東劇ビル 本社及び関連部署、子会社と上映館東京劇場が入居している。 | |
種類 | 株式会社 |
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機関設計 | 監査役会設置会社[1] |
市場情報 |
大証1部(廃止) 9601 1949年5月14日 - 2013年7月12日 |
本社所在地 |
日本 〒104-8422 東京都中央区築地四丁目1番1号 北緯35度40分3.6秒 東経139度46分7.2秒 / 北緯35.667667度 東経139.768667度座標: 北緯35度40分3.6秒 東経139度46分7.2秒 / 北緯35.667667度 東経139.768667度 |
設立 |
1920年(大正9年)11月8日 (帝国活動写真株式会社) |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 6010001034809 |
事業内容 |
演劇、映画その他各種の興行 演劇の企画、製作及びその請負 不動産の賃貸、管理、売買、交換及び仲介 他 |
代表者 | |
資本金 |
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発行済株式総数 |
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売上高 |
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営業利益 |
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経常利益 |
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純利益 |
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純資産 |
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総資産 |
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従業員数 |
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決算期 | 2月末日 |
会計監査人 | 新創監査法人[2] |
主要株主 | |
主要子会社 | #関係会社参照 |
関係する人物 | |
外部リンク | https://www.shochiku.co.jp/ |
松竹株式会社(しょうちく、英: Shochiku Co.,Ltd.[3])は、日本の映画、演劇の制作、興行、配給を手掛ける日本の企業。東宝、東映と並ぶ日本のメジャー映画会社「御三家」のひとつ。
演劇の興行会社として創業し、その後映画の配給や制作にも進出した。
映画については戦前より“松竹大船調”と呼ばれるホームドラマ、人情喜劇を得意とし、東宝のサラリーマン喜劇、特撮、東映の時代劇、ヤクザ映画、日活のアクション映画、青春映画などとともに各大手会社のカラーを鮮明にした日本映画全盛期を担った。1960年代より専属俳優よりはテレビ等で人気の出たスターを迎える傾向が強くなり、その一人である渥美清は1970年代以降『男はつらいよ』シリーズで、外部俳優ながらも同社の屋台骨を支えた。彼の死(1996年)後3年弱で松竹は邦画興行ブロックを停止、翌年には大船撮影所も閉鎖された。
祖業である演劇・舞台興行においては、東京に2ヶ所(歌舞伎座、新橋演舞場)、関西に2ヶ所(京都南座、大阪松竹座)の4ヶ所の劇場を保有。歌舞伎興行をほぼ独占的に扱う他、新派や松竹新喜劇も手掛けている。また傘下に持つ松竹芸能では、主に関西で「角座」での演芸公演を行っており、吉本興業と並ぶ上方演芸・大阪芸能界の主要事務所となっている。
第二次世界大戦前の1935年(昭和10年)、松竹は吉本興業との間に紳士協定を締結。関西において松竹は一切演芸界に手を出さない。その代わりに吉本は外の会社に所属演芸師を出演させたり、他会社に投資したりしないという取り決めがなされ、松竹は漫才などの演芸部門から手を引いた時期がある。しかし1939年(昭和14年)に吉本興業の林正之助が東宝の経営陣に迎えられ、所属芸人を東宝映画に出演させ始めた。松竹は協定が破られたとして演芸部を新設して対抗。折から新興キネマによる吉本所属芸人の大量引き抜きもあり、業界内は所属先をめぐり大混乱となった[4]。その後、各社間の手打ちが行われたが、松竹は会社として演芸部門についても維持し続けることとなった。
