柳生 宗矩 (やぎゅう むねのり、旧字体 :柳生 宗矩󠄁 )は、江戸時代 初期の武将 、大名 、剣術 家。徳川将軍家 の兵法指南役。大和 柳生藩 初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流 (江戸柳生)の地位を確立した。
元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市 柳生町)に生まれる[ 1] 。父は柳生庄の領主で上泉信綱 から新陰流 の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳 (石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章 等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。
若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉 の小田原征伐 で陣借り をしていたとする話が伝わっている[ 注釈 1] 。文禄 3年(1594年 )5月、京都 郊外の紫竹村において、父・宗厳が黒田長政 の仲介により徳川家康 に招かれて無刀取りを披露した際に[ 3] 、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる[ 3] 。
柳生家再興・将軍家兵法指南役就任から大坂の陣[ 編集 ]
豊臣秀吉 の死後、家康と石田三成 達の対立が深まる中、慶長 5年(1600年 )に家康が上杉景勝 討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐 )。その道中、下野国小山に至って三成ら西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏 や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り[ 5] 、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2,000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年 )には後の2代将軍 ・徳川秀忠 の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1,000石加増、合わせて3,000石の大身旗本となった[ 6] [ 7] [ 1]
慶長20年(1615年 )の大坂の陣 では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を瞬く間に倒したという[ 注釈 2] 。
なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
柳生家の替紋「柳生笠」
大坂の陣の翌年、元和 2年(1616年 )には友人でもあった坂崎直盛 の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍し[ 注釈 3] 、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡 ( われもこう ) に雀」に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠 ( にがいがさ ) を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子・平四郎を引き取って200石を与えて大和に住まわせ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている。
元和7年(1621年 )3月21日、後の3代将軍となる徳川家光 の兵法指南役となり、新陰流を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永 6年(1629年 )3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年 )10月3日には、3,000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付 )となり、老中 ・諸大名の監察 を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年 )8月14日の4,000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩 を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年 )9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2,000石の加増もあり、所領は1万2,500石に達した[ 6] [ 7] 。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪 に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である[ 注釈 4] 。また、友人の沢庵宗彭 [ 注釈 5] を家光に推挙したのも、このころのことである[ 注釈 6] 。
芳徳禅寺 境内、柳生一族の墓所にある宗矩の墓
晩年は故郷である柳生庄に戻ることもあり[ 注釈 7] 、その際、柳生陣屋 に家臣や近隣の住人らを招き、申楽・闘鶏に興じるなどしていたという。正保3年(1646年 )江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年 76。
