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基礎情報 | ||||
四股名 | 栃東 大裕 | |||
本名 | 志賀 太祐 | |||
愛称 | ダイスケ、トッチー、技の男 | |||
生年月日 | 1976年11月9日(48歳) | |||
出身 | 東京都足立区 | |||
身長 | 180cm | |||
体重 | 155kg | |||
BMI | 47,84 | |||
所属部屋 | 玉ノ井部屋 | |||
得意技 | 押し、右四つ、寄り、上手出し投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東大関 | |||
生涯戦歴 | 560勝317敗169休(75場所) | |||
幕内戦歴 | 483勝296敗166休(63場所) | |||
優勝 |
幕内最高優勝3回 十両優勝1回 幕下優勝1回 三段目優勝1回 序二段優勝1回 序ノ口優勝1回 | |||
賞 |
殊勲賞3回 敢闘賞2回 技能賞7回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1994年11月場所 | |||
入幕 | 1996年11月場所 | |||
引退 | 2007年3月場所(番付上では同年5月場所) | |||
引退後 |
玉ノ井部屋師匠 日本相撲協会副理事(3期) 2012年2月 - 2018年3月 | |||
趣味 | ゴルフ | |||
備考 | ||||
金星4個(曙1個、貴乃花2個、武蔵丸1個) | ||||
2018年3月26日現在 |
栃東 大裕(とちあずま だいすけ、1976年(昭和51年)11月9日 - )は、東京都足立区出身(出生地は東京都墨田区)で玉ノ井部屋に所属した元大相撲力士。本名は志賀 太祐(しが だいすけ)。現在は年寄・14代玉ノ井。最高位は東大関、現役時代の体格は身長180cm、体重155kg。得意手は、おっつけ、ハズ押し、叩き、いなし、右四つ、寄り、上手出し投げ。血液型はA型、星座は蠍座。趣味は若い頃はラジコン、大関昇進後はゴルフ。
13代玉ノ井親方(関脇・栃東)の次男として、東京都墨田区に生まれる。小学生時代は野球や水泳に熱中し、原辰徳(巨人)から贈られたサイン入りのグローブが当時の宝物であった。小学校6年生の時に相撲に転向し、明大中野中学校に進学して相撲部に入部した。しかし当初は体が硬く、脚を広げて上半身を床につける股割りもできず、中学までは全国レベルの力はなかった。[1][2]
父には高校横綱になることを角界入りの条件にされ、明大中野高校3年生の時に見事高校横綱に輝き、高校在学中の1994年(平成6年)11月場所に父が師匠の玉ノ井部屋に入門して本名の志賀の四股名で初土俵を踏んだ。序ノ口場所前の稽古で左膝を痛め1995年(平成7年)1月場所は前半を休場したが、8日目の4番相撲から出場して残り4番を全勝してこの場所を4勝0敗3休とした。まわしを取って投げる相撲が得意だったが「今の相撲ではまたけがをする。まわしを取らないでおっつける相撲にしないとだめだ」と反省。[1]師匠からも「廻しにこだわるな」と言われた[3]。投げで振り回す相撲から、脇を固めて押す相撲に変えた。けがを教訓に、母校の先輩、3代目若乃花を見習った。[3][4]そこから快進撃が始まり、同年3月場所は序ノ口7戦全勝優勝、同年5月場所は序二段7戦全勝優勝、同年7月場所は三段目7戦全勝優勝、幕下に昇進した同年9月場所の1番相撲の白星まで26連勝を飾った[2]。
この場所は3勝4敗に終わり入門以来初めて負け越したが、同年11月場所は7戦全勝で優勝、1996年(平成8年)1月場所では幕下3枚目で5勝2敗、同年3月場所では幕下2枚目で5勝2敗と好成績をおさめ、同年5月場所には初土俵からわずか所要8場所で十両に昇進するとともに、父の四股名でもあった栃東に改名した。十両でも同年5月場所、7月場所は10勝5敗と連続で二桁勝利を挙げ、同年9月場所は初日から10連勝と波にのり12勝3敗で十両優勝を果たし、同年11月場所には早くも新入幕を果たした。序ノ口から十両まで全段で優勝をしたのは、史上3人目であった[2]。