文楽(人形浄瑠璃)や歌劇(松竹歌劇団、大阪松竹歌劇団(現在のOSK日本歌劇団))、直営の演芸(浅草松竹演芸場、道頓堀角座、神戸松竹座等)から相撲興行やプロ野球(セ・リーグ加盟の松竹ロビンス)、ボウリング、アイススケートリンクの運営等幅広い活動を行い、一時は明治期からのお雇い外国人、アウグスト・ユンケルを指揮者として松竹交響楽団なる本格的なオーケストラまで所有していた(戦時中は「大東亜交響楽団」と改称したが戦後に自然消滅)。1995年には創立100年事業の一環として松竹大船撮影所の敷地内に「鎌倉シネマワールド」なるテーマパークを開業させたが、不入りでわずか3年で閉鎖に至った。
また、メディア対策として、東宝や大映(のちの角川書店)等と共にフジテレビジョン(フジテレビ)の会社設立に参加(1959年開局)。なお、現在はフジテレビ旧会社法人の後身に当たるフジ・メディア・ホールディングス株式の殆どを放出している反面、松竹大株主の10位以内にTBSテレビの名が連なる(後にTBS〈旧東京放送〉旧会社法人の後身に当たるTBSホールディングスと資本業務提携)など放送局との関係に変化が見られる(フジ・メディア・ホールディングスは認定放送持株会社である)。一方では通信衛星を利用した自社製作の番組(映画、テレビドラマ、劇場中継等)を中心に流す「衛星劇場」「ホームドラマチャンネル」「BS松竹東急」等を立ち上げている。
2005年、創業110年を記念した女優発掘オーディション松竹STAR GATEを歌舞伎座で開催。
1936年に撮影所を蒲田から大船に移した時期に富士山の背景による松竹タイトルが初登場した。横書きで「松竹映画」の文字が出てくるのは戦中で、戦後は様々なバリエーションの松竹タイトルが作られるも結局は富士山背景のバージョンに落ち着いた。 1980年代序盤に夜明けのアニメーションが追加され、1993年には富士山をイメージしたCGを背景に「松竹映画」に加えローマ字で「Shochiku」と表記するようになったが、2000年「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の配給に際して、既存のロゴが似合わないという声があり、2003年に既存のオープニングを基に図案化したCGによる富士山の下にローマ字で「SHOCHIKU」と表記するオープニングが新たに製作され、それ以降に製作されたほとんどの映画がそのロゴを使用するようになったが、前述した一世代前のロゴは主に時代劇や山田洋次監督作品で引き続き使用されていた。後述する新ロゴリニューアル後も、洋画で使用されるケースがある(「天才作家の妻 40年目の真実」など)。
2015年の創業120年を機に、チームラボ製作の「継承」と「発展」を表現したもの[9] と、IMAGICAウェスト製作の本物の富士山の映像をバックに「松竹」の文字とロゴと、ロゴの下にローマ字で「SHOCHIKU」の文字を映し出したもの[10] の2種類にリニューアルされたが、IMAGICAウェスト製作のロゴが主に使用されるようになった。ただし、チームラボ制作のロゴも一部作品で使用されている(「あした世界が終わるとしても」など)。
ちなみに1930年代前期から戦中にかけてエンドタイトルの後に松竹マークが数秒間映し出される作品共通の演出が用いられていた。この演出は戦中から終戦期の作品では松竹マークを背景に「終」の文字が映し出されるものに変わり、戦後は用いられなくなった。
2011年現在、京都撮影所のみ現存している。
1920年(大正9年)11月1日、松竹キネマ合名社創業と同時に、東京歌舞伎座にて自社作品との併映の形で洋画の興行を開始したのを嚆矢とする。松竹キネマ合名社内には外国部が設置され、洋画の買い付けにあたった。同年12月31日、銀座金春館を洋画専門劇場として開場。生駒雷遊や徳川夢声といった一流活弁士を出演させた。翌1921年(大正10年)からは浅草の帝国館を松竹洋画の拠点と定めたが、大作の一部は歌舞伎座や明治座でも興行を行った。
一方、関西松竹合名社の手により、1923年(大正12年)5月17日には道頓堀に大阪松竹座が完成。洋画興行と松竹楽劇部(のちのOSK日本歌劇団)による音楽舞踊のアトラクションを採り入れ話題となった。同年9月1日の関東大震災により、松竹キネマ合名社の外国部は大阪に移転。浅草帝国館は復興し、引き続き松竹洋画の本拠としたが、外国映画社の日本支店の多くは京阪神地区に移転していたため、事実上大阪松竹座が基幹劇場となっていた。
1924年(大正13年)、関西松竹合名社は国産映画の量産に力を入れることになり、洋画の輸入買付を手控える。以降同社は外国映画社から提供を受けた作品を配給する事に専念した(フリー・ブッキング制)。