遺言によって武州端芝で火葬の上、豊島郡 下練馬 の圓満山廣徳寺 に葬られた[ 7] [ 10] 。その他、友人の沢庵宗彭 を招いて開いた奈良市 柳生下町の神護山芳徳禅寺 にも墓所があり、京都府 南山城村 田山の華将寺跡に墓碑がある。また、鍋島元茂 ・鍋島直能 により、現在の佐賀県小城市にある岡山神社内の玉成社に祀られてもいる。同年4月、その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。
子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳 (十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩 、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬 、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙 の4男と他2女がいる。
剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人[ 11] 」「刀術者之鳳(おおとり)[ 12] 」「父(石舟斎)にも勝れる上手[ 13] 」「剣術古今独歩[ 14] 」「剣術無双[ 15] 」など様々に賞賛されている。また、新井白石 や勝海舟 なども自著にて賞賛している。
一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術 ・武道 に大きな影響を与えた。その功績を讃え、平成15年(2003年 )には宮本武蔵 と並んで全日本剣道連盟 の剣道殿堂 (別格顕彰)に列せられている。この宗矩の思想をまとめた『兵法家伝書 』は、『五輪書 』と共に近世武道書の二大巨峰と評され、『葉隠 』や新渡戸稲造 著『武士道 』など武道以外の分野の書物にも影響を与えている。
流派当主としては、新陰流(柳生新陰流)[ 注釈 8] を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った[ 注釈 9] 。
幕臣 としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達氏 (伊達政宗 )、鍋島氏 (鍋島勝茂 、鍋島元茂 )、細川氏 (細川忠興 、細川忠利 )、毛利氏 (毛利秀就 )などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年 )の家光上洛 に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年 )の江戸城 普請の際の普請奉行などもこなしている。
将軍・家光には若いころからの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱 、春日局 と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。肩書きは兵法指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受けて、最後まで信頼され続け、見舞いの床においても兵法諮問に答えている[ 16] 。また、家光も生涯、宗矩以外の兵法指南役を持たなかった[ 注釈 11] 。
父親としては、子息4人のうち、長男・三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男・宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について沢庵より忠告を受けている。「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる」としてその出藍の誉れをたたえている[ 17] 。
宗矩の思想(兵法思想)は、その代表的著作である「兵法家伝書 」にて詳しく述べられている。
実戦でどのようにあるべきかという兵法本来の思想だけでなく、兵法は如何にあるべきかという社会的な面からの思想も述べられているのが特徴である。
社会的な面での思想
兵法(剣術)の理想として「活人剣」[ 注釈 12] を提唱した。
これは「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」というもので、戦乱の時代が終わりを迎えた際、「太平の世における剣術」の存在意義を新たに定義したものである。また、沢庵の教示による「剣禅一致(剣禅一如)」等の概念を取り込み、「修身 」の手段としての剣術も提唱したことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術 としての剣術を、人間としての高みを目指す武道 に昇華させる端緒となった。これらは大きく広まり、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の剣道 にも受け継がれた[ 18]
実戦的な面での思想
直接的な技法だけではなく、「心法」にも注目し、この重要性を説いた[ 注釈 13]
ここでいう心法は観念的なものではなく、現代で言うメンタルトレーニング的な面が強く、相手の動きや心理の洞察、それを踏まえた様々な駆け引き、またいかなる状況においても自身の実力を完全に発揮し得る心理状態[ 注釈 14] への到達・維持など、実戦における心理的な要素を極めることで、より高みに達することを目指したものであった。(その心の鍛錬のための手段として、禅の修行が有効であるとしている)これについて、技法を軽んじ、心法に偏重したと批判する意見[ 注釈 15] もあるが、宗矩自身は『兵法家伝書』において、あくまで技法を完全に修めた上で、これを自在に扱うために必要なものとして心法を説いている。
