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1954年秋場所、4回目の優勝時 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 大塚 清 → 栃錦 清隆 | |||
本名 | 中田 清(旧姓:大塚) | |||
愛称 |
マムシ 兎 名人横綱 技の展覧会 デンマーク体操 土俵の名人 | |||
生年月日 | 1925年2月20日 | |||
没年月日 | 1990年1月10日(64歳没) | |||
出身 |
日本・東京府南葛飾郡小岩村下小岩 (現:東京都江戸川区南小岩) | |||
身長 | 178cm | |||
体重 | 124kg | |||
BMI | 39.14 | |||
所属部屋 | 春日野部屋 | |||
得意技 | 左四つ、寄り、押し、上手出し投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第44代横綱 | |||
生涯戦歴 | 578勝245敗1分1預44休(66場所) | |||
幕内戦歴 | 513勝203敗1分32休(52場所) | |||
優勝 | 幕内最高優勝10回 | |||
賞 |
殊勲賞1回 技能賞9回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1939年1月場所 | |||
入幕 | 1947年6月場所 | |||
引退 | 1960年5月場所 | |||
備考 | ||||
金星1個(東富士1個) | ||||
2013年11月12日現在 |
栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年2月20日 - 1990年1月10日)は、東京府南葛飾郡小岩村下小岩(現・東京都江戸川区南小岩)[1]出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。第44代横綱。本名は大塚 清(おおつか きよし)で、のちに栃木山守也の養子となって中田 清(なかた きよし)となる。
1925年に、小岩村(現・江戸川区南小岩)で蛇の目傘の製造を営む家の二男として生まれる。[2]少年時代から運動神経は抜群で、並外れた体力と恵まれた体格を見た近所の八百屋の勧めもあって、下小岩尋常小学校(現・江戸川区立下小岩小学校)卒業後、13歳で春日野部屋の門を叩き、1939年1月場所で初土俵を踏む。十両昇進を機に名乗った四股名の「栃錦」は、春日野の現役名である栃木山守也と、その兄弟弟子だった大錦卯一郎から付けたものであり[3]、当時の期待ぶりが窺える。
新弟子検査では直前に白飯と水を腹一杯に詰め込み、体重計の上に飛び乗って針を大きく揺らして通過したと[3]いうほどの軽量で、周囲の期待はさほど高くはなかった。ただ、春日野だけは「軽量だから三段目でさすがに厳しいかと思っていると、ちゃんと相応の相撲を取る」と評価していた。これは、有望な弟子たちを次々に兵役へ取られていく中で、春日野としては栃錦に期待するしかなかった、とも言われている。春日野は死去直前、栃錦について「新十両の頃は『これが唯一の関取経験』と思ったら十両でも通用した。そう思った頃には幕内になって、それでも『上位には通用しない』と思ったら三役、『三役はつらいか』と思ったら大関になった。大関になって『流石に横綱は無理』と思ったら横綱になった。こんなことなら、栃錦に対して若い頃からもっと稽古をつけるべきだった」と後悔混じりに語っている。
栃錦は春日野から「寝る時はエビのように小さくなって寝ろ。飯を食うときは大きな体で食え」という指導を受けたことを自伝の中で明かしている[4]。序二段で一度負け越しただけで順調な出世を遂げ、1944年5月場所で十両昇進を果たすが、第二次世界大戦の激化によって徴兵され、1945年8月15日の終戦まで軍隊生活を送る[3][注 1]。
栃錦は、戦後最初の場所となった1945年11月場所において十両4枚目格で番付に復帰した。当時の復員力士については番付復帰後1場所は準備期間として休場しても地位が据え置かれる救済措置が取られていたが、栃錦はこれを受けずに出場し、6勝4敗と勝ち越した。1946年11月場所は東十両筆頭で迎えたが、相手力士の負傷による痛み分けとして6勝6敗1分と勝ち越せず、幕内昇進は厳しいと思われたが、安藝ノ海節男ら4力士が引退したことで、1947年6月場所で新入幕を果たす。入幕時の体重は僅か75kgしかなかった[3][5]。この場所は4勝6敗と負け越したが、当時はまだ東西制が実施されていた時代で、翌場所の十両陥落を免れた。なお、東西制はこの場所限りで廃止され、翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、十両陥落を免れた栃錦にとっては非常に強運だった。
