松平康任

 
松平康任
時代 江戸時代後期
生誕 安永8年(1779年
※安永9年5月18日1780年6月20日)とも
死没 天保12年7月22日1841年9月7日
別名 軍次郎(通称
戒名 寛裕院殿譲誉温良惟徳大居士
墓所 東京都港区虎ノ門天徳寺
埼玉県川越市の光西寺
官位 従四位下侍従周防守下野守
幕府 江戸幕府寺社奉行京都所司代老中
主君 徳川家斉
石見浜田藩
氏族 松井松平家
父母 父:松平康道、母:五島盛道の娘
養父:松平康定
兄弟 康任康正
松平康定の娘
康寿康爵康圭、達、聡子、知姫、簾子、愛姫、小出英発
テンプレートを表示

松平 康任(まつだいら やすとう)は、江戸時代後期の大名老中石見国浜田藩主。松井松平家8代。寺社奉行大坂城代京都所司代老中と幕府の重職を歴任した。

生涯

[編集]

分家旗本・松平康道の長男だったが、浜田藩主・松平康定に子がないため、康定の婿養子となり家督を相続した。

文化文政期の幕府の実力者水野忠成の歩調に合わせ、彼に追随する形で順当に昇役し、老中に就任した。

忠成同様、賄賂などの馴れ合いには鷹揚なところがあり、但馬出石藩仙石家の筆頭家老の仙石左京から6000両もの賄賂を受け取り、さらに天保2年(1831年)に実弟の分家旗本寄合席松平康正(松平主税)の娘を左京の息子小太郎に嫁がせたが、これがのちの康任失脚の布石となってしまった。

忠成死後、康任が老中首座となったが、この頃から閣内は康任派と水野忠邦派の抗争が激化した。天保5年(1834年)に発生した仙石騒動において、仙石左京に肩入れした不正の計らいを行い、老中辞任に追い込まれた[1]

また別件で、浜田藩ぐるみで竹島密貿易を行っていたこと(竹島事件)も発覚し、名乗りを下野守と改めさせられたうえ、永蟄居を命じられた。康任の後、家督を継いだ次男の康爵は間もなく陸奥棚倉に懲罰的転封を命じられた[2]

天保12年(1841年)、63歳で死去した。

経歴

[編集]

系譜

[編集]

父母

正室

子女

脚注

[編集]
  1. ^ 仙石小太郎は八丈島に遠島処分とされたが、八丈島に向かうために立ち寄った三宅島で発病し、死亡した。小太郎の荷物は皆盗まれ、寝巻きしか残っていなかったと伝わる。
  2. ^ 代わりに浜田藩に入った松平武厚の養子松平斉良は第11代将軍徳川家斉の実子であるため、康任の不手際に乗じて元の館林藩よりも豊かな浜田藩を斉良に与えようとした側面もある。ただし、斉良は藩主を継ぐことなく没している。
  3. ^ 昭和新修華族家系大成 上」国立国会図書館デジタルコレクション

関連項目

[編集]