入幕後は早くから「大関候補」として期待を集め、新入幕の11月場所では初日から5連勝をするなど10勝5敗(単独次点)の好成績をおさめて敢闘賞を受賞した。[注釈 1]翌1997年(平成9年)5月場所で11勝4敗の好成績を挙げて敢闘賞を受賞、7月場所にはわずか入幕5場所で新三役(小結)に昇進。2大関に勝ち9勝6敗と勝ち越して技能賞を獲得、同年9月場所は新関脇で曙に勝ち10勝5敗と二桁勝利を上げて2場所連続で技能賞(3場所連続三賞受賞)を受賞し[2]た。
いなしてから左右からのおっつけ[3]、前廻しを引いてからの出し投げなど、その取り口はベテラン力士から若手らしく正面からぶつかってこないのでやり辛いと言われるほど技が多彩であった。
しかし、ここから栃東の苦闘が始まる。東関脇と番付を上げた1997年11月場所では右足捻挫で7勝8敗と負け越し、翌1998年(平成10年)3月場所は右肩剥離骨折のため6日目から途中休場、翌5月場所も公傷休場。この剥離骨折が重症で、関脇復帰まで約1年半を要することになった。1999年秋場所は初日から2日連続金星を獲得し殊勲賞、九州場所も2場所連続で貴乃花に勝ち技能賞。2000年(平成12年)7月場所は5場所連続で関脇在位となり、2横綱3大関に勝ち12勝3敗の優勝次点という好成績をおさめて5回目の技能賞を受賞した。待ちに待った大関挑戦場所となった同年9月場所は、右肩関節脱臼のため6日目から途中休場、翌11月場所も公傷休場、度重なる怪我に泣いた[2]。
公傷明けの2001年(平成13年)1月場所は、10勝を上げて翌場所には早くも三役に復帰した。同年3月場所は小結で1横綱3大関に勝ち9勝6敗として3回目の殊勲賞、同年7月場所は関脇で1横綱2大関に勝ち10勝5敗と6回目の技能賞を獲得した。同年9月場所は12勝3敗の優勝次点と完全復帰したが、立合いからいきなり変化する注文相撲が4番もあったため、三賞候補からは外れてしまった。
しかし、2回目の大関挑戦場所となった同年11月場所では、それまで何回も批判を浴びてきた立合い変化を一度も見せることなく初日から7連勝。後半戦に入り優勝争いから一歩後退、14日目の横綱・武蔵丸戦で足を強打するアクシデントに見舞われる。それでも翌日千秋楽の大関・武双山戦は勝利を収めて、12勝3敗の成績で連続優勝次点、7回目の技能賞(三賞受賞12回目)を獲得する。それと共に、全て関脇の地位で3場所合計34勝を挙げ、ようやく念願の大関昇進を決めたのであった[2][5]。何度も怪我の影響があって中々大関取りを果たせず、入幕から大関昇進までは5年の歳月を要した。本人は後に、この場所には最後の大関取りのつもりで挑んでいたと振り返っている[6]。大関昇進伝達式では、口上に「努力精進」の文言を使用している[7]。
新大関の2002年(平成14年)1月場所では初日から11連勝。同場所の千秋楽結びの一番前の本割りでは、大関・千代大海に勝利して、13勝2敗同士の優勝決定戦に突入。そして決定戦でも千代大海を立ち合いの変化で下して、自身初となる悲願の幕内最高優勝を達成し[5]、一躍「横綱候補」へと躍り出た。しかし、2002年5月場所13日目、魁皇との取組中に肩を負傷すると休場が続き、2003年7月場所では7勝8敗と皆勤負け越しを喫するなど1年以上に渡る不振に陥るが、2003年11月場所では13勝2敗の好成績で復活優勝(2回目)。しかし綱取りのチャンスを生かせず(2002年3月場所と2004年1月場所で綱取りに挑むも失敗)、その後は元々体が硬いためもあってか再び怪我が多発し、それにより2004年(平成16年)7月場所と2005年(平成17年)1月場所に、大関から2回も関脇へ陥落する屈辱を味わう[2]。しかし、2回共に関脇の地位で10勝以上の好成績をあげて、各1場所で大関特例復帰を果たした。なお大関陥落の後、大関に2度も返り咲いた力士は栃東が大相撲史上初めてで、2021年(令和3年)現在も栃東ただ一人のみである。なお、大関昇進の頃から既に脳梗塞の予兆である頭痛が時々発生していたが、この時期の健康診断では異常が指摘されず、本人も「一時的なもの」と我慢していた[5]。