入幕2場所目となる同年11月場所では西前頭16枚目で9勝2敗の好成績を挙げ、10勝1敗で幕内最高優勝の横綱・羽黒山政司に次ぐ星をあげる。この場所から三賞制度が始まり、栃錦も「何かもらえるかと思った」と話していたが、新入幕で同じ9勝の出羽錦忠雄に殊勲賞[注 2]が贈られ、栃錦には何も無かった。後に彼が独占する技能賞を初めて受賞する1949年1月場所では、優勝候補の一人だった大関・佐賀ノ花勝巳に立ち合いで思い切り当たり、前褌を引いて右から強烈な出し投げを打って勝利したことが評価され、これが受賞理由となった[3]。
1951年1月場所では前頭2枚目で初日から7連敗を喫したが、その後は8連勝して8勝7敗と勝ち越した[注 3]。翌場所で小結に復帰以降は三役に定着し、大関・横綱へ駆け上がっていく。
1952年5月場所は10勝5敗で通算8回目の技能賞を獲得、協会から特別表彰を受けた[3]。同年9月場所では場所中に高熱を発したが14勝1敗で初の幕内最高優勝を遂げ、感涙に暮れた。場所後に大関に昇進するが、この時の体重は98kgしかなかった[3]。
新大関として迎えた1953年1月場所は、横綱・照國萬藏が3日目から休場し14日目に現役引退を表明[6]、残る横綱・大関も6人中3人が途中休場という大荒れの場所だったが、12日目まで1敗で優勝を争い、終盤に3連敗したものの11勝4敗、優勝の大関・鏡里喜代治(14勝1敗)と共に上位陣の面目を保った。続く同年3月場所では14勝1敗で大関として初優勝を果たすと、同年5月場所でも13勝2敗で全勝の平幕・時津山仁一、14勝1敗で準優勝の大関・吉葉山潤之輔に次ぐ3位の星を挙げ[注 4]、その軽量から短命大関で終わってしまうのではないかと不安視する声を一掃し、次の横綱候補と目されるようになる。しかしこの直後、巡業先で一晩ハメを外したために体調を崩し、その後の3場所を8勝、9勝、9勝と低迷、春日野からは「一晩の不摂生が半年祟る」と慢心を叱責された。
1954年5月場所において14勝1敗の好成績を挙げ、大関では2度目、通算3度目の幕内最高優勝を果たす。場所後に協会は横綱審議委員会に栃錦の横綱昇進を諮問したが、当時横審の連続優勝に関する内規が成立してなく、「強いて横綱を五人つくるほど圧倒的な成績ではない」[7]との番付上の理由で横綱推薦は否決された。この場所は東富士欽壹・千代の山雅信・鏡里喜代治・吉葉山潤之輔の4横綱が存在していたため、栃錦が横綱昇進すると前例のない5横綱時代が実現するところであった。同年9月場所は初日黒星ながらその後は白星を順調に積み重ね、このまま連続優勝を果たすと思われたが、最悪の場合として今度も横綱昇進を見送られる可能性もあった。しかし、14日目になって東富士が突然の現役引退を申し出た。それを聞いた栃錦もすぐに付け人を使者に立てて引退しないように説得したが、東富士の意思は変わらなかった。そして、栃錦は吉葉山に勝利して14勝1敗で連続優勝を決め、場所後に第44代横綱へ昇進した[注 5]。横綱昇進時の口上は「ありがたくお受けいたします」であった[8]。また大正時代生まれ最後の横綱昇進者となった。
新横綱場所の1955年1月場所は初日にいきなり大昇充宏に小手投げで敗れ、金星を初供給してしまう。昭和以降の横綱で昇進場所初日が黒星だったのは栃錦が史上初の不名誉記録だった。その後も4日目に若瀬川泰二にうっちゃられるなど平幕戦だけで3敗を喫し、10勝5敗と不本意な成績に終わる。続く3月場所も初日に双ツ龍徳義に敗れたあと、5日目まで黒星と白星が交互するいわゆる「ヌケヌケ」の立ち上がりだったが、6日目から10連勝で盛り返し、終わってみれば12勝3敗、13勝2敗で優勝の千代の山雅信、優勝同点の大内山平吉に次ぐ3位の成績だった[3]。横綱3場所目となる5月場所は初日から8連勝、9日目の時津山仁一に敗れたのみの14勝1敗で、横綱昇進後初となる5回目の優勝を果たす。5回の優勝はこの時点で千代の山と並び現役最多だったが、この直後の巡業中から体調を崩し、続く9月場所は7日目から初土俵以来初めての休場[注 6]となる。このあとの1年弱は「土俵生活で一番辛かった時期」というほど衰弱が著しく、結局次の優勝(1957年9月)まで丸2年を要することになった[3]。
