まつだ ゆうさく 松田 優作 | |||||||||||
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生年月日 | 1949年9月21日 | ||||||||||
没年月日 | 1989年11月6日(40歳没) | ||||||||||
出生地 |
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死没地 |
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国籍 |
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身長 | 183 cm | ||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||
職業 |
俳優 歌手 | ||||||||||
活動期間 | 1972年 - 1989年 | ||||||||||
配偶者 |
松田美智子 (1975年 - 1981年) 松田美由紀 (1983年 - 1989年) | ||||||||||
著名な家族 |
熊谷真実(義姉) 松田龍平(長男) 松田翔太(次男) 松田ゆう姫(次女[注釈 1]) | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『太陽にほえろ!』 『俺たちの勲章』 『大都会 PARTII』 『探偵物語』 『新・夢千代日記』 映画 『暴力教室』 『人間の証明』 『遊戯シリーズ』 『蘇える金狼』 『野獣死すべし』 『家族ゲーム』 『探偵物語』 『ア・ホーマンス』 『華の乱』 海外映画 『ブラック・レイン』 | |||||||||||
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松田 優作(まつだ ゆうさく、1949年〈昭和24年〉9月21日[注釈 2] - 1989年〈平成元年〉11月6日) は、山口県下関市出身の俳優、歌手[2]。2020年現在、肖像権は死没時の所属先であるセントラル・アーツ(東映)[3][4]、キャラクターライセンシングは1998年に設立されたオフィス作がそれぞれ管理している。身長183cm[2]。空手は二段というプロフィールもあるが、実際には空手有段者ではなかった[2]。
山口県下関市で、日本人の父と当時、質屋を営む韓国人(在日1世)の母との間に非嫡出子として生まれた[5][6]。父親は長崎出身の保護司で当時39歳、郷里に妻子を持つ180センチメートル近い大柄な男性だった[7]。父親は優作が生まれてすぐに死んだ[2]。2人の異父兄がおり、兄弟仲は良かったが、次第に自身の出生の秘密に気付き始め、それが原因で孤独を感じるようになる。
1957年下関市立神田小学校へ入学。1963年下関市立文洋中学校へ入学。1966年山口県立下関第一高等学校(現・山口県立下関中等教育学校)へ入学[2]。1967年11月、「米国へ行って弁護士になれ」との母親からの厳命により[2]、不本意ながら山口県立下関第一高等学校を2年で中退し、叔母夫妻を頼って米国籍を得る為に渡米する[2][8]。
カリフォルニア州モントレー郡シーサイド市のシーサイド高校に入学[8]。しかしながら、叔母夫妻の離婚訴訟や言葉のギャップなどに悩み、1968年9月に母に無断でシーサイド高校を中退する。シーサイド大学の体育館で観たニューヨークのアングラ劇団「ラ・ママ」を観て、こんな世界があるのかと感銘を受け[2]、芝居をやりたいと思い立ち帰国[2][8]。長兄一家が居住する東京都豊島区のアパートに居候し、豊南高等学校夜間部普通科の4年生に途中編入。1970年に関東学院大学文学部に入学する。
1971年3月、劇団『文学座』の入所試験を受けるも一次の筆記試験で不合格[2]。同年5月、金子信雄主宰の劇団「新演劇人クラブ・マールイ」に入団[8]。ここで最初の妻美智子と知り合う。卒業式の場で主催者の金子から𠮟責を受け、退団する[9]。
1972年4月、文学座付属演技研究所十二期生となり、文学座同期には阿川泰子、高橋洋子、山西道広、1期後輩に中村雅俊、1期先輩に桃井かおりがいた。役者に専念するために、6月には大学に退学届を出す。この頃、『突撃! ヒューマン!!』のヒューマン/岩城淳一郎役のオーディションを受けたという[10]。また、1969年(昭和44年)頃の無名時代に新宿駅東口のトリスバー「ロック」でバーテンダーを務めていた際に、客として来ていたひし美ゆり子、原田大二郎、村野武範らと知り合い交友を結んでいる。村野は自身が出演していた『飛び出せ!青春』のプロデューサーである岡田晋吉が新人俳優を探していることを聞き、「自分の研究所にちょっと面白い男がいる。」と松田を推薦した。岡田が後で聞いた話によると、村野は優作を優秀な俳優として推薦したわけでなく、この前日麻雀に負けた時の約束で、仕方なく優作を岡田に紹介したということだった[11]。岡田は文学座の稽古場に視察に行くと、芝居に対する体当たりの真剣さと、強引とも思える度胸の良さに驚く[12]。テストでチョイ役に出演させると、迫真の演技にスタッフも度肝を抜かれた[13]。これがきっかけで、1973年、刑事ドラマ『太陽にほえろ!』[注釈 3]にジーパン刑事としてレギュラー出演[14]、その活躍・殉職シーンが話題となる。また、志垣太郎主演の東宝『狼の紋章』にて映画初出演を果たした。