若い頃から稽古の鬼であったが、硬い筋肉をつける稽古のしすぎで故障を招いているため、稽古量を抑えたらどうかと指摘を受けた。そのため体を休ませながら稽古をするとともに大相撲に適した柔らかい筋肉に肉体改造をしたことが功を奏し、2006年(平成18年)1月場所では14勝1敗の好成績で13場所ぶり3度目の幕内最高優勝を果たした[2]。なお、この栃東の優勝を最後に同年3月場所以降、2016年(平成28年)の初場所において琴奨菊が優勝するまで日本出身力士の幕内最高優勝は10年間出なかった(いわゆる「ウィンブルドン現象」と言われる)[注釈 2]。
横綱昇進を期待された同年3月場所では、序盤における下位力士への取りこぼしがたたり優勝を逃し横綱昇進が見送られた。ただし、終盤に大関昇進が確実な関脇・白鵬や優勝した横綱・朝青龍を本割の土俵で破っての12勝3敗という内容が評価されて、翌5月場所に横綱昇進の可能性を残した[2]。3月場所中に足を痛めてしまい、5月場所では更に怪我が悪化して左膝半月板損傷により7日目から途中休場に追い込まれた。朝青龍が一人横綱になって久しいこともあり、3代若乃花以来8年ぶりの日本人横綱の誕生を多くの相撲ファンに期待され、また当時全盛を誇っていた朝青龍に唯一まともに渡り合える日本人力士だったため、横綱審議委員会も「13勝なら昇進させても良いし、12勝でも優勝なら検討する価値はある」とかなり甘めの昇進基準を提示していたが、それに応えることはできなかった。
2006年(平成18年)7月場所は、綱取りから一転自身7度目の大関角番となった。それでも初日から7連勝、給金相撲となった8日目は対戦相手の露鵬が前日の取組後にカメラマンに暴行事件を起こしたため3日間の出場停止となり、幸運にも不戦勝により勝ち越して角番を脱した。しかし9日目からは元気がなくなり、さらに11日目の横綱・朝青龍との取組で土俵に膝を強打し負傷してしまった。結局この場所は8連勝の後7連敗という珍記録を残した。
翌9月場所は、痛めた膝の影響で初日から3連敗したが、その後は持ち直し9勝6敗で勝ち越した。次の11月場所では、9日目まで8勝1敗と朝青龍を追う一番手として期待されたが、10日目に出島との取組で古傷の膝を強打、さらに親指を剥離骨折して心配されたが10勝5敗と同年3月場所以来の二桁勝利を記録した。しかし場所後も膝の状態は思わしくなく、12月20日に内視鏡を用いた左膝のクリーニング手術(軟骨の除去及び半月板の一部切除)を行った。
2007年(平成19年)1月場所は、手術後2日目には退院して一週間後には稽古も再開したが、膝に違和感が残っており十分な稽古が積めない状態と、出場が微妙な状況な中、感覚を取り戻すためと強行出場した。しかしながら膝の踏ん張りが効かず、初日は琴奨菊、2日目は露鵬にあっという間に寄り切られた。更には中日から4連敗するなど体の切れも悪く、13日目に負け越しが決まった。大関の地位での皆勤負け越しは、2003年(平成15年)7月場所以来自身2度目であった。最終的に5勝10敗と幕内で初めての二桁黒星に終わった。
8度目の角番となった次の3月場所は、場所前「5日目までに2勝できなければ、その時点で引退する」という意向を明らかにしてファンを心配させたが、初日から7連勝し10日目に勝ち越して角番を脱出した。しかし、場所途中から高血圧や激しい頭痛に悩まされ、11日目の朝青龍戦(結果的にこれが栃東の現役最後の一番となる)の取組後、翌12日目に「高血圧」(当時最高血圧の数値が200以上だったという)の診断書を提出し途中休場、急遽入院した。父・玉ノ井親方は会見で「クモ膜下出血の疑いもあって心配だ」とコメントし、容態が気遣われた。