兵法家伝書
「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」
「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」
「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」
葉隠
出典不明
「刀剣短くば一歩を進めて長くすべし」
「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」
将軍家指南役にして、柳生新陰流(江戸柳生)の当主であった宗矩には多数の弟子がいた。それらの弟子達には、大名家へ指南役として仕えた者や、後に一流の流祖となった者も多かった。また、将軍家である秀忠、家光をはじめ、当主自ら入門している家も存在した。
当主自身が門下に入門している家、及び当主
大名家に仕えた門弟
御三家・一門・親藩[ 注釈 18]
譜代
外様
その他の門弟
柳生内蔵助
汀佐五右衛門
時沢弥平…天心流 流祖
久米平内兵衛長守
岡本仁兵衛…当流神影流流祖
竹永直人 …柳生心眼流 流祖
平井八郎兵衛…鹿島神道流流祖
茨木俊房…起倒流 流祖[ 注釈 20] 。石舟斎や三厳の門弟という説もあるが、宗矩から俊房に与えられた新陰流目録や、宗矩の署名がある起倒流目録が現存する
福野正勝…良移心当流 流祖。また茨木俊房と共に起倒流を起こしたとされる。
武藤安信(理兵衛)…宗矩の女婿
石川政春(蔵人)…真之真石川流 流祖
松平信定 (大河内松平家) …松平信綱 の四男。宗矩晩年の弟子で、後に「新陰流兵法目録事」を著す。
門弟とする説もある人物
武芸者/為政者の両方に於いて高名を為したため、宗矩の逸話には、史実上のものと、真偽が不明なものがそれぞれ多数存在する。
家光との逸話
島原の乱 の際、大将として遣わされた板倉重昌 の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(『徳川実紀』『藩翰譜 』)。またその際、落城までの流れを正確に予見したため、家光はじめ周囲は驚いたという[ 20] 。
元和8年(1622年)、新陰流を全て相伝してほしいと家光に強く要求されたため、伝書二巻を与えたが、伝書の末尾に「技法はこれで全てですが印可は別物です」という旨を記して、家光を諌めたという。(『玉成集』『新陰流兵法円太刀目録外物』)
寛永15年(1638年)、家光に兵法の事でかなり強い意見をした後、臍を曲げて1ヶ月ほど自宅に引き篭もったことがある。その際、沢庵が話を聞いたところ、「自分はなんとも思っておらず、全ては上様次第である。やましいことなど何もない、まっすぐなものだ」と答え、大笑いしたという。結局、その後、家光が宗矩の機嫌を取ったことで再び仲の良い状態に戻ったという[ 20] 。
寛永19年(1642年)、宗矩が湯治に出ていた間、沢庵和尚が家光の御前に出る度に、宗矩の話が出ないことはなく、ある時は「宗矩から和尚に手紙はないか」と十度も尋ねたという[ 20] 。
亡くなる前、見舞いに来た家光が「何か望みはないか」と尋ねた時、「息子達(三厳、宗冬)をどのようにされるかは御心次第で構いません。ただ、柳生庄に寺を建て、父宗厳を弔うため、末子六丸(義仙)を住職にさせて頂きたくお願い致します」と答え、自分の死後、所領1万2,500石と家財全てを将軍家に返上した。これを受けて家光は宗矩の遺志通りに差配し、所領と家財を三厳・宗冬・列堂に分配している[ 9] 。
宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。
家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。
沢庵との逸話
紫衣事件 により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海 や堀直寄 と共にその赦免の為に奔走している。これに対し、沢庵は後に手紙にて「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」と記している[ 20] 。
家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」。と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけを作った(『徳川実紀 』正保3年5月28日条)[ 注釈 23] 。
寛永12年(1635年)、家光の命によって沢庵が江戸に上府することになった際[ 注釈 24] 、麻布の柳生家下屋敷(現在の目黒雅叙園 の辺り)の長屋の一室を所望されたので、これを供した。沢庵はこの長屋の一室を「検束庵」と呼び、後に東海寺 の住職となるまで、家光から屋敷を与えると言われても断り、ここに住み続けた(『東海和尚紀年録』)
東海寺造営の際、家光に頼まれて宗矩が沢庵を説得したことで、沢庵は東海寺住持となる事を決めたという[ 20] 。
大名衆との逸話
島原の乱の鎮圧後、抜け駆けを咎められた鍋島家のために家光へ赦免嘆願を取り成し、減刑に成功したという(『元茂公御年譜』)。
亡くなる際、鍋島元茂 に与える伝書(『兵法家伝書』)への花押を最後の力で印した。この時、宗矩は半ば意識が朦朧とし、元茂の家臣・村上伝右衛門の力を借りて印したため、花押は大きく乱れたという(乱れ花押)。なお、この村上伝右衛門は、葉隠の口述者・山本常朝 の伯父である[ 21] 。
正保2年(1646年)、鍋島直能 が宗矩との兵法修行の際、国許の狩りで、向かってくる猪にわざと股の下をくぐらせ、後ろざまに抜き打ちで切り捨てた話をしたところ、「まだまだ修行が足りません。猪が股をくぐる前に仕留めなければ危ないでしょう」と諌めた。直能はこれに深く感じ入ったという[ 22] 。