1958年後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体を逆に生かして正攻法の相撲に変え、1959年3月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を果たし、その後は引退まで12勝を下回ることがない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率.905)という驚異の成績を続ける。
1959年10月3日に春日野が亡くなると、前年に廃止されていた二枚鑑札が特例として認められ、年寄・春日野と春日野部屋を継承する。同年7月場所は優勝を逃したら引退と考えた上で挑み、場所前から床山に中剃を断っていた。この場所では14日目に優勝を決めたものの、その晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故死する悲運に見舞われた。この悲しみを乗り越え、翌日の千秋楽では若乃花幹士を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした[3]。千秋楽の取組では、左差し右おっつけの鋭い出足で若乃花を一気に寄り切った。この場所の優勝を決めた際、栃錦は「ワシが相撲取りじゃなかったら、親父もこんなことにはならなかった。やっぱりワシが死なせたようなもの」と喜びは無かった[9]。最後の優勝となった1960年1月場所では、この年からエール・フランス航空が毎年、初場所の優勝力士をヨーロッパへ招待することになり、栃錦は武藏川とともに渡欧した。
1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗[注 7]。
若乃花幹士とは1951年5月場所の初顔合わせからいきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(若乃花が勝利した)、これ以降常に熱戦・好勝負を演じ続けてきた。1953年3月場所にはあまりの大勝負に栃錦の水引が切れて髷がほどけ、しばらくそのまま取組を続けたが、動きが止まったところで行司が待ったをかけ、土俵下でとりあえずの髷を結って勝負再開、大熱戦の末に栃錦が外掛けで勝った[10][11]。「栃若」の対戦となれば水入りは当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場したばかりのテレビを通して全国の相撲ファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士を次々になぎ倒す二人の姿は、第二次世界大戦の敗戦から戦後の復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々はとても多かったとされる。土俵狭しと目まぐるしく動き回る二人の攻防が、テレビ時代の到来に相応しいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士の活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に「栃若時代」という。
両者の対戦は、1951年5月場所から1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦の1不戦勝を含む)し、千秋楽において両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は水入りになることが多かった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
場所 | 対戦日 | 栃錦勝敗 (通算成績) |
若乃花勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1951年5月場所 | 8日目 | ●(0) | ○(1) | 千代の山 | 初対戦 |
1951年9月場所 | 12日目 | ○(1) | ●(1) | 東富士 | |
1952年1月場所 | 12日目 | ●(1) | ○(2) | 羽黒山 | |
1952年5月場所 | 6日目 | ○(2) | ●(2) | 東富士 | |
1952年9月場所 | - | - | - | 栃錦(1) | 対戦なし。 |
1953年1月場所 | 初日 | ○(3) | ●(2) | 鏡里 | 栃錦、新大関昇進 |
1953年3月場所 | 7日目 | ○(4) | ●(2) | 栃錦(2) | |