同時期、『太陽にほえろ!』出演を機に「現在は松田優作という通称名を使っているので番組の関係者にも知られていませんが、もし僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが失望すると思います」という理由で法務省に帰化申請を行い、日本国籍を取得[7]。これにより、通名だった松田優作が本名となった。
1974年には黒木和雄監督の時代劇映画『竜馬暗殺』で、主演の原田芳雄と共演し、時代劇初出演。松田優作は原田芳雄に心酔し、後に原田の隣の家に引っ越したという[15]。続いて74年11月公開の澤田幸弘監督、日活制作のコメディ・青春映画『あばよダチ公』[16]で映画初主演を果たす。映画評論家、樋口尚文は、同作品に高評価を与えている[17]。
1976年1月31日、前年7月19日に行なわれた『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げの際、19歳の予備校生に対して共演者と共に暴力を振るい、全治3か月の重傷を負わせた容疑で警視庁新宿警察署に逮捕される[2]。このため、毎日放送の4月新番組『隠し目付参上』をクランクイン寸前に降ろされ、1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛した[18][注釈 4]。岡田晋吉は「鹿児島などの事件で芸能界が彼を半年間の謹慎処分にしたというのは噂だけです。真相は松田自身が"休みたい"と自分から相談を持ち掛けたからで、仕事をしないのはあくまで松田自身の自主規制です。私自身、スケジュールさえ合えばすぐに彼と仕事がしたいと思っています」と述べている[2]。同年2月5日、東京地方検察庁は傷害容疑で松田を起訴[19]、同年3月10日、東京地裁で懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける[7]。
1976年、東映『暴力教室』 (岡本明久監督)により映画復帰を果たす[20]。同作品では安西マリアらと共演した。また、同年に公開された時代劇『ひとごろし』では、臆病な侍という今までになかった役柄を演じ、時代劇初主演となる。同年7月25日にはアルバム『まつりうた』で歌手デビュー。1977年、刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰した。
1979年には村川透監督角川映画『蘇える金狼』主演。この映画の前には、ハワイへ飛び、射撃場で実弾射撃演習をおこなった[15]。同年、澤田幸弘監督のアクション映画『俺達に墓はない』主演。また、映画では推理・ミステリー映画『乱れからくり』 (泡坂妻夫原作、児玉進監督)。同年にはテレビドラマ『探偵物語』に主演。この頃多くのアクション映画に主演しているが、ボブ・ディランをもじった朴李蘭の名で、劇団の旗揚げも行う。
1980年に村川透監督の東映映画『野獣死すべし』では、撮影のために10kgの過酷な減量だけでは飽き足らず、奥歯を4本抜き、さらに山籠もりまでしたという[15]。1981年、黒澤満を信頼し[21]、熊谷美由紀と一緒に東映系[4]のセントラル・アーツに移籍[21]。この後、アクション映画からしばらく距離を置き、演技派俳優への道を模索する。また、70年代後半には、サングラスをかけて原田芳雄の模倣、その後、萩原健一の演技をマネするなど、好きな俳優の演技スタイルを取り入れてしまうことは、映画業界でよく知られていた。この時期には音楽活動にも熱中し、ドラマ「探偵物語」では自身の出演場面を減らした回もあった。行きつけの酒場「レディ・ジェーン」の店主、大木雄高によれば、ジャズ、フリー・ジャズや、ピアソラのタンゴなどを好んで聴いていたという。
1981年、泉鏡花原作の文学作品『陽炎座』[注釈 5]、松田優作の楽曲が織り込まれ、かつ、主人公の少年愛的な場面を描いた工藤栄一監督の『ヨコハマBJブルース』に主演。それまでのイメージとは異なる役柄を演じた。また『新・事件 ドクターストップ』以降、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』『追う男』とNHKドラマへの出演が続いた。また、82年の向田邦子ドラマ『春が来た』で桃井かおりと共演した際に、桃井から「ドラマをなめてる」と言われ、大げんかになったこともある[15]。
