどで、叔父の松平康孝が指揮を執ったという。大樹寺に布陣した織田軍と松平軍は井田野または伊田郷という地で合戦となった(井田野合戦)。松平勢は高力重長[17]など多くが討死したが、織田勢も骨を折ってなおなかなか勝ち切れなかったため、和睦した。
村岡幹生は、「松平記」は織田軍が松平信定を当主に据えるために出兵しながら目的を果たせずに和睦したと記しながら、その直後に信定が岡崎に入城したことになっており、合戦記事そのものが虚構であるとしている[18]。
大叔父の桜井松平家当主・松平信定は竹千代と対立し、安祥松平家の家督を狙うようになった(諸説あり)。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曽祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり、信定の権威は強まっていき、日増しに増長し、史書にて「国中の制法信定次第」と称されるほどになった。同天文4年(1535年)頃、信定は本拠・岡崎城を占領し、竹千代は追放された。竹千代は重臣・阿部定吉らと共に吉良持広を頼って逃亡した。「三河物語」などによれば、伊勢国神戸に逃れたという。天文5年(1536年)には信定が所領を押領して譜代の衆を挑発し、また竹千代を殺害しようと企てるようになった。
竹千代は吉良持広の庇護下において元服し、持広より一字を拝領して広忠と改めた。この頃の広忠の動向は史料によって差異があるが、「松平記」、「三河物語」によれば、吉良持広を通じて今川義元に支援を求め、遠江国懸塚を経て、三河牟呂城に入った[19]。
なお、近年の研究では阿部大蔵(定吉)について研究した茶園紘己は、阿部の側室が北畠氏の一門である星合氏の出とする『寛政重修諸家譜』の記事に注目し、広忠は阿部の姻戚関係を頼って伊勢に亡命したのではないか、と推測している[20]。一方、村岡幹生は、森山崩れは安城家の一門(信定・信孝ら)及び家臣と旧岡崎家の家臣の対立に端を発する阿部大蔵によるクーデターで、阿部が広忠を連れて逃亡したために信定や信孝は事態収拾のために岡崎城に入った、その後家中の広忠擁立論や今川氏の介入を受けて広忠を当主にするために和睦が図られて阿部も赦免がされたが、広忠の後見を巡って信孝と阿部の対立が続いた、と推測している[21][22]。
この間、譜代の家臣らが広忠の岡崎城帰還を望んでおり、阿部定吉や大久保忠俊らが尽力していることが諸書からうかがえる。
この頃の広忠の動向は史料によって差異があるため、正確な時期等にも差異がある。叔父の松平信孝も広忠を支援する方針であったらしく、大久保らと共に広忠帰還を支援している[23]。いずれにせよ、天文年間に広忠は信定から岡崎城を奪還した。
広忠の後半生は三河へ進攻する織田氏との戦いに費やされていたようである。天文9年(1540年)、織田軍が安祥城へ侵攻し、6月に合戦となった(第一次安城合戦)[24]。この戦いにおいて城代・松平長家が討死(自害とも)した。
「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが、こちらでは安祥城は陥落しておらず、松平利長、松平忠次らが防戦して敵が退いたと記されている。安祥城落城の時期については諸説あるが、いずれにしろ西三河における織田氏の勢力は拡大していたようである。
天文10年(1541年)、水野忠政の娘・於大の方と婚姻する。
天文11年(1542年)、今川義元は三河から織田氏勢力を駆逐するべく大軍を発し、織田信秀も対抗するべく兵4千を率いて安祥に出陣し、8月に両者は激突した(第一次小豆坂の戦い)。この戦いでは織田信秀が勝利した。(ただし、この戦いには虚構説もある。)
同年12月26日、嫡男・竹千代(後の徳川家康)が誕生する。
『寛政譜』によれば、広忠は松平信孝を重用したが権勢をふるって増長し、松平親長や、弟の康孝の遺領を押領した。そして「岡崎の老臣等」が信孝の増長を警戒したという。広忠は信孝が今川氏に年始の使者として派遣されている隙に妻子や家臣を岡崎から追放し、天文12年(1543年)頃、信孝は上和田城主・松平忠倫、酒井忠尚らと共に織田信秀に通じて離反した。その後も幾度か安祥で織田勢と合戦し、信孝とも戦っている。
於大の方の兄で水野氏当主の水野信元は、天文13年(1544年)に今川氏と絶縁して織田氏に寝返った。このため広忠は、同年9月に今川氏との関係を慮って於大の方を離縁した。天文14年(1545年)には桜井松平家の松平清定・家次らを攻撃している。(広畔畷の戦い)
天文14年(1545年)9月、織田氏の下にあった安祥城に侵攻したが敗北し、本多忠豊が身代わりとなって討死した。
広忠は、織田氏の三河侵攻に対抗する見返りに竹千代を人質として送ることとなった。しかし戸田康光の裏切りにより竹千代は織田方に拉致された[注釈 1]。
天文17年(1548年)3月19日、小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には松平重弘兄弟の山中城を落とした。同月三河冑山にて信孝と対陣。菅生川原で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。天文18年(1549年)2月20日、再び織田勢と対陣、勝利を得て織田信広を捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命通り人質として駿府へ移送した。
天文18年(1549年)3月6日、死去した(後述)。享年24。