1953年5月場所 | 4日目 | ○(5) | ●(2) | 時津山 | |
1953年9月場所 | 3日目 | ●(5) | ○(3) | 東富士 | |
1954年1月場所 | 10日目 | ●(5) | ○(4) | 吉葉山 | |
1954年3月場所 | 11日目 | ●(5) | ○(5) | 三根山 | |
1954年5月場所 | 12日目 | ○(6) | ●(5) | 栃錦(3) | |
1954年9月場所 | 14日目 | ○(7) | ●(5) | 栃錦(4) | |
1955年1月場所 | 12日目 | ●(7) | ○(6) | 千代の山 | 栃錦、横綱昇進 |
1955年3月場所 | 千秋楽 | ○(8) | ●(6) | 千代の山 | |
1955年5月場所 | 12日目 | ○(9) | ●(6) | 栃錦(5) | |
1955年9月場所 | - | - | - | 鏡里 | 栃錦休場により対戦なし。 |
1956年1月場所 | 9日目 | ○(10) | ●(6) | 鏡里 | 若乃花、大関昇進 |
1956年3月場所 | 千秋楽 | ●(10) | ○(7) | 朝潮 | |
1956年5月場所 | - | - | - | 若乃花(当時若ノ花)(1) | 栃錦休場により対戦なし。 |
1956年9月場所 | 千秋楽 | □(11) | ■(7) | 鏡里 | |
1957年1月場所 | 14日目 | ○(12) | ●(7) | 千代の山 | |
1957年3月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(8) | 朝潮 | |
1957年5月場所 | 12日目 | ○(13) | ●(8) | 安念山 | |
1957年9月場所 | 13日目 | ○(14) | ●(8) | 栃錦(6) | |
1957年11月場所 | 14日目 | ○(15) | ●(8) | 玉乃海 | |
1958年1月場所 | 14日目 | ●(15) | ○(9) | 若乃花(2) | |
1958年3月場所 | 14日目 | ●(15) | ○(10) | 朝潮 | 若乃花、横綱昇進 |
1958年5月場所 | 14日目 | ○(16) | ●(10) | 栃錦(7) | |
1958年7月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(11) | 若乃花(3) | 千秋楽2敗同士相星決戦 |
1958年9月場所 | - | - | - | 若乃花(4) | 栃錦休場により対戦なし。 |
1958年11月場所 | - | - | - | 朝潮 | 栃錦休場により対戦なし。 |
1959年1月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(12) | 若乃花(5) | |
1959年3月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(12) | 栃錦(8) | 千秋楽栃錦1敗、若乃花2敗で対戦 |
1959年5月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(13) | 若乃花(6) | 千秋楽栃錦全勝、若乃花1敗で対戦 優勝決定戦も若乃花勝利、若乃花優勝。 |
1959年7月場所 | 千秋楽 | ○(18) | ●(13) | 栃錦(9) | |
1959年9月場所 | 千秋楽 | ●(18) | ○(14) | 若乃花(7) | 千秋楽栃錦2敗、若乃花1敗で対戦 |
1959年11月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(14) | 若羽黒 | 千秋楽両者3敗で対戦、栃錦勝利。 (千秋楽対決は年間最多勝をかけた対戦だった。) |
1960年1月場所 | - | - | - | 栃錦(10) | 若乃花休場により対戦なし。 |
1960年3月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(15) | 若乃花(8) | 千秋楽全勝同士の相星決戦 最後の対戦。 |
1960年5月場所は初日から2連敗すると、「衰えてから辞めるのは本意ではない」という師匠の教えを忠実に守るかのように、潔く引退を表明した。こうして栃若時代が終焉した直後には柏鵬時代に移り変わっており、その様子は世相が安保闘争から高度経済成長へと移行したタイミングと一致している。後年、NHK解説委員会でもこの点について話題が挙がっている[12]。幕内通算513勝は当時の最多勝記録だったが、1年2ヶ月後の1961年7月場所で若乃花幹士によって更新された。現在の記録は白鵬翔の1093勝。