細川忠利 の病が重くなった際、江戸にいた嫡子・細川光尚 の帰国のため、老中・酒井忠勝 と共に様々に取り計らったという[ 23] 。
伊達政宗 とは、かなり早くから交際があったという。慶長13年(1608年)、まだ3,000石の身であった宗矩の屋敷に政宗が遊びに来た際、振舞われた酒の美味さに惚れ込み、この酒を作れる杜氏 を自家に欲しいと申し出たので、宗矩は大和榧森の又五郎を紹介したという逸話がある。なお、その後、又五郎は伊達家の「御城内定詰御酒御用」として召し抱えられ、切米十両と十人扶持、また「榧森」姓を与えられ、子孫代々御用酒を供し、仙台の酒造りに大いに貢献したという[ 24] 。
寛永4年(1627年)11月、宗矩は胃潰瘍で倒れており、寛永6年(1629年)2月ごろになって、ようやく快復したという(宗矩から細川忠利宛の手紙)。この時、宗矩のために、伊達政宗が老中・酒井忠世 に「宗矩は今後も役立つ者であるから暇を与え、湯治にでも行かせてやってはいかがか」と促している[ 25] 。
寛永11年(1634年)、家光上洛時の朱印状発行の際、本家からの独立を狙った毛利秀元 、毛利就隆 の動きに対し、毛利秀就 からの頼みに応じて、これを防いだという[ 26] 。
大坂の陣の後、詮議を担当した元毛利家家臣・内藤元盛 (佐野道可)、及びその子息が主家の命によって自刃した一件(佐野道可事件)を嘆き、縁者に宛てて書状を送ったという。 [要出典 ]
その他の逸話
甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助(柳生利厳 )が家祖となる「尾張柳生家」とは、利厳の妹を外国人(柳生主馬 )に嫁がせた件をきっかけに、不和になったという[ 9] 。
能や踊りを好み、自らもよく能を舞っている。秘曲とされる関寺小町 を舞ったり、時には立ちくらみを起こすまで舞ったことがあったという[ 20] 。また、能役者とも交流があり、立ち合い能の人選をおこなったこともあった[ 27] 。ただし、好きが過ぎて大名家に押しかけて舞ったりすることもあったといい、沢庵より忠告を受けている(『不動智神妙録』)。
沢庵より挨拶の良い大名を取り成ししているという噂があるので注意せよと忠告を受けている[ 注釈 25] 。
かなりの喫煙者であり、沢庵より「かく(胸の病)」になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている[ 20] 。
家光との逸話
家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪戯を防いだという[要出典 ] 。
家光が宗矩が平伏しているところに「但馬、参る」と一撃を加えようとした時、敷物を引っ張って防いだという[ 28] 。
家光から大和高取藩 5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政 を推挙した。その際、代わりとして「山姥の槍」を所望した[ 注釈 26] [ 9] 。
家光に「檻に入って中の虎を撫でよ」と命じられた際、扇子のみを携えて檻に入り、気迫で虎の動きを封じて撫で、無事に檻を出たという(『東海和尚紀年禄』)
家光が辻斬りをしていると聞き、変装して先回りし、斬りかかってきた家光の剣を無刀取りで止め、これを諌めたという[要出典 ] 。
沢庵との逸話
沢庵和尚の流罪について、宝蔵院流の名人と呼ばれた中村市右衛門尚政 と試合して勝てば赦免する条件で仕合し、これに勝ったので、和尚の赦免が成ったという話がある(水上勉『沢庵』)
喫煙を沢庵に咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろう」と言い、部屋の外まで出る特製の長いキセルを作って煙草を吸い、「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという[ 29] 。
愛宕山の石段を馬で登ろうとして失敗したが、沢庵に啓示を受け、以来、石段であっても平地の如くに馬を操れるようになったという(『沢庵珍話集』)
一族との逸話
お藤の井戸(奈良市阪原町)
嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためとも(『正伝新陰流』)、鍛錬の為、飛ばした礫が誤って目に当たったためとも(『柳荒美談』)いわれている。ただし三厳のものと伝わる肖像画のは両目が描かれており、自著を含む三厳生前の記録にも隻眼であったことを示すものはない。
『柳生藩旧記』に、次男・友矩が家光の寵愛を受けて自分を超えて出世するのが気に入らなかったという記述がある。また家光から友矩を大名に取り立てるという話が出た際にはこれを固辞し、ほどなく友矩が職を辞して柳生庄に戻り、病死した際、その遺品から「3万石(または4万石)を与える」という家光から友矩へのお墨付きを発見し、ひそかに家光に返上したという[ 9] 。
三男・宗冬と仕合した際、「太刀が長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟を咎め、戒めのため、気絶するほどの一撃を与えたことがあるという[ 30] 。
柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「その桶の中の波はいくつある」と戯れに尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつありますか?」と即答したため、これを気に入り、側室として迎えたという。この娘が後に列堂義仙の母となったお藤とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがある(柳生観光協会『柳生の里』)。