近年になって、天文16年(1547年)9月に織田信秀が岡崎城を攻め落としたとする古文書(「本成寺文書」『古証文』/『戦国遺文』今川氏編第2巻965号[25])の発見[26]をきっかけに、村岡幹生が同年に織田軍の侵攻によって岡崎城が陥落[27]して松平広忠が降伏を余儀なくされたのではないかとする説を唱えた[28]。この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫[29]や糟谷幸裕[30]の意見が対立している[31][注釈 2]。また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは戸田康光の裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている[26][34]。なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる[34]。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている[35]。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年(1548年)に斎藤利政(道三)が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている[34]。
いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた[36]」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。
「武徳大成記」は大子(伝通院)との婚姻は天文10年(1540年)としている。家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年の水野忠政の卒去により、家督を継いだ水野信元が織田家に与したことにあったとみる。同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。
「岡崎領主古記」は大子との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。
なお、小川雄は、広忠と伝通院の婚姻が行われたのは、松平信孝が広忠の後見をしていた時期にあたり、水野氏との同盟や伝通院との婚姻も信孝主導であったとする。従って、広忠と重臣たちが信孝を追放したことによって水野氏との同盟関係も破綻することになり、離縁に至ったとする説を唱えている。また、小川は広忠の再婚相手が戸田康光の娘(戸田御前)であったのも、水野氏や信孝が牧野氏と結んでいるために、牧野氏と対立する戸田氏を新たな同盟者として選んだとしている[注釈 3][38]。
大子との関係でいえば、彼女の再婚相手である坂部城主久松俊勝を通じて尾張国知多郡に介入した形跡がみられることである。「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年(1545年)「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(常滑市北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。
広忠は天文18年(1549年)3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。
死因に関しても諸説がある
- 病死とするもの→「三河物語」・「松平記」など
- 岩松八弥(片目八弥)によって殺害されたと記すもの→「岡崎領主古記」
- 一揆により殺害されたとするもの→「三河東泉記」。天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。またこれを織田信秀の武略としている。『岡崎市史別巻』に採録されている。
- 三河東泉記には、岡崎城に在城の時、片目弥八に村正の刀で殺害された。上村新六が、弥八を討ち取った、という記述も紹介されている。(三河東泉記全74ページ目)
- 「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」・「創業記考異」・「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。「徳川実紀」・「朝野旧聞裒藁」も同じ。『朝野旧聞裒藁』採録記事は次のとおり(1巻737頁以下)
- 「松平記」:天文18年春より「御煩あり」、同3月18日卒去。24歳
- 「官本三河記」:同じく「18年春広忠病気」、3月6日卒、24歳
- 「家忠日記増補」6日卒去、24歳
- 「三岡記」:「御病気」3月6日卒。「病気連年疱証ト云々」とする。
「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および国立公文書館所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。
『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説を採り、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。明智憲三郎は織田信秀が岩松八弥を抱き込んで広忠を暗殺させた可能性を提示している[39]。
これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している[40]。