引退後は二枚鑑札(1958年に廃止されていたが特例で認められていた)で襲名していた年寄・春日野として、先代から引き継いだ栃ノ海晃嘉を横綱へ、栃光正之を大関まで育て、それ以外にも直弟子最初の関取だった栃東知頼を栃ノ海に続く自身が師匠となってからの2人目の優勝力士に導き、他にも舛田山靖仁、栃赤城雅男、栃司哲史、現春日野である栃乃和歌清隆等数多くの関取を育てた。
さらに春日野は「力士とは『力の紳士』と書く。ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。他に審判部長・事業部長などを歴任し、審判部長としては1969年3月場所2日目、戸田智次郎 - 大鵬幸喜戦[注 8]、1972年1月場所8日目の貴ノ花満 - 北の富士勝昭戦[注 9]といった、判定を巡る歴史的な大事件に関わった。
1974年1月場所後の役員改選で武蔵川の後任として日本相撲協会理事長に就任した。名横綱かつ協会の要職を歴任したことで本命視されていたが、この改選では反出羽海一門が伊勢ヶ濱を理事長候補に擁立して結集し[注 10]、一時は「三-七で(春日野が)不利」[13]とまでされた。春日野は「激動の時代にこれまで協会の運営に直接あたった経験のない人には危なくて任せられない」[13]と主張して運営審議会や後援会も巻き込んで徹底的な多数派工作を展開した結果、ついに伊勢ヶ濱を立候補辞退に追い込んだ[14]。
理事長就任後は、
するなど、1990年代の若貴人気につながる相撲人気の復興のための数々の改革を、大鵬・鏡山・出羽海、時津風などの若手親方を協会の要職に起用しながら推進し、現役時代を髣髴とさせる多彩な技と、大きく素早い動きを見せて7期14年の長期安定政権を維持した。
派閥に関係なく能力次第で協会の要職に登用するなどして争いは沈静化し、「すぐに『理事長に一任します』と言われて拍子抜けするんだ」と本人が述べるほど、スムーズな協会運営が可能となった。就任当初はかつてのライバルの若乃花幹士 (初代)の師匠である花籠をナンバー2の事業部長に起用して[注 11]、1980年に花籠が自身の定年の絡みで理事を退任すると、まだ理事就任3期目の二子山を後任の事業部長に起用して、以降栃若コンビによる協会運営となる。理事経験が浅く一門の底辺の部屋の師匠だった二子山の事業部長就任はそれまでの一門の力関係だけでの幹部の就任を打破する事になった。その後、糖尿病などの影響で一時は歩行困難になるなど体調が悪化するがこれを克服し、1985年5月7日には落成したばかりの両国国技館で「春日野親方の都民文化栄誉章受章・NHK放送文化賞受賞・還暦を祝う会」が開催され、露払いに出羽海・太刀持ちに二子山を従えて還暦土俵入りを披露した。また横綱・双羽黒光司に対してもかなり理解ある立場を取っていたことで知られ、双羽黒が横綱時代に発生させた付け人脱走事件や不祥事による廃業については、立浪の指導方針や部屋経営に問題があるという主張を展開していた。
1988年1月場所をもって理事長職を二子山に譲って勇退し、自らは相撲協会の相談役に就任した。1989年11月場所の初日直前に脳梗塞で倒れ、福岡市の病院へ緊急入院。絶対安静の状態だったが顔を洗いに起き上がり再び倒れた。その後予断を許さない状況が続く中、1990年1月場所4日目だった1月10日に脳梗塞による肺炎のため福岡大学病院で死去、64歳没。65歳の停年退職を迎える僅か約1ヶ月前だった。現役時代のライバルだった二子山理事長は、栃錦の訃報に関する記者会見に臨むも言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてもらえるかな…」と数分間会見の席を立ち去った。その後会見場に戻ってからの二子山は動揺を抑えきれずに「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を拭いつつ、共に土俵を盛り上げた最大のライバルの死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙祷を行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。墓所は江戸川区万福寺。
没後の1990年12月25日、相撲界における多大な功績を讃えられ、故郷・江戸川区南小岩にあるJR総武線・小岩駅の改札前に、横綱当時の土俵入りの姿をかたどった栃錦の銅像が建てられた。栃錦像は現在も小岩駅のシンボルとして、待ち合わせ場所の目印になっている。