武芸者としての逸話
宗矩が江戸城で敷居を枕にして寝ていた際、若い武士達がこれを驚かそうと障子を閉めたが、宗矩があらかじめ敷居の溝に扇を置いていたので、障子は閉まらなかったという[ 28] 。
能の名人観世大夫 の隙を見抜き、これに感づいた名人に感嘆の声を上げさせた。これを聞いた家光は「名人は名人を知るとはこのことか」と讃えた(『甲子夜話 』)。
乗馬の達人諏訪部文九郎 と馬上試合を行い、先に馬を叩くことで相手の動きを止めて勝利した。家光はこれを「まさに名人の所作である」と讃えた[ 30] 。
『葉隠』内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある(『葉隠 』)。
年老いた後にも、背後の小姓の殺気を察知するなど、老いてもなお衰えなかったという[ 13] 。
飼っていた猿が見よう見まねで剣を使えるようになり、ある時、これを牢人と立ち合わせたという話がある[ 31] [ 13] 。
ある日、宮本武蔵 に仕合を挑まれた際、「そなたの剣の境地は?」と問うたところ、「電光石火の如く」と武蔵の返事に「まだまだ修行不足」と挑戦を退けた。そこで逆に武蔵に問い返された時、自分の境地を「春風の如く」と返したという(『鵜之真似』)。
塚原卜伝 に天下一を巡って仕合を挑まれた際、「そなたは確かに強いが、今、わしを倒しても、家臣たちがそなたを逃がさぬであろう。それに気づかず挑むところが、そなたの未熟である」と諭したという話がある。ただし、卜伝は宗矩の生年である元亀2年(1571年)に死去しているため、この話は明らかな創作である(『撃剣叢談 』)
大阪の陣で振るった刀は「大天狗正家」(最上大業物 十四工の一人、三原正家 の作とされる。父・宗厳から受け継いだもので、宗厳はこの刀で天狗と立ち合い、後に一刀石と呼ばれる巨岩を切ったともいう)という説がある。ただし、宗矩の佩刀については柳生家の記録にも明確な記載はなく、三原正家の公式サイトでも具体的な史料は示されていない[ 32] ことから、おそらく後世の創作と思われる。[ 注釈 27]
その他の逸話
父・宗厳が筒井氏 に仕えていた縁で、石田三成 の腹心である島清興 (左近)とも交流があったという。そのため、関ヶ原の前には家康に命ぜられ、偵察も兼ねて挨拶に出向いたという。(『常山紀談』)
関ヶ原の後、石田三成の庶子を1年匿ったという(白川亨 『石田三成の子孫』)
寛永御前試合 にて審判を務めたという(『陸軍歴史』)
宗矩の逸話のうち、真偽が不明なものの中には、他流派の伝承が出典となっているものも存在する。これらの逸話の中には、史実と相反するものが多く、注意が必要である。
二天一流 (宮本武蔵 )
宮本武蔵 の逸話の中には、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害した、というものがある。この逸話は武蔵の死後、100年以上後に書かれた武蔵の伝記『ニ天記』が初出である[ 注釈 28] 。
また、武蔵を宗矩の師匠とし、無刀取りを試そうとした宗矩を「師にむかひて、表裏別心ありや」と叱り付け、謝らせたという話がある[ 注釈 29] 。なお、同時代の史料の中に、武蔵が宗矩の面識を得ていたことを示す記述は確認できない。
小野派一刀流 (小野忠明 (小野次郎右衛門),小野忠常 )
一刀流 の逸話の中には、秀忠の指南役として宗矩と相役であった一刀流二世・小野忠明 が、宗矩に勝った事で、指南役としての地位を手に入れたという逸話がある。一方、史実において忠明は宗矩より先(文禄2年(1593年 ))に仕官している。なお、この逸話の出典は一刀流内部の伝記『一刀流三祖伝記』である。
また、同じく『三祖伝記』には、宗矩から忠明の剣を見たいと頼まれて柳生家に出向いたところ、宗矩本人が仕合せず、息子の十兵衛や高弟達が出てきたので、これをまとめて相手にしたという逸話がある。なお、この後、十兵衛が木刀を置き、「忠明殿の剣は水月の如し。到底拙者では敵い申さぬ」と平伏し、村田与三と共に忠明に入門したという顛末になっているが、十兵衛本人の著作や関連する書状に、忠明との関係をうかがわせる記述はない。
同じく一刀流の逸話の中には、忠明が宗矩に対し、「剣の修行のためには人を斬らせるのが一番である。罪人を貰い受け、ご子息に斬らせてはいかがであろうか」と述べたところ、宗矩は「いかにも、いかにも」と答えたものの、実際にはそのようなことをしなかったというものがある(「日本剣道史」)
この他、忠明、またはその後を継いだ小野忠常 が(宗矩と違い)将軍相手にも手加減をしなかったことで不興を買ったために加増されず、宗矩と差がついたと記されている[要出典 ] 。ただし、史実においては、相役となって以降の忠明、及び忠常には特に旗本としての功績もなく、また忠明については同僚との諍いが元で閉門 を受けたことなどに鑑みると、上がらないことに不思議はなく、多分に自己正当化の側面が強いと言える[ 注釈 30] 。
伊藤派一刀流 (根来重明 )
『刀術流系』では、伊藤派一刀流 の根来重明 が徳川家宣 に召し抱えられるところを、その前の仕合で重明に負けた「柳生但馬守」がこれを讒言したので沙汰止みとなった、という逸話がある。なお、家宣の生誕前に既に宗矩は亡くなっており、また家宣の統治期間中に「但馬守」を名乗った柳生家当主は存在しない[ 注釈 31] [ 注釈 32] 。
富田流 (富田重政 )
富田流 の宗家富田重政 と宗矩の立ち合いを家光が望んだ際、重政が「これは但馬守も承知の上か」と不審に思い、「本当によろしいか」と確認した後、直前で沙汰止みとなったという[要出典 ] 。
タイ捨流 (丸目長恵 (丸目蔵人))