1924年(大正13年)6月、松竹キネマ合名社は新宿武蔵野館と提携。1926年(大正15年)には新宿武蔵野館に代わり目黒キネマが封切館に加わったが、やがて自社作品の拡充のため外国部を廃止して洋画興行および配給から撤退した。
一方、関西松竹合名社は大阪松竹座の成功に伴い、1924年12月31日に新京極の明治座を「京都松竹座」に改称して洋画興行を開始、翌1927年(昭和2年)には新開地の「神戸松竹劇場」を「神戸松竹座」に改称し、また「名古屋末広座」を買収して「名古屋松竹座」とするなどにより、松竹座チェーンが形成された。
1928年(昭和3年)8月、浅草松竹座が開業し、翌1929年(昭和4年)9月には四谷大木戸の「山手劇場」を「新宿松竹座」と改称。松竹座チェーンは東京に進出。また大阪松竹座・浅草松竹座にそれぞれ輸入部を設け、洋画の購入を再開した。
1931年(昭和6年)5月、松竹座チェーンのライバルであったパラマウント映画チェーンと合併することとなり、松竹パ社興行社を設立。浅草大勝館・新宿松竹座・有楽町邦楽座・新宿武蔵野館・浅草電氣館・大阪松竹座・京都松竹座・神戸松竹座・大阪公楽座を直営劇場として洋画興行を行なったが、これに11月から日比谷帝国劇場が加わった。
トーキーと字幕の発達により、活動弁士の解雇が相次いだ。
1933年(昭和8年)5月、パラマウント側が本来の映画配給に専念すべく、興行も含めた松竹パ社興行社から撤退。同年6月からSYコンパニー(松竹洋画興行部)が発足した。浅草常盤座・新宿昭和館が新たに加わり、都内の配給網は2系統になった。この後も契約館を増やし、運営母体も1936年(昭和11年)4月には松竹興行から独立して松竹洋画興行社となった。
1937年(昭和12年)4月、松竹キネマが松竹興行を合併し、現在の「松竹株式会社」となったため、松竹洋画興行社も合併に参加して、松竹株式会社の洋画部になった。さらに翌1938年(昭和13年)洋画の新規輸入が許可制になったため、輸入件数が減少し、洋画部は映画部洋画課に、翌1939年(昭和14年)には映画部洋画興行係に機構が縮小されていった。
1940年(昭和15年)、帝国劇場を失い、洋画購入件数も減少するが、却って希少価値を生んだため興行成績は良好であった。しかし1942年(昭和17年)4月に戦時統制に伴う「社団法人映画配給社」が設立され、松竹の洋画興行はここで一旦終止符が打たれた。
1946年(昭和21年)、占領軍により設置された「セントラル映画社」から、東宝と共に洋画興行を引き受けて復活。セントラル映画社との交渉がこじれ一旦打ち切られるが、翌1947年(昭和22年)、松竹保善社の名で再契約し、「浅草ロキシー映画劇場」(旧金龍館)で洋画興行を行い、同館内に「ロキシー興行社」を設置して洋画興行を復活させた。1949年(昭和24年)3月、接収されていた「有楽町邦楽座」が「ピカデリー劇場」として返還されたのを機に、ロキシー興行社を解消して松竹本社内に洋画係を復活。1950年(昭和25年)に洋画配給課が設置され、1927年(昭和2年)以来(※)の洋画配給を復活させた(※松竹キネマ時代から数える)。
1951年(昭和26年)11月、ユナイテッド・アーティスツ社(ユナイト映画)と提携。興行・配給成績共に洋画界の覇権を握る。配給部門は1955年(昭和30年)に外画部、1958年(昭和33年)に外国部に改められると共に業容を拡大した。
1959年(昭和34年)ユナイト社との提携を解消。別途セレクト・インターナショナル映画社と合弁で「松竹セレクト国際映画」を設立して、洋画配給部門を独立させた。しかし、翌1960年(昭和35年)には基幹劇場の築地・松竹セントラル劇場等数館が日本映画の上映館に転換したことにより、8月上旬よりSYチェーンの番組編成権が東宝に移行[11]。1961年(昭和36年)12月8日松竹、東宝が京浜地区洋画興行における両社提携とそれに伴うTY(東宝洋画系)、SY(松竹洋画系)両チェーンの解体、拡大強化を共同発表した[12] ことで「SYチェーン」は事実上崩壊し、全国をカバーする洋画興行はすべて東宝が握る事になった。
1962年(昭和37年)、松竹セレクト国際映画はセレクト側が撤退したため、松竹国際映画に改称。しかしながら依然として洋画配給としては弱体であったため、映配株式会社と合併することとなり、同年10月、松竹映配が発足。一方の興行チェーンも同年9月に東急文化会館と全面提携[13]。配給面でも翌1963年1月9日に同社と提携することで東急との繋がりが生じ[14]、1965年(昭和40年)2月27日独自の興行チェーンを復活。「松竹・東急チェーン」(STチェーン)が発足した[15]。なお、東急との関係で東映洋画系もこれに含まれることがある。