また、相撲界としては初めて従四位・勲二等瑞宝章を追贈された[15]。
入門直後は兄弟子の栃ノ峯などから押し相撲を教わった[16]が、取的時代に春日野の付き人になってからは春日野の燗番をしている時に廻しの切り方や四十八手の難しそうな技を手取り足取り教わり、これが後の技巧につながった[3]。中でも出し投げの技術は弟子たちにも伝えられた[16]。平幕から三役にかけては、「相撲の技は全て使った」と言われる業師ぶりを発揮した(その相撲ぶりを技の展覧会と評されたりもした)。現在でも反り技など滅多に出ないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞する[5]など、「技能賞は栃錦のためにある」とまで言われた。その一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、横綱昇進のころ(106kg)から見違えるように体重も増え140キロにもなるほどになり、無駄を排した寄り押し相撲中心の取り口に変わった。この頃のような相撲を取れた背景には新弟子時代に押し相撲を仕込まれたことがある[16]。一人の力士がその土俵人生でこれほど明らかに取り口が変化し[17]、そして大成した例は少ない。
大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、新弟子検査の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。
相撲っぷりだけでなく、土俵上の立ち居振る舞いも栃錦の人気の源であった。両の歯を食いしばり気迫に満ちた仕切りを重ねる毎に肌が朱に染まっていき、立合いの時には足の親指が土俵にめり込むかのようにじりじりと腰を割り、一気に立ち上がるという栃錦の姿はファンを虜にした。その一方で小兵のハンディをカバーするため早く立ち合おうとする余り両手をつかずに立ち上がるようになり、それが後年の力士の立合いの乱れにつながったと指摘する人は多い。彼が戦後の時代における相撲界の大功労者であることは間違いのない事実だが、立合いだけは唯一の汚点であるとされ、栃木山は滅多に栃錦の相撲を批判することはなかったが、立合いについては「下ろさないと損だ」と注意していたという。しかし師匠に敬服していた栃錦もそれだけは譲らず、どんな先輩や識者の言う事も聞かなかったという。これについては自著『栃錦一代』の中で、関脇までは自分の呼吸で立てば良かったものが大関横綱となると相手の呼吸にあわせて立つことが求められるようになり、軽量ゆえに一瞬の立ち遅れが致命的になるのでどうしても性急な立合いになってしまったという趣旨の弁明をしている。現役時は注意されてばかりだったが、理事長時代は逆に手を下ろす事を皆に勧め、現在のように一般化させた。
春場所 | 夏場所 | 秋場所 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
1939年 (昭和14年) |
(前相撲) | 西新序 2–1 |
x | |||
1940年 (昭和15年) |
西序ノ口4枚目 6–2 |
西序二段26枚目 3–5 |
x | |||
1941年 (昭和16年) |
東序二段26枚目 5–3 |
東三段目46枚目 5–3 |
x | |||
1942年 (昭和17年) |
東三段目18枚目 6–2 |
西幕下24枚目 6–2 |
x | |||
1943年 (昭和18年) |
西幕下7枚目 4–4 |
西幕下6枚目 4–4 |
x | |||
1944年 (昭和19年) |
西幕下5枚目 6–2 |
東十両9枚目 6–4[注 16] |
x | |||
1945年 (昭和20年) |
x | x | 西十両 6–4 |
|||
1946年 (昭和21年) |
x | 国技館修理 のため中止 |
東十両筆頭 6–6 (痛分1) |
|||
1947年 (昭和22年) |
x | 西前頭18枚目 4–6 |
西前頭16枚目 9–2 |
|||
1948年 (昭和23年) |
x | 西前頭8枚目 5–5 (引分1) |
西前頭7枚目 7–4 |
|||
1949年 (昭和24年) |
西前頭3枚目 7–6 技 |
西前頭3枚目 4–11 |
西前頭7枚目 12–3 技 |
|||
1950年 (昭和25年) |
西小結 8–7 技 |
東小結 5–10 |
東前頭3枚目 8–7 技★ |
|||
1951年 (昭和26年) |