タイ捨流 の流祖丸目長恵 が、新陰流の正統をかけて宗矩に直談判し、東国では柳生が、西国では丸目が天下一を名乗ることを認めさせたという逸話がある[ 33] 。ただし、その西国(九州)の大藩である熊本藩 細川家、佐賀藩 鍋島家において当主自ら柳生新陰流に入門し、大いに隆盛したこと、およびその両藩(特に丸目の住地である人吉藩 に隣接する熊本藩)で上記逸話を証する史料は存在しない。一方で、上泉信綱より丸目宛に「西国の御指南は貴殿に任せおき候」と記された書状がある。
示現流 (東郷重位 )
示現流 の伝承には、流祖である東郷重位 が、元和のころ、宗矩の高弟で将軍に指南をしていたという旗本の福町七郎右衛門、寺田小助を破り、試合後、両人から入門の誓紙を受けたとするものがある[ 注釈 33] [要出典 ] 。ただし、この出来事、及び、この両旗本の名は『徳川実紀』『寛政重修諸家譜 』では確認できない。
無住心剣流 (針ヶ谷夕雲 )
無住心剣流の逸話には、宗矩が無住心剣流流祖・針ヶ谷夕雲 に対して「其の方の只今兵法の理に立向て勝ちを得べき覚えなし」と賛嘆し、試合を避けたというものがある[ 34] 。
二階堂兵法(松山主水 )
二階堂平法の松山主水 が細川忠利に技を教授したところ、忠利が宗矩に対して、ときに勝ちを取れるようになり、急に腕が上がったのを宗矩が不思議がったという話がある[要出典 ] 。
尾張柳生(柳生利厳 (柳生兵庫助))
尾張柳生家の主張では、柳生宗家(本家 )を継いでいるのは嫡流 の自家であり、傍流の江戸柳生家は分家であるとしている。しかし、戦国時代においては、嫡男 は必ずしも長男の事を指すとは限らず、当主の決定によって変えられることが多々あり、関が原の後、所領を取り戻した宗厳が所領全てを宗矩一人に継がせていることから見て[ 注釈 34] 、血筋だけを以って宗家を主張するのは無理があると言える。また『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』、及び『本朝武芸小伝 』『撃剣叢談 』などの江戸時代に書かれた記述において、石舟斎の嗣子(嫡男)とされているのは一貫して宗矩であり、尾張柳生家を柳生宗家と認めている記述は無い(利厳の父、新次郎厳勝は廃嫡されている)。
同じく尾張柳生家では、石舟斎が自らの正統と認め自身の技法をあますことなく伝えたのは、新陰流正統の証である「一国一人の印可」[ 注釈 35] と「新影流目録」を継承した利厳のみであり(柳生厳長『正傳新陰流』)、宗矩や他の上泉の門弟が伝える系統は傍流であるとしている。これに対し今村嘉雄は、「一国一人」とは日本に一人という意味では無く甚だ稀なという修辞の意味であり[ 注釈 36] 、「新影流目録」に類する目録も疋田景兼 や丸目長恵 といった石舟斎以外の信綱の門弟にも与えられていることから、これらに新陰流正統の証の意味合いがあったとは考えづらいと主張している。また石舟斎の道統についても、尾張柳生家に伝えられた目録等は全て江戸の柳生家にも伝わっており[ 注釈 37] 、宗矩と利厳等に皆伝されていると考えるのが妥当であるとしている[ 36] 。なお『本朝武芸小伝』、『撃剣叢談』などにおいて、尾張柳生家の新陰流を新陰流正統と認めている記述は無く、どちらも宗厳の新陰流の後継は宗矩としている[ 注釈 38] [ 注釈 39] 。
『切合極意見之心持之事』- 直弟子である小城藩 藩主・鍋島元茂に与えられた伝書。
『新陰流兵法心持 』- 徳川家光に与えられた伝書。なお、家光への伝書は、これを披露する老中・酒井忠勝 宛になっている。
『外の物の事』- 家光に与えられた伝書。「外の物」とは太刀以外の物の意であり、槍、長太刀、小脇差、馬術等の術に加え、日常での心がけなども記されている。
『兵法家伝書 』- 宗矩の代表的著作にして『五輪書 』と並ぶ近代武道書の二大巨峰。『進履橋』『殺人刀』『活人剣(「無刀之巻」含む)』の3部構成となっており、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」[ 注釈 40] 「剣禅一致」などを説いた宗矩の兵法思想の集大成の書。柳生家の家伝書となった他、鍋島勝茂、鍋島元茂、細川忠利にも与えられている。岩波文庫 にて渡辺一郎校注で刊行されている。
『玉成集』- 鍋島直能 に与えられた伝書。
宗矩本人の著作を主体とした史料
渡辺一郎 注釈『兵法家伝書―付・新陰流兵法目録事』(岩波文庫): - 宗矩自身の著作ではあるが、注釈者による補足もあり。
ウィリアム・S・ウィルソン訳『英文版 兵法家伝書 - The Life‐giving Sword』(講談社インターナショナル )
今村嘉雄 編『史料 柳生新陰流(改訂版)』上下(新人物往来社 )- 宗矩の主な伝書の殆どと手紙などを収録
宗矩を題材として取り扱っている(またはそれに準ずる)資料
赤羽根龍夫「江戸思想と柳生新陰流」(基礎科学論集 : 教養課程紀要)
赤羽根龍夫「新陰流を哲学する:江戸柳生の心法と刀法」(基礎科学論集 : 教養課程紀要)
大森宣昌「近世初頭の剣術伝書に関する一考察--「兵法家伝書」と仏教の関係」(『立正大学教養部紀要』11号、1977年)
笠井哲 「「剣禅一如」思想の源流:沢庵と柳生新陰流」(『印度學佛教學研究』55巻1号、2006年)
加藤純一「柳生新陰流に見る修学と致知格物」(日本体育学会大会号)
加藤純一「柳生宗矩『兵法家伝書』における心:「具放心心」を巡って」(日本体育学会大会号)
加藤純一「『兵法家伝書』伝本の比較研究Ⅱ:細川家本と小城鍋島家本」(『目白大学人文学研究』5号、2009年)
加藤純一 訳「兵法家傳書(ハングル版)」(『目白大学人文学研究』2号、2005年)
黒木俊弘「兵法家伝書上巻序の武道観」(『体育學研究』10巻2号、1966年)
中野寛美「柳生宗矩の「兵法家伝書」における剣術思想」(『年報日本思想史』5号、2006年3月)
前林清和・渡辺一郎「剣道修行過程における心的変容についての一考察:主として『兵法家伝書』よりみたる」(『体育科学系紀要』11号、1998年)
