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松浦 淳六郎(まつうら じゅんろくろう、1884年(明治17年)8月11日 - 1944年(昭和19年)2月12日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・沢井。
福岡県出身。大庄屋・松浦虎作の六男として生まれる。東京陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年11月、陸軍士官学校(15期)を卒業、翌年2月、歩兵少尉に任官し歩兵第24連隊付となる。陸軍戸山学校教官、陸士教官などを経て、1912年11月、陸軍大学校(24期)を卒業。
陸士教官、朝鮮軍参謀、参謀本部員、歩兵第2連隊大隊長、参謀本部員、歩兵第13連隊長、教育総監部庶務課長、陸軍省副官などを経て、1930年8月、陸軍少将に進級。歩兵第12旅団長、人事局長を歴任し、1934年8月、陸軍中将となった。いわゆる皇道派の中心人物の一人である。
陸軍歩兵学校長、第10師団長を経て、1937年3月、二・二六事件後の粛軍人事により予備役に編入された。賀陽宮家別当を勤めたのち、第二次上海事変に伴い1938年5月、召集され新編の第106師団長となり、武漢作戦、南昌作戦に参加。1939年5月、参謀本部付となり、同年7月に召集解除された。