一方、買付映画の不振により松竹映配の業績は悪化。1973年(昭和48年)8月に解散することとなり、受け皿会社として同年9月に富士映画を発足。1983年(昭和58年)、松竹富士に改称したが、これも1999年(平成11年)に合理化のため解散、配給部門としては長期低迷が続いている。現在、松竹の洋画配給は本社映像本部が行っている。
(以下の映画館、シネコンはいずれも2011年3月から松竹マルチプレックスシアターズが運営。)
2011年3月1日に松竹本社が映画興行部門を松竹マルチプレックスシアターズに譲渡したため、松竹本社の直営映画館やシネコンは現在存在しない。
早稲田松竹を経営している松竹映画劇場株式会社は松竹グループに属していない別会社である。同社の実態は不動産賃貸業で、シブヤ西武(旧渋谷松竹映画劇場跡)が主な物件である。ただし、現松竹社長の迫本淳一が大学卒業後の一時期所属していたことがある。
松竹は経営参加を行ったフジテレビジョンを通じてテレビ進出を図るが、テレビ番組はそれよりも前に手掛けていた。初期はテレビ映画がメインであったが、大阪・毎日放送(MBS)とスタジオドラマを共同製作していた例もある。なお、大阪地区では他に朝日放送(ABC)と組んだ「道頓堀アワー」(角座から演芸中継)や読売テレビと組んだ「親バカ子バカ」等一連の寛美物のテレビドラマがあった。2000年代以後は単発の2時間ドラマ制作を僅かに見かける程度に縮小している。
以下の作品は代表的なものをピックアップしたものである。ほとんどは単独製作ではなく松竹映像商品部が製作委員会に加入する形式で製作されている。
2008年にはOVA作品『絶対衝激 〜PLATONIC HEART〜』のDVD発売元となっている。
松竹がこの分野に本格的に参入したのは上掲の通り、つい近年のことである。しかしながら、1960年代に黒い編笠などのヒーローものに連なる30分ドラマを制作し、その中で散発的に特撮を使った作品を製作しており、また劇場用映画として1967年に宇宙大怪獣ギララ、1968年に吸血鬼ゴケミドロ、吸血髑髏船、昆虫大戦争を僅か4本ながら製作している(この「ギララ」は「男はつらいよ 寅次郎真実一路」にも冒頭の寅次郎の夢シーンで登場する)。尚、ゴケミドロの企画及び特撮にピープロダクションが参加しているが、同社は同時期の神州天馬侠と風でも特撮を担当している。
アニメーションへの参入は更に古く、1933年に「力と女の世の中」を松竹蒲田撮影所が製作するが経済的事情により、わずか3作品で終わる(いずれも現存せず)。1941年には、当時の漫画映画ブームに着目して松竹動画研究所を設立、「フクちゃんの奇襲」(原作・横山隆一)など戦時下にも拘わらず終戦までに6作品を製作発表している。この松竹動画研究所は日本アニメーション界の草分け的存在であり、日本のアニメーション史に名を残す傑作『くもとちゅうりっぷ』や『桃太郎 海の神兵』など、叙情的なアニメ作品を戦時中に世に送り出したことで知られる。セル画の全編使用などアニメーションの製作技法を確立し、クオリティの高さに手塚治虫が感涙した逸話もある。これらの経緯から日本のアニメーションに、直接的にも間接的にも多大な影響を与えている。
多くの歌舞伎俳優と専属契約を結んでおり、歌舞伎の制作ならびに興行をほぼ独占している。昭和以降、歌舞伎俳優の集約が進み歌舞伎興行を事実上、独占することとなった。国立劇場での歌舞伎公演も、松竹の協力なしには成り立たない。歌舞伎座・南座・大阪松竹座など傘下の劇場で定期公演を行うほか、『松竹大歌舞伎』として全国巡業を実施し、国立劇場公演にも協力している。
1922年(大正11年)、大阪松竹座開場にあたり松竹楽劇部(後、大阪松竹歌劇団)を創設。1928年(昭和3年)に東京松竹楽劇部(後、松竹歌劇団)が創設された。東西それぞれでレビューを上演し、少女歌劇文化の隆盛に貢献した。1957年(昭和32年)に大阪松竹歌劇団が松竹から独立し、OSK日本歌劇団と改称して今日に至る。松竹歌劇団は東京を中心に活動を続けたが衰退し、1990年にレビューを終了し1996年に解散した。2004年以降、OSKが松竹傘下の劇場で定期公演を行うようになったが、いまも直接の関係はない。
下記劇場は年数回松竹の興行が行われる。
※劇場ではないが、徳島県鳴門市の大塚国際美術館・システィーナにおいて、2009年から年1回『システィーナ歌舞伎』と題する興行が行われている。『和と洋のコラボ』がメインテーマで、毎年新作が製作されている。
松竹ロビンスの項を参照。なお、松竹は役員派遣以外は本格的に球団経営には携わらず、あくまでもスポンサーの立場で終始していた。
現在は全て撤退している。
ほか
かつてはタクシー事業を行う子会社、松竹事業が存在し、中央無線(現・大和自動車交通グループ信和事業協同組合)に加盟していたが、1999年に京王交通(現・飛鳥交通・東京無線加盟)に事業が譲渡されている。
ほか
【映像ソフト・配信情報】