史実においては、将軍家兵法指南役(公的な場における武芸の最高権威)にして、当時最大の剣術流派の宗家という立場、使番や惣目付などを歴任し大名にまでなった将軍側近としての立場、個人としての家光や沢庵その他諸大名との交流、十兵衛三厳などの子供達との関係や尾張柳生家との不仲など、同時期の他の武芸者と比較し様々な側面を持つことから、その人物像は作家/作品によって大きく異なる。
山岡荘八 は大河ドラマ 『春の坂道 』のために原作(『柳生宗矩』)を書き下ろしている。山岡は他の小説『徳川家康 』、『伊達政宗 』、『徳川家光 』にも宗矩を登場させ、これらの作品内において宗矩は、一貫して情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師として描かれている。また、吉川英治の『宮本武蔵 』においても、実直な理性家として描かれている。
一方で五味康祐 ・荒山徹 ・宮本昌孝 ・朝松健 らの小説や、映画・ドラマ『柳生一族の陰謀 』、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI 』などにおいては、幕府安泰のために陰謀 や暗殺 を遂行する闇の世界の人物として描かれている。また、その中でも、秀忠を悪役とする作品では、宗矩もその配下の悪役として描かれがちである(小説では隆慶一郎 の諸作や漫画『あずみ 』、ゲーム『新 鬼武者 DAWN OF DREAMS 』など)。また惣目付に就任していた影響などから、「裏柳生 」と呼ばれる密命を帯び謀反の芽を摘み取ったり、柳生一族の邪魔になるような者を排除を目的とする忍者 や武術 、暗殺 集団の頭領とされることもある。
同様に剣豪小説的な視点(津本陽 、戸部新十郎 の諸作。また漫画『陸奥圓明流外伝 修羅の刻 』など)から描かれた場合、同時代の剣豪(宮本武蔵など)や同じ柳生一族(父・石舟斎、息子・十兵衛、甥・兵庫助利厳 )と比較し、隔絶した地位を得た事から、剣ではなく、政治面で立身した「剣士 として純粋ではない人物」[ 注釈 41] いう捉え方をされ、この場合、比較的評価を下げた描かれ方をされる傾向がある。
また柳生一族や将軍家剣術指南役の確執の主軸として描かれる場合もあり、天下の剣術指南役の江戸柳生と、「一国一人の印可」を継承した柳生利厳の尾張柳生といった史実から江戸柳生と尾張柳生の対立の軸としてとりあげられる事や、同じ将軍家剣術指南役の小野派一刀流 との確執などが描かれる。また逆に江戸、尾張のまとめ役となり一族共闘の下、互いにそれぞれの役割を担い、任に当たる展開になることもある。
小説
映画
テレビドラマ
舞台
漫画
ゲーム
^ ただし、柳生家が失領した時期については諸説あり、小田原征伐より後の文禄3年(1594年)に行われた太閤検地の際に、隠し田が露見した事によるものとする説もある。
^ 渡辺一郎「兵法家伝書」では出典を「徳川実紀 」とするが記載がない。永岡慶之助「柳生の剣と武蔵の剣」では「安藤治右衛門家書」に出典があるとする。
^ 立花宗茂 の計策により、宗矩の諫言に感じ入って直盛は自害したという説がある[ 8] 。
^ ただし、元々将軍や大名である人物が剣豪になった例(足利義輝 、北畠具教 、松浦清 (静山)など)や、陪臣のため大名ではないが、宗矩以上の石高(1万3000石)を得ている富田重政 などの例もある。
^ 寛永13年2月25日 小河九右衛門宛の沢庵書簡における宗矩について「上方よりの知音にて候。紫野(大徳寺 )の昔から参徒にて、内縁ふかき人」とある。
^ 正確な日付は不明であるが、『徳川実紀 』における沢庵推挙の由縁に従えば、寛永9年以前の事になる。
^ 寛永20年、正保2年とある[ 9] 。
^ ここでいう新陰流は宗矩が宗家の「江戸柳生」のことで、柳生利厳 (兵庫助)の「尾張柳生」のことではない。
^ 「天下一柳生、天下二小野」という記述あり[ 13] 。また石州流 の伝承によると「剣は柳生、絵は狩野、茶は石州」と称されたという。
^ 正保3年3月20日の家光見舞いの件り。
^ 現存する家光の兵法誓紙に宗矩宛以外のものは確認できない。
^ 元は禅語。宗矩以前の新陰流では相手を存分に動かして斬る等の意味で用いられていた。
^ この事から「心法の江戸柳生」と称されることもある(対比として「刀法の尾張柳生」がある)。
^ 『兵法家伝書』において、宗矩はこれを「平常心」と称し、目指すべき理想の心理状態としている。
^ 宗矩と同時代の軍学者・儒学者で一刀流 を学んだ経験もある山鹿素行 は『山鹿随筆』の中で「柳生但馬(宗矩)は、自身は長年の下学(修練)の末に剣術の妙理を会得したが、自分の弟子には(下学を疎かにして)妙理を極めた心を教えようとしたので門人にさほどの上手がでなかった」と評している。また細川忠興 (三斎)も意図は不明ながら「新陰は柳生殿よりあしく也申候」と批判している。
^ 「中将(島津光久)元来門弟トシテ入魂ニヨリ」と記述あり。
^ ただし久世広之が大名になるのは宗矩死後の慶安元年である。
^ 御三家筆頭・尾張徳川家 がないのは、尾張徳川家剣術指南を尾張柳生家が務めており、江戸柳生家と尾張柳生家は師弟関係ではないためである。
^ この他、伊達家には宗矩の甥(利厳の弟)、柳生権右衛門も仕えている。
^ ただし起倒流の成立の歴史には諸説あり。
^ 荒木又右衛門の新陰流入門の誓紙は仇討ち後の寛永12年10月24日のものであり、宛先も戸波又兵衛になっている。
^ この人物については「渡辺幸庵対話」において述べた自らの経歴と、「徳川実紀 」「寛政重修諸家譜 」にある「渡辺茂」についての記述の間に矛盾が多く、そのため、宗矩の弟子という話も含め、経歴自体が偽証の可能性がある。詳細は渡辺幸庵 の欄参照。
^ なお、この逸話は新渡戸稲造の『武士道』において、武士と禅の関係についての話として引用されている。