なお近年の歴史ドラマでは松平家の悲劇性を強調するためか暗殺説を採用する例が多く、NHK大河ドラマの中で家康の一代記を扱った1983年の「徳川家康」及び2023年の「どうする家康」では、共に暗殺説を採用している。このため、暗殺説が最も広く知られた学説となっている。
葬地は愛知県岡崎市の大樹寺(「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738頁所載。「御九族記」おなじ)。
現在大樹寺に加え、大林寺・松應寺・法蔵寺・広忠寺と5つの墓所が岡崎市にある。
また死後、慶長16年3月22日従二位大納言の官位を贈られている[41]。「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。
松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記)
天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、
(訓読文)天皇(すめら、孝明天皇のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(唐橋在光、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、
「柳営婦女伝」は三人の室を記している。正室・側室の別を明記する史料はない。またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。
生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元、親良についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。
- 参考附記
- 「内藤家譜」→国立公文書館所蔵。請求番号157-0205。記事の下限は享保4年(1719年)であるが、これを内藤弌信の村上藩移封とする誤りがある。また信成出生に関する記述は「別本 内藤家譜」の名で『大日本史料』12編ノ9に引用されている(1011から1015頁)。
- 「松平系諸集参考」→『国書総目録』などに所見がなく焼失もしくは散逸したと思われる。
- 「徳世系譜」→「徳世系譜実録」として国立公文書館に所蔵がある。請求番号149-0060
- 内藤清長→「寛政譜」13巻「内藤」183頁「某・弥次衛門」。内藤信成→同185頁および197頁では、内藤弥次衛門の養子で、実は嶋田久右衛門景信の子、母は内藤右京進某の娘とする。同5巻「嶋田」には「景信」の名は見当たらない。また「徳川幕府家譜」には「信成」とだけ記されている(35頁)。
連歌師である宗牧が記した『東国紀行』にも広忠に関する記述がある。
天文12年(1543年)、広忠は三河国に下向していた勅使の三条西公頼に進納を行った。これを受けて朝廷では翌天文13年(1544年)に東国に下ることになった宗牧に広忠宛の女房奉書を託して感謝の意を伝えるように命じた。同年閏11月13日に岡崎に着いた宗牧はまずは筆頭重臣である阿部大蔵(定吉)に面会を求めた。しかし、来訪の趣旨を事前に伝えていたにもかかわらず、大蔵は不在で、しかも宿泊先の宿でも不手際があったらしく、不満を書き記している。翌日、大蔵が岡崎に戻ってきたために面会するが、出迎えの準備が出来ていなかったために見かねた石川忠成が代わりの茶の湯を設けた。その後、ようやく広忠に拝謁して奉書を渡すことができたという[43]。
- ^ 近年の研究では最初から織田方への降伏の証として送られた可能性が指摘されている。詳しくは徳川家康#人質として今川家、そして織田家へを参照。
- ^ 村岡幹生も「織田信秀岡崎攻落考証」を自著『戦国期三河松平氏の研究』に採録した際、織田氏と今川氏の連携を認めた上で、今川義元が奥平定能に天文14年8月25日付で出した書状の中に「時宜変化の儀ありといえども」安堵すると念押ししていることから、岡崎城の攻防中に既に織田・今川の連携が破綻し、松平広忠が今川方に帰参すれば義元はこれを赦免する方針に向かっていたため、奥平定能に広忠赦免(今川方帰参)後も山中の領有を認める約束であったとしている[32]。なお、その後山中の地は奥平定能が三河忩劇で今川から離反した際に広忠の遺児である元康(徳川家康)に還付されている[33]。
- ^ なお、関連する論考として、信孝追放の原因を信孝が今川氏の三河進出に対応するために長沢松平家の所領を今川方である牧野氏に譲って関係を結ぼうとし、水野信元もそれに加担していたとする小林輝久彦の説[37]がある。また、戸田氏は渥美半島の国衆であるが、三河湾を挟んだ対岸の知多半島の河和や師崎にも分家の拠点があり、水野信元は知多半島の戸田氏勢力との関係から牧野氏と結んだ可能性もある。
- ^ 「柳営婦女伝系」では「広忠」と伝通院の間の子として「東照宮」および「女子」1人を記している(137頁)。家康と父母を同じくする兄弟ということになるが、「女子」ということ以外に記述がない。
- ^ 「改正三河後風土記」では広忠の娘として「多劫姫」を挙げる。しかし家康の異母妹かそれとも父母を同じくするかについては言及を避けている(上巻171頁)「御九族記」は多劫姫の母を伝通院とし、広忠の子として系図にかけ、久松家のそれにかけない(巻1)。「寛政譜」17巻・菅原氏「久松」(315頁)および1巻「桜井松平」(33頁)は久松俊勝との間の子としている。
- ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。また広忠の死後、尼となり「妙林」と称した旨の所伝が「寛政譜」にある(1巻221頁の按文)。酒井家(雅楽頭家)家臣松平孫三郎「久典」所蔵の家譜、三河・法蔵寺および広忠寺由緒書に拠るという。ただし、「柳営婦女伝」には記述がない。
- ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。「松平忠政遺状」によると、幼名を勘六といい、のち任官されて右京大夫「忠政」と称したという。松平孫三郎「久典」の系譜では「右京大夫又は右京進」とされている。「寛政譜」1巻221頁にその所伝が示されており、広忠が大子を妻とした後に三河国桑谷村に250石を与えられ、のち家康に仕えて従五位下となり、慶長4年(1599年)に没したという。また長子の孫三郎「康久」は酒井家家臣孫三郎「久典」の祖、次子右京進「長清」は彦太夫「忠明」(224頁)および分家・二郎右衛門「忠暁」(225頁)らの祖とする家伝が記されている。
- ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻620から622頁所載「松平忠政遺状」「松平彦太夫家伝」「広忠寺由緒書」および「寛政譜」1巻221頁による。「忠政」の弟穎新(えいしん)または恵新(けいしん)。広忠の意向により僧となり、のち樵暗恵最と名を改めた。ただし同書では、家康の異母兄弟である忠政がわずかな所領しか与えられなかったことや、「寛永諸家系図伝」など幕府保管の文書にその記録がみられないことから、一連の所伝を「不審なきにあらず」とする。また長沢松平分家「信強」(220頁)の祖・孫三郎「信重」(219および210頁)の子・右京「長次」(219頁)の子孫が不明とされているのは(同頁按文)、家祖を右京進「忠政」としたために起こった誤りではないかとし、「忠政」の子とされている右京進「長清」はこの右京「長次」のことであろうとしている(222頁按文)。
- 参考附記
- 「松平忠政遺状」→「朝野旧聞裒藁」9巻274から276に全文と思われる記事が採録されている。
- 「法蔵寺由緒書」→西尾市岩瀬文庫に写本の所蔵があり(請求番号:98-76)、この影印複製本が岡崎市図書館にある。
- 「広忠寺由緒書」→『岡崎市史研究』11号(岡崎市史編さん委員会刊、1989年)所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」には岡崎市史編さん事務局再訪史料によるとして「桑谷松平氏」「広忠寺之記」「古書写」「御由緒」の四点をあげている。岡崎市史編さん史料は全て岡崎市美術博物館に移管されている。
- ^ 松平上野介康忠の室を平原助之丞正次の娘とし(「柳営婦女伝系」137頁)その名を矢田姫とする(「寛政譜」1巻「長沢松平」211頁。「御九族記」同じ)。
- ^ 「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。
- ^ 「柳営婦女伝系」では荒川甲斐守頼持の室を平原氏娘の子とし(137頁)、それとは別に戸田弾正少弼康元娘の子として「一場御前」とする(「御九族記」同じ)。一方「松平記」()「改正三河後風土記」(上巻172頁)は広忠との間に子はなかったとしている。「寛政譜」2巻「吉良」は義広の室として「市場の御方」と記し(217頁)また「士林泝洄」巻37「荒川」は甲斐守「義弘」の子・次郎九郎「弘綱」の母を「広忠卿御女」とする(下記刊行本229頁)。しかしその生母についての記述はない。「市場殿」の呼称は「御九族記」巻1、「徳川幕府家譜」34頁、「徳川実紀」1巻24頁に示される。
- ^ 「徳川幕府家譜」35頁。広忠の死の前年、天文17年(1548年)の生まれで、その母の申し出により岡崎在城時代、家康に召抱られたという。また多病のため生涯隠棲し、慶長8年(1603年)に亡くなったとされている。
- ^ 「朝野旧聞裒藁」1巻657頁および658頁以下。「内藤家譜」によるとその母は広忠の寵愛を受けて懐妊するが、前室(大子)に憚り、「島田久右衛門」平景信に預けられ、天文14年5月5日に信成を出生したという。一説に(「秘録」曰く、として)この女性は「小野次郎右衛門」の娘で、広忠の侍女であったといい(「松平系諸集参考」)、またいったん島田久右衛門に嫁したのち出生した男子を、内藤清長が養子として育てたのが、後の豊前守信成であるとする「徳世系譜」の所伝があるという。
- ^ 『寛政譜』巻四十四「松平」が載せる西福釜松平家の家伝によれば、2代目の松平信乗(松平親忠の孫にあたる)は広忠から懐妊した侍女を妻として与えられ、産まれてくる子供は信乗の家で養育するよう仰せつけられた。その子供が親良で、天文14年(1545年)生まれという。『寛政譜』按文では、そもそも松平行隆(親良の子とされるが、父の名には異説もある)以前の西福釜松平家の系図に大きな混乱があることを指摘し、父祖のことは「家伝」として載せるものの、系譜は行隆から始めている[42](西福釜松平家参照)。
- ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
- ^ 「武徳大成記」(1巻72頁)、「朝野旧聞裒藁」(1巻407頁)、「徳川幕府家譜」らは、大永6年と記すに留めている。
- ^ 「三家考」、「御九族記」、「改正三河後風土記」(上巻151頁)、「徳川実紀」(1巻22頁)など
- ^ 「創業記考異」ただし一説として24歳とも記す。
- ^ 「三州八代記古伝集」
- ^ 「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁
- ^ 広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨
- ^ 「寛政譜」2巻217頁
- ^ 「寛政譜」1巻「長沢」211頁
- ^ 「同」2巻「酒井」47頁
- ^ 「三河物語」・「武徳大成記」1巻72頁
- ^ 『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状
- ^ 「烈朝系譜」では竹千代または千松。「松源大譜系」では千松丸。「別本御系図」では仙千代。『三河物語』では千千代。『新編岡崎市史6』では千松丸。
- ^ 「徳川実紀」によれば、天文5年(1536年)2月。「三河物語」では、森山崩れの後10日も経たない頃。「三州八代記古伝集」では100日も過ぎない頃としている。
- ^ 「松平記」
- ^ 「三河物語」
- ^ 「寛永所家系図伝」
- ^ 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P236.
- ^ 「徳川幕府家譜」によれば、持広の死去後、吉良義安の外交方針の変更により織田氏との連携が強まると再逃亡した
- ^ 茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P128-131.
- ^ 村岡幹生「松平信定の事績」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P223-231.
- ^ 村岡幹生「安城四代清康から広忠へ-守山崩れの真相と松平広忠の執政開始-」『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)、P246-251.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三「松平 三木」
- ^ 「岡崎領主古記」
- ^ 村岡幹生によれば、この文書は越後長久山本成寺の第九世の日覚が隠居後に越中井田菩提心院から本成寺送ったもので、日覚自身が尾張国出身で今川氏家臣の鵜殿氏の帰依を受けていたことから尾張・三河に一定の人脈を持つ人物と評価されている(村岡(大石)、2019年、P354-359.)。
- ^ a b 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』、平凡社〈中世から近世へ〉、2017年6月。ISBN 978-4-582-47731-3 P40-42.
- ^ 村岡は他にも織田信秀が北条氏康に今川氏の挟撃を誘った際の返答とみられる「天文17年3月11日付織田信秀宛北条氏康書状」(『神奈川県史資料編3古代・中世(3下)』6852号/愛知県史『中世3』1658号)においても、氏康が織田信秀が岡崎に、今川義元が今橋に進出したと認識していることが記されていると指摘する(村岡(大石)、2019年、P361-369.)。
- ^ 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年。後に大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年)に所収)
- ^ 平野明夫「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」(平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)
- ^ 大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 天文15年-永禄3年節
- ^ 糟谷幸裕「国衆の本領・家中と戦国大名ー今川領国を事例に」戦国史研究会 編「戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、2018年) ISBN 978-4-86403-308-4 P145.
- ^ 村岡幹生『戦国期三河松平氏の研究』岩田書院、2023年 ISBN 978-4-86602-149-2 P291-295.
- ^ 大石泰史「今川氏と奥平氏-〈松平奥平家古文書写〉の検討を通じて」『地方史静岡』21号、静岡県立中央図書館、1993年。/所収:大石 2019, pp. 162-164・169-170.
- ^ a b c 柴裕之「松平元康との関係」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-322-0 P276-277.
- ^ 村岡(大石)、2019年、P372-377.
- ^ 村岡(大石)、2019年、P360.
- ^ 小林輝久彦「三河松平氏と駿河今川氏」大石泰史 編『今川氏年表』(高志書院、2017年)
- ^ 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.
- ^ 大河ドラマ「江」の歴史捜査45:家康の父・広忠の死因
- ^ 村岡(大石)、2019年、P377-379.
- ^ 村川前掲論文。なお、「徳川幕府家譜」19頁は「家康公 御執秦」に依るとする。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻四十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.226。
- ^ 茶園紘己「安城松平家における阿部大蔵の位置と役割」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P135.