1986年には映画『ア・ホーマンス』製作途中で、作品の方向性に関して意見が食い違ったため、監督の小池要之助が降板。松田自らがメガホンを取ることとなり、これが最初で最後の監督作品となった[15][注釈 6]。やくざ抗争とSFテイストを融合した異色の作品である[注釈 7]。
1988年、深作欣二監督の時代映画『華の乱』では、国民的女優吉永小百合と共に主役を演じる。この撮影をしている頃から、松田は尿が出なくなり腹がパンパンに張っていたという。その後、遺作ともなったアメリカ映画『ブラック・レイン』に出演し、念願のハリウッドデビューを飾る。同映画の撮影開始前の1988年9月27日に自宅のトイレで倒れ東京都武蔵野市にある西窪病院 (現在の武蔵野陽和会病院)に緊急入院し、自身が癌に侵されている事を知るが[2]、延命治療を拒み、撮影に挑んだ(妻の松田美由紀によると、癌の診断を信用せず次々に医師を変え、治療に進まなかったため知己の医師に「今は癌ではないが放置すると癌になる」と説得してくれるよう頼んでいたという)。なお、病気の事実を知る者は、撮影関係者では安岡力也のみであり、周囲にも堅く口止めがされていた。
1989年8月頃から腰が痛いと言い始め[3]、10月6日、第3回東京国際映画祭で来日中の『ブラック・レイン』のリドリー・スコット監督に「どうしても挨拶したい」と出席したが[3]、舞台挨拶を断り帰宅[3]。これが公に見せた最後の姿だった[3]。翌10月7日、治療のため通院していた西窪病院に最後の入院[3][注釈 8]。
1989年11月6日午後6時45分、入院中の西窪病院で膀胱癌の腰部転移により死去。40歳没[注釈 9]。法名は、「天真院釋優道」。墓所は、東京都あきる野市の築地本願寺西多摩霊園。所属事務所の後輩で、松田が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは松田の遺体の前で「優作さん! 起きてください! 早すぎるよ!!」と泣き叫んだ。葬儀には萩原健一、倍賞美津子らも参列した。萩原健一は妻の松田美由紀の手を取り、涙ながらに弔意を述べていた。
2000年の発表の『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の12位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」でも第12位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優6位となっている[22]。
日本郵便が2006年10月10日に発行した特殊切手「日本映画II」(現代の名作)(1980年 - 2000年代公開)は、代表的な日本映画10作品を選定しているが、その1本に松田主演の映画『蘇える金狼』が選ばれた[23]。
1973年(昭和48年)
1974年(昭和49年)
1976年(昭和51年)
1977年(昭和52年)
1978年(昭和53年)
1979年(昭和54年)
1980年(昭和55年)
1981年(昭和56年)
1983年(昭和58年)
1985年(昭和60年)
1986年(昭和61年)
1988年(昭和63年)
1989年(平成元年)
1975年(昭和50年)
1976年(昭和51年)
1977年(昭和52年) 10月 - 11月
1978年(昭和53年)
1979年(昭和54年)
1982年(昭和57年)
1983年(昭和58年)
1984年(昭和59年)
1986年(昭和61年)
1988年(昭和63年)
1989年(平成元年)
など
発売日 | 面 | タイトル | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 規格 | 規格品番 |
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東宝レコード | |||||||
1976年 | A | 銀次慕情 | 松田優作 | 山西道広 | あかのたちお | EP | XT-5009 |
B | 居酒屋 | 佐井好子 | 大野雄二 | ||||
ビクターレコード | |||||||
1978年7月25日 | A | Uターン | 島武実 | 宇崎竜童 | 大野雄二 | EP | VIH-1023 |
B | ひとよ酒 | 佐井好子 | |||||
1980年5月21日 | A | 白昼夢 | 松田優作 | 芳野藤丸 | 大谷和夫 | EP | VIH-1503 |
B | UPWARD MORE | 東海林良 | |||||
1981年4月21日 | A | ブラザーズ・ソング[注釈 11] | 大津あきら | 鈴木キサブロー | 今剛、川村栄二 | EP | VIH-1539 |
B | LADY | 竹田和夫 | クリエイション | ||||
1981年4月21日 | A | 夢・誘惑 | EX、松田優作 | 梅林茂 | EP | VIH-1644 | |
