栄禄(えいろく、満洲語:ᡰᡠᠩᠯᡠ、転写:žunglu[1]、繁体字:榮祿、道光16年2月21日(1836年4月6日) - 光緒29年3月14日(1903年4月11日))は、清末の軍人・政治家。字は仲華。満洲正白旗人。グワルギャ氏(ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ
ᡥᠠᠯᠠ, gūwalgiya hala、瓜爾佳氏)。娘の幼蘭は醇親王載灃に嫁ぎ、最後の皇帝・宣統帝溥儀の母となった。
咸豊2年(1852年)、同じグワルギャ氏の文祥に激賞されたお蔭で16歳の若さで官職につき、以後は内務府大臣、工部尚書、総理各国事務衙門大臣などを経て、日清戦争では歩軍統領として軍務についた。光緒21年(1895年)、袁世凱を抜擢して新建陸軍を創設した。
光緒24年(1898年)、西太后が袁世凱らと共に起こした反変法のクーデター(戊戌の政変)において直隷総督兼北洋大臣として、その軍事力をもって康有為らの戊戌の変法を挫折させた。政変後は軍機大臣となって兵部と北洋各軍を管理し、宋慶・董福祥・聶士成・袁世凱の北洋各軍を併せて武衛軍を創設した。
光緒26年(1900年)に勃発した義和団の乱では主戦派に反対し、公使館区域攻撃を命ぜられながら、逆に公使館区域を保護する態度をとった。乱後は劉坤一と張之洞が「江楚会奏三折」で主張した変法(光緒新政)を支持する姿勢に転換した。
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