- 『三河文献集成 中世編』所収「松平記」および松平記附載「阿部家夢物語」国書刊行会、1980年
- 国立公文書館所蔵「松平記」請求番号:特042-0012および148-0012
- 『徳川諸家系譜』1巻 所収「徳川幕府家譜」「柳営婦女伝系」 続群書類従完成会、1982年
- 内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第1『朝野旧聞裒藁』1巻 汲古書院、1982年
- 東京大学史料編纂所所蔵「三河東泉記」請求番号:2041.55-11
- 『新編岡崎市史6』新編岡崎市史編さん委員会、1983年
- 新城図書館所蔵「御九族記」請求番号:こ119
- 刈谷市中央図書館所蔵「家忠日記増補追加」請求番号:W3816
- 愛知県図書館所蔵「岡崎領主古記」請求番号:請求番号:BWマ/A210/オ2
- 『物語日本史大系第7巻』所収「織田軍記」早稲田大学出版部、1928年 ※内題は「総見記」。遠山信春著、貞享3・成立
- 『改正三河後風土記』上巻 秋田書店、1976年
- 西尾市岩瀬文庫所蔵「御年譜附尾」請求番号:109-23
- 刈谷市中央図書館所蔵「三家考」請求番号:W4080 ※巻末の附記に「享保乙巳(注・1725年)門人 平元成識」とある
- 国立公文書館所蔵「三州八代記古伝集」請求番号:148-0085
- 東京大学総合図書館所蔵「参州本間氏覚書」請求番号:G27 625
- 新城図書館所蔵「参松伝」請求番号:4/甲ロ/14 ※国立国会図書館所蔵本→内題「改正増補参松伝」国立公文書館所蔵本→内題「改撰増補参松伝」
- 小瀬甫庵『信長記』上巻 現代思潮社、1981年
- 桑原忠親校注『新訂 信長公記』新人物往来社、1997年
- 名古屋市鶴舞中央図書館所蔵「創業記考異」請求番号:河サ-2
- 国史大系第38巻『徳川実紀』第1篇 吉川弘文館、1981年
- 国立公文書館所蔵「内藤家譜」請求番号:157-0205
- 内閣文庫所蔵史籍叢刊92『武徳大成記』1巻 汲古書院、1989年
- 『武徳編年集成』上巻 名著出版、1976年
- 国立公文書館所蔵「三河記大全」請求番号:169-0025 ※データベース登録名は内題「参河記大全」
- 『日本思想大系26 三河物語』 岩波書店、1974年
- 国立国会図書館所蔵『鶴鳴館蔵版 烈祖成績』※徳川昭武による明治11年の板行本。請求番号:YDM7073→国立国会図書館 近代デジタルライブラリーから閲覧・印刷可
- 『寛永諸家系図伝』1巻「松平」「久松」3巻「高木」6巻「高力」9巻「大久保」14巻「山口」続群書類従完成会、1985年
- 『新訂寛政重修諸家譜』1巻「藤井」「桜井」「長沢」2巻「酒井」「吉良」6巻「水野」8巻「織田」10巻「阿部」11巻「大久保」13巻「内藤」14巻「戸田」17巻「久松」続群書類従完成会、1984年
- 校訂復刻 名古屋叢書続編 第18巻『士林泝洄 2』巻37「吉良」愛知県郷土史料刊行会、1983年 ※名古屋市教育委員会、昭和42・1967年刊行本の復刻。図書館の所蔵データベース検索は「士林泝洄」もしくは「名古屋叢書続編」で行うこと。
- 『岡崎市史 第1巻』名著出版、1972年 ※岡崎市役所、大正15・1926年刊行本の復刻
- 『岡崎市史別巻 徳川家康と其周囲』上巻 名著出版、1972年 ※岡崎市役所、昭和9・1934年刊行本の復刻
- 『新編 岡崎市史2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年
- 『新編東浦町誌 資料編3』愛知県知多郡東浦町、2003年
- 小和田哲男『駿河 今川一族』新人物往来社、1983年
- 『岡崎市史研究』11号所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」岡崎市史編さん委員会、1989年
- 平野明夫著『三河松平一族』、新人物往来社 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021
- 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(初出:『中京大学文学論叢』1号、2015年/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P353-383.
- 広忠寺 愛知県岡崎市桑谷町。広忠菩提寺であると共に「於久」と家康異母兄弟の所伝を残している。
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- 親氏????-1393?
- 泰親1302?-1393?
- 信光1404-1488?
- 親忠1488?-1496
- 長親1496-1503
- 信忠1503-1523
- 清康1523-1535
- 広忠1535-1549
- 家康1549-1566
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