この時点の診断では、過去に自然治癒していた脳梗塞の跡が発見されたが、それ以外には脳に異常は見られなかった。そこで、血圧を下げる投薬療法により一旦は回復して退院した。その後栃東本人曰く「辞めるなんて一言も言っていない」と語っていたが、3月場所後の巡業は大事をとって土俵入りだけの参加となった。同年4月26日には脳を含めた内臓などの精密検査を受けるため再入院し、同年5月場所は休場することが濃厚になっていた。そして検査の結果、医者から「このまま相撲を取り続けたら脳梗塞を再発させるどころか、生命の危険・最悪死に繋がる可能性大」等と宣告された為、これ以上現役を続行するのは不可能と診断された[8]。栃東は最後まで現役への意欲を見せたものの病気には勝てず、同年5月場所開催直前の5月7日に引退を正式に発表した[2][9]。当時は前述の病気の事があまり知られていなかったこともあり、突然の引退に驚く関係者やファンも多かったという。なお大関在位数は30場所(番付上は31場所)、北葉山と並んで当時史上11位タイ(現在13位タイ)の記録だった。
現役引退後は、年寄・栃東として玉ノ井部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった(大関は引退後3年間、現役時の四股名のまま年寄として協会に残留することができるが、1997年(平成9年)5月の制度改正以来、大関として初めてその特権を利用した)[注釈 3]。引退相撲と断髪式は、2008年(平成20年)2月2日に両国国技館で行われた。
栃東は引退後程なくして脳梗塞治療・再発防止の目的で、食事療法・軽い運動(歩行)などで減量を敢行し体重を90kg台まで落とした。部屋で作るちゃんこは塩分やカロリーが高いため弟子達と同じものは食べず、現在も高血圧・脳梗塞を予防する薬を毎日欠かさず服用している[10]。
父であり師匠でもある13代玉ノ井親方が2009年(平成21年)9月2日に停年(定年)退職となったため、翌9月3日付で年寄・14代玉ノ井を襲名するとともに玉ノ井部屋を継承した。2012年(平成24年)1月、35歳という異例の若さで日本相撲協会副理事に当選し事業部副部長、広報部副部長、警備本部副部長を歴任した。2018年(平成30年)の役員選挙には立候補しなかったため副理事から委員に降格となり、4月の職務分掌では審判委員に任命された。
2013年(平成25年)1月場所前の新弟子検査で爆羅騎(本名・伊藤爆羅騎)の身長測定を担当しており、背伸びを敢行した結果として普段160cmしかない身長を167cmまで稼いだ爆羅騎に関して「気にならなかった。夢を持つ子をサポートしたいから」と話していた。 [11]この例のように、栃東は身長の基準に対して柔軟な姿勢で検査を行う傾向がある。その後も、2016年1月場所前の新弟子検査で実測161cmの新弟子が背伸びをすると「大丈夫だから」と制止し、そのまま「167cm」扱いとする目溢しを行っていた[12]。
2020年5月時点で28人の所属力士が部屋におり全45部屋中3番目の大所帯となっていた中、同年5月場所が新型コロナウイルスの感染拡大に中止になった際は師匠として「今は世の中が本当に大変な時期。しっかり基礎運動をやって、うまくコンディションをつくっていってあげたいです。」とコメント[13]。
2021年1月場所で東白龍が十両に昇進し、子飼いから初の関取となった。