^ この時、宗矩に直接手紙を出して相談するなど、かなり上府を渋っていたという[ 20] 。
^ これについてはそういう風評があったというものであり、毛利家の記録によると、毛利秀就 から進物を贈られた際、家光による倹約令もあって、これらを丁寧に断ったという記録がある[ 26] 。
^ 実際にはこのころには家政は既に亡くなっており、大和高取2万5000石に封じられたのは息子の植村家次 である。
^ また福永酔剣 『日本刀大百科事典』「正家」や佐藤寒山 『新・日本名刀100選』などにも記載がない。
^ 武蔵が将軍家指南役に誘われた際、柳生の下になることを嫌って自ら断り、宗矩の側も特に武蔵を推挙しなかった、という話が享保12年(1727年)に書かれた『丹治峯均筆記』にある。
^ 二天一流内の伝承ではないが、寛政 ごろの随筆集『異説まちまち』に記述あり。
^ なお、寛永10年(1633年 )2月の家光による1,000石以下の小姓番 ・書院番 の番士全員への一律200石加増により、忠常の代に小野家は800石になっているため、加増がないということも史実に反している。
^ また別の説では家光の御前試合に参上するところが、家光の死によって沙汰止みとなったとされているが、その場合でも、既に宗矩は死去している。また、家光が死ぬ前の慰みとして、俗に「慶安御前試合」と称される兵法上覧が慶安4年(1651年)に開かれているが、ここの出場者の名に重明の名はない。
^ 一刀流内部の逸話で宗矩(及び柳生家)が引き合いに出されることが高いのは、同じ将軍家剣術指南役という地位にいるにもかかわらず、家格・名声において圧倒的に差がつけられ、「天下一柳生流、天下二の一刀流」(「日本剣道史」)などと称されたことが影響していると言われている。
^ この誓紙とされるものが示現流史料館にある。
^ 『正傳新陰流』では新次郎厳勝にも所領を分けて継がせたとあるが、石高的に計算が合わなくなる上、その場合、厳勝も直参として名が残る筈であるが、そのような記述はない。また、その嫡男である利厳が加藤清正 のところへ仕官するのは不自然である。
^ 永禄8年4月に上泉信綱より石舟斎に与えられた印可状。文中に「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する、上方には数百人の弟子はいるがこのような印可を与えるものは一国に一人である」とする旨が記載されており、信綱が石舟斎を唯一の正統と認め、他の門弟にも教えていない技法を伝授した証とされる。
^ 永禄8年8月に宝蔵院胤栄 に与えられた印可状には「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する」と、「一国一人」にしか授けられていないはずの石舟斎の印可状とほぼ同様の内容が記されている。
^ 尾張柳生家にしか伝えられていないと考えられていた目録は全て、宗矩の長男三厳が著書『月の抄』の中であげた二百三十二項目中に含まれている[ 35] 。
^ 『本朝武芸小伝』では宗矩を宗厳の「嗣子」とし、利厳は宗厳の子(宗矩の弟)としている。
^ 『撃剣叢談』では宗厳を開祖とする「柳生流」の跡を「二代目但馬守宗矩」としており、利厳についての記述はない。
^ 「無刀」については吉川英治 の小説『宮本武蔵 』、それを原作とした漫画『バガボンド 』などの様々な創作物の影響もあり、一種の悟り の境地、あるいは平和主義 的な思想として捉えられる事もあるが、この伝書内で説かれている「無刀」は、「わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」とある通り、“刀がない状態で危機に陥った際、如何に対処するべきか”という実用重視のものである。しかし反面、術だけを論じている訳でもなく、また、宗矩の父・石舟斎が自著「兵法百首 」において『無刀にて きはまるならば 兵法者 こしのかたなは むよう成けり』と歌っていることも踏まえると、前述のイメージもまったく論拠のない創作という訳でもない。
^ それらの作品では“剣を権に変えた”“政を以って剣を歪めた”などと揶揄されることが多い。
早川純三郎 編『武術叢書』。 - 大正年間に刊行され以降複数社から出版。本朝武芸小伝 、撃剣叢談 、不動智神妙録 、太阿記 などを含め、様々な武道関連史料が掲載されている。
辻善之助 編註 『沢庵和尚書簡集』岩波書店〈岩波文庫〉、1942年。 - 沢庵自身の書簡を集めたもの。宗矩との手紙の他、小出吉英 や細川忠利などへ宛てた書簡で宗矩への言及が複数ある。
今村嘉雄 編『史料 柳生新陰流(上下巻)』人物往来社 、1967年。 - 柳生家の記録である『玉栄拾遺 』の他、宗矩による伝書(『兵法家伝書』『切合極意見之心持之事』『新陰流兵法心持』『外の物の事』『玉成集』など)や宗矩宛の様々な書状が収録されている。また、『昔飛衛といふ者あり』『月之抄 』などの三厳による伝書や『宗冬兵法物語』などの宗冬による伝書も掲載されている。
今村嘉雄(編)『定本大和柳生一族』人物往来社 、1994年。
高柳光寿/他(編輯) 『寛政重修諸家譜 17巻』続群書類従完成会、1981年。
柳生宗矩、渡辺一郎 (校註)『兵法家伝書』岩波書店 〈岩波文庫 〉、1985年。 - 宗矩の代表的伝書。父・宗厳による「新陰流兵法目録事」も掲載されている。
黒板勝美(編輯) 『国史大系第39巻 新訂増補 徳川実紀 第二篇』吉川弘文館 、1990年。
根岸鎮衛 、長谷川強 (校注)『耳嚢 』岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。 - 江戸時代の随筆。柳生但馬守(宗矩)についての逸話を収録。
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柳生氏
柳生藩 初代藩主 (1636年 - 1646年)