柴田 勝見(しばた かつみ、1909年(明治42年) - 1942年(昭和17年)8月8日[1])は、日本のフィールドホッケー選手。1932年ロサンゼルスオリンピックに出場し、銀メダルを獲得した。1942年に再召集を受けて出征した中国で戦死。「戦没オリンピアン」の一人である。
名前については「勝巳」と表記もされる[注釈 1]が、「一橋いしぶみの会」によると、本人は「勝見」を使っていたという[3][4]。
愛知県生まれ[1]。1926年に東京商科大学(現在の一橋大学)に入学[5]。同大学のホッケー部を全国レベルの強豪に押し上げたという[5]。
1932年に東京商科大学卒業をして間もなく、1932年ロサンゼルスオリンピックにホッケー競技のメンバーとして参加[5][4]。同大会は世界恐慌の煽りを受け、ホッケーへの出場は3か国(アメリカ、日本、インド)であり[4]、日本チームはインドに破れ、アメリカに勝利して銀メダルを獲得した[4]。なお、オリンピック日本代表としては団体球技で初のメダルであり[4]、またホッケー競技では唯一のメダル(2021年現在)でもある[4]。
保険会社に務めるかたわら競技も続けた[4]。
1939年に応召[6][4]、国内で[4]2年の兵役を務める[6][4]。製紙会社に転職し[4]、1942年3月に2度目の召集を受ける[4]。1942年8月、中国山東省において戦死[6][4]。32歳[6][4]。
再召集直前の1942年3月18日から、戦死2日前の8月6日までの日記を遺している[6][4]。仕事や会食を日記に記していた一市民に再召集令状が届き、小学校入学を控えた長女を含む家族との時間を過ごす過程を含み[4]、応召後は戦地の日常が描かれている[7]。この日記は長女が保管していたが[4][7]、一橋大学の戦没者の調査・研究を行う団体「一橋いしぶみの会」に持ち込まれ[7]、2021年に公開された[6][4]。