B | 246の幾何学 Geometry 246 | 松田優作 | |||||
1985年3月21日 | A | ワン・フロム・ザ・ハート One From The Heart[注釈 12] | 松田優作 | 梅林茂 | EP | VIH-1662 | |
B | ナイト・パフォーマンス Night Performance |
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 |
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東宝レコード | |||
1976年7月25日 | まつりうた | LP | AX-5001 |
ビクターレコード | |||
1978年8月25日 | Uターン | LP | VIH-6028 |
1980年5月1日 | TOUCH
Side:A
Side:B
|
LP | VIH-6070 |
1997年2月21日 | CD | VICL-15060 | |
1981年5月21日 | HARDEST DAY
Side:A
Side:B
|
LP | VIH-28039 |
1997年2月21日 | CD | VICL-15061 | |
1982年11月21日 | INTERIOR
Side:A 「OPEN YOUR EYES SIDE Performed with EX」
Side:B 「CLOSE YOUR EYES SIDE Performed with KATSUO OHNO BAND」
|
LP | VIH-28106 |
1997年2月21日 | CD | VICL-15063 | |
1985年3月21日 | DEJA-VU
※ 松田優作 with EX Side:A
Side:B
|
LP | VIH-28210 |
1997年2月21日 | CD | VICL-15064 | |
1987年4月21日 | D.F. NUANCE BAND
Side:A
Side:B
|
LP | VIH-28287 |
1997年2月21日 | CD | VICL-15065 |
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 | 備考 |
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ビクターエンタテインメント | ||||
1981年11月21日 | HARDEST NIGHT LIVE
Side:A
Side:B
|
LP | VIH-28068 | |
1997年2月21日 | CD | VICL-15062 | ||
2017年3月8日 | CD | VICL-64746 | 紙ジャケット仕様。 | |
2021年2月3日 | LAST LIVE
1987年5月12日 大阪サンケイホールでの模様を収録。 Disc1
Disc 2
|
CD | FJSP417 | 初回限定盤 |
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 |
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ビクターエンタテインメント | |||
1990年2月21日 | Yusaku Matsuda 1978-1987
|
CD | VICL-22009 |
1997年2月21日 | CD | VICL-2180 | |
2021年3月10日 | UHQCD | VICL-77009 | |
2021年3月10日 | Yusaku Matsuda 1978-1987
Disc1
Disc2
Disc3『YUSAKU MATSUDA SOUL VIBRATION 1990.02.21』 ※ 1990/2/21にビクタースタジオで行われた追悼ライヴ・イベント。約55分。 ※ 黒田征太郎のライヴ・ペイティングの模様、脚本家・丸山昇一のMCなども収録。
|
UHQCD
+CD +DVD |
VIZL-1868 |
発売日 | タイトル | 規格 | 規格品番 |
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ビクターエンタテインメント | |||
2008年6月11日 | コンプリートボックス「SLOW NUANCE」
※ 松田優作が残したアルバム8枚を紙ジャケCDにて再現。 ※ 人気ブランド SATORU TANAKA による特製Tシャツつき ※ フォトカード3枚つき DISC-1 『まつりうた』 DISC-2 『Uターン』 DISC-3 『TOUCH』 DISC-4 『HARDEST DAY』 DISC-5 『HARDEST NIGHT LIVE』 DISC-6 『INTERIOR』 DISC-7 『DEJA-VU』 DISC-8 『D.F NUANCE BAND』 |
CD | VIZL-274 |