東前頭2枚目 8–7 |
東小結 9–6 技 |
西張出関脇 9–6 技 |
|||
1952年 (昭和27年) |
東関脇 10–5 技殊 |
東関脇 10–5 技 |
西関脇 14–1 技 |
|||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
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1953年 (昭和28年) |
東張出大関 11–4 |
東大関 14–1 |
東大関 13–2 |
x | 西大関 8–7 |
x |
1954年 (昭和29年) |
西大関 9–6 |
西大関 9–6 |
西大関 14–1 |
x | 東大関 14–1 |
x |
1955年 (昭和30年) |
西横綱 10–5 |
西横綱 12–3 |
西横綱 14–1 |
x | 東横綱 4–3–8[注 17] |
x |
1956年 (昭和31年) |
西張出横綱 9–6 |
東張出横綱 9–6 |
西横綱 5–5–5[注 18] |
x | 西張出横綱 11–4 |
x |
1957年 (昭和32年) |
東張出横綱 11–4 |
西横綱 11–4 |
東横綱 12–3 |
x | 東横綱 13–2 |
東横綱 12–3 |
1958年 (昭和33年) |
東横綱 11–4 |
西横綱 11–4 |
東張出横綱 14–1 |
東横綱 12–3 |
西横綱 6–5–4[注 19] |
西横綱 休場[注 20] 0–0–15 |
1959年 (昭和34年) |
西横綱 10–5 |
西横綱 14–1 |
東横綱 14–1[注 21] |
東横綱 15–0 |
東横綱 12–3 |
西横綱 12–3 |
1960年 (昭和35年) |
東横綱 14–1 |
東横綱 14–1 |
西横綱 引退 0–3–0 |
x | x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
愛知山 | 3 | 1 | 青ノ里 | 2 | 0 | 明瀬川 | 1 | 0 | 朝汐(米川) | 16 | 13(1) |
東富士 | 7 | 7 | 愛宕山 | 1 | 0 | 安念山 | 16 | 8(1) | 岩風 | 7 | 0 |
大内山 | 16 | 6 | 大熊 | 1 | 0 | 大ノ海 | 2 | 2※ | 大昇 | 5 | 2 |
大蛇潟 | 5 | 0 | 海山 | 4 | 1 | 鏡里 | 14 | 16 | 柏戸 | 5 | 0 |
柏戸 | 1 | 0 | 神風 | 1 | 1 | 神錦 | 1 | 0 | 北の洋 | 20 | 2 |
北葉山 | 7 | 0 | 清恵波 | 2 | 0 | 鬼竜川 | 1 | 0 | 九州錦 | 6 | 1 |
国登 | 11 | 4 | 高津山 | 2 | 5 | 琴ヶ濱 | 20 | 7 | 琴錦 | 10 | 3 |
佐賀ノ花 | 5 | 4 | 潮錦 | 10 | 0 | 嶋錦 | 5 | 0 | 清水川 | 17 | 2 |
信州山 | 1 | 0 | 大鵬 | 1 | 0 | 玉乃海 | 16 | 11 | 玉響 | 2 | 0 |
鶴ヶ嶺 | 14 | 5 | 照國 | 2 | 6 | 輝昇 | 6 | 2 | 十勝岩 | 5 | 0 |
時津山 | 24(1) | 6 | 時錦 | 6 | 0 | 名寄岩 | 10 | 4 | 羽黒山 | 1 | 8 |
大岩山(羽衣) | 2 | 1 | 備州山 | 6 | 3 | 常陸海 | 0 | 1 | 広瀬川 | 4 | 0 |
房錦 | 9 | 0 | 藤田山 | 3 | 0 | 冨士錦 | 3 | 0 | 二瀬川(二タ瀬川) | 1 | 0 |
二瀬山 | 7 | 0 | 双ツ龍 | 12 | 2 | 不動岩 | 2 | 1 | 星甲 | 1 | 0 |
前田山 | 0 | 2 | 前ノ山(醍醐山) | 1 | 0 | 松登 | 23 | 5 | 三根山 | 19 | 10 |
緑國 | 2 | 0 | 緑嶋 | 1 | 2 | 宮錦 | 3 | 1 | 吉葉山 | 9 | 14 |
力道山 | 2 | 2 | 若潮 | 2 | 1 | 若瀬川 | 14 | 6 | 若秩父 | 4 | 0 |
若ノ海 | 8 | 3(1) | 若乃花(初代) | 19(1) | 15* | 若羽黒 | 16 | 3 | 若葉山 | 11 | 2 |
若前田 | 15 | 1 | 若三杉 | 2 | 1(1) |
※他に大ノ海に引分が1つある。