力士としては決して恵まれた体格の持ち主ではなかったが、多彩な技を持ち、特に頭を下げながら脇を締めて相手を押し上げる左右のおっつけは栃東の代名詞だった。前廻しを引いてからの上手出し投げやタイミングの良いいなし、廻しを切るのも得意。このように技能派力士として素質は非常に高い一方で立合いの変化を上位の力士としては高い頻度で使用することがあり、時として優勝決定戦などの大一番でも躊躇せずに変化を行い、それがイメージを悪くさせることもあった。[注釈 4]第11回横綱審議委員会稽古総見の『どすこいFM』で「ここだから言いますけど、私は貴乃花より栃東の方が強いと思っていた」と栃東を評価する敷島[注釈 5]も「稽古場で自分の形で勝てるようにならないと、本番でも勝てませんよ」という栃東の意見に対して「稽古場で自分の形でやってたなんて言いますけど、そんなワケないですよ。優勝決定戦で変化するような人ですよ」と反発するなどその策士ぶりを表現したことがある。
横綱朝青龍に10勝15敗、大関白鵬(栃東の引退直後に横綱昇進)に5勝8敗(そのうち2敗は不戦敗)、琴欧洲に5勝6敗、安馬(改め日馬富士、栃東の引退後に横綱昇進)に5勝1敗と外国人力士にも引けを取らず、中でも当時全盛期を誇っていた横綱朝青龍にまともに戦える唯一の日本人力士であり、横綱昇進への期待も高かった。しかしながら、怪我が多いことも影響して、綱取りのチャンスを活かせず実現は出来なかった。対朝青龍戦の10勝は若の里と並んで幕内力士では白鵬(13勝)、魁皇(12勝)に次いで3番目に多い。
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1994年 (平成6年) |
x | x | x | x | x | (前相撲) |
1995年 (平成7年) |
西序ノ口47枚目 4–0–3 |
東序ノ口3枚目 優勝 7–0 |
東序二段20枚目 優勝 7–0 |
東三段目32枚目 優勝 7–0 |
東幕下23枚目 3–4 |
西幕下31枚目 優勝 7–0 |
1996年 (平成8年) |
西幕下3枚目 5–2 |
東幕下2枚目 5–2 |
東十両12枚目 10–5 |
東十両6枚目 10–5 |
西十両3枚目 優勝 12–3 |
西前頭15枚目 10–5 敢 |
1997年 (平成9年) |
西前頭10枚目 9–6 |
西前頭4枚目 6–9 |
東前頭6枚目 11–4 敢 |
西小結2 9–6 技 |
西関脇 10–5 技 |
東関脇 7–8 |
1998年 (平成10年) |
西関脇 11–4 殊 |
東関脇 2–4–9[注釈 6] |
西前頭5枚目 休場[注釈 7] 0–0–15 |
西前頭5枚目 8–7 ★ |
西前頭筆頭 8–7 |
東前頭筆頭 10–5 技★ |
1999年 (平成11年) |
西小結 9–6 |
東小結 8–7 |
東小結 10–5 |
東関脇2 6–9 |
東前頭筆頭 10–5 殊★★ |
西関脇 10–5 技 |
2000年 (平成12年) |
西関脇 8–7 |
西関脇2 8–7 |
西関脇 9–6 |
西関脇 12–3 技 |
東関脇 2–4–9[注釈 8] |
西前頭4枚目 休場[注釈 7] 0–0–15 |
2001年 (平成13年) |
西前頭4枚目 10–5 |
東小結 9–6 殊 |
西関脇 9–6 |
東関脇 10–5 技 |
東関脇 12–3 |
東関脇 12–3 技 |
2002年 (平成14年) |
西大関2 13–2[注釈 9] |
東大関1 10–5 |
西大関1 10–5 |
東大関2 3–2–10[注釈 10] |
西大関1 休場[注釈 7] 0–0–15 |
東大関3 8–7[注釈 11] |
2003年 (平成15年) |
東大関2 0–6–9[注釈 12] |
西大関1 休場[注釈 7] 0–0–15 |
西大関2 8–7[注釈 11] |
西大関2 7–8 |
西大関2 10–5[注釈 11] |
西大関1 13–2 |
2004年 (平成16年) |
東大関1 9–6 |
東大関2 0–3–12[注釈 13] |
西大関2 休場[注釈 11] 0–0–15 |
西関脇2 10–5[注釈 14] |
西大関2 2–2–11[注釈 15][注釈 16] |
西大関2 3–3–9[注釈 11][注釈 17] |
2005年 (平成17年) |
西関脇2 11–4[注釈 18] |
西大関2 10–5[注釈 19] |
西大関1 12–3 |
東大関1 9–6 |
西大関1 10–5 |
東大関1 2–2–11[注釈 20] |
2006年 (平成18年) |
東大関2 14–1[注釈 11] |
東大関1 12–3 |
東大関1 2–5–8[注釈 21] |
西大関3 8–7[注釈 11] |
西大関3 9–6 |
東大関2 10–5 |
2007年 (平成19年) |
西大関1 5–10 |
西大関3 8–4–3[注釈 11][注釈 22] |
西大関2 引退 ––[注釈 23] |
x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
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蒼樹山 | 2 | 2 | 安芸乃島 | 13 | 6 | 曙 | 4 | 9 | 朝青龍 | 10 | 15 |
朝赤龍 | 2 | 1 | 朝乃翔 | 1 | 1 | 朝乃若 | 1 | 1 | 旭豊 | 4 | 1 |
安馬 | 5 | 1 | 安美錦 | 4 | 3 | 岩木山 | 9 | 3 | 小城錦 | 4 | 1 |
魁皇 | 13(1) | 22(1) | 海鵬 | 4 | 0 | 垣添 | 7 | 1 | 春日王 | 1 | 0 |
巌雄 | 3 | 0 | 稀勢の里 | 5 | 0 | 北勝鬨 | 1 | 0 | 旭鷲山 | 16 | 5(1) |
旭天鵬 | 15 | 10 | 剣晃 | 1 | 1 | 五城楼 | 1 | 0 | 黒海 | 10 | 2 |
琴稲妻 | 2 | 1 | 琴欧洲 | 5 | 6 | 琴奨菊 | 3 | 2 | 琴錦 | 7 | 5 |
琴ノ若 | 14 | 4 | 琴別府 | 1 | 0 | 琴光喜 | 10 | 14(1) | 琴龍 | 6 | 2 |
小錦 | 3 | 0 | 敷島 | 5 | 0 | 霜鳥 | 1 | 1 | 大至 | 2 | 1 |
大善 | 2 | 0 | 大飛翔 | 2 | 0 | 貴闘力 | 15 | 4 | 貴ノ浪 | 14 | 16(1) |
貴乃花 | 5 | 16 | 隆乃若 | 3 | 4 | 高見盛 | 7 | 3 | 豪風 | 1 | 0 |
玉春日 | 9 | 2 | 玉乃島 | 17 | 1 | 千代大海 | 18* | 16(1) | 千代天山 | 3 | 1 |
出島 | 25 | 9 | 寺尾 | 2(1) | 0 | 闘牙 | 12(1) | 1 | 時津海 | 4 | 1 |
時天空 | 3 | 2(1) | 土佐ノ海 | 18 | 16 | 栃乃洋 | 21 | 4 | 栃乃花 | 2 | 0 |
栃乃和歌 | 1 | 0 | 白鵬 | 5 | 8(2) | 白露山 | 2 | 0 | 濱ノ嶋 | 2 | 0 |
追風海 | 4(1) | 2(1) | 把瑠都 | 1(1) | 1 | 普天王 | 2 | 1 | 豊真将 | 1 | 0 |
北勝力 | 5 | 2 | 三杉里 | 1 | 0 | 水戸泉 | 1 | 0 | 湊富士 | 0 | 2 |
雅山 | 19 | 16(1) | 武蔵丸 | 8 | 16 | 武双山 | 18 | 7 | 力櫻 | 2 | 1 |
露鵬 | 6(1) | 2 | 若の里 | 14 | 10 | 若乃花 | 4 | 8 | 和歌乃山 | 4 | 1 |
(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。)