栗山 尚一(くりやま たかかず、1931年8月2日 - 2015年4月1日)は、日本の外交官、外務省官僚。外務事務次官、駐アメリカ合衆国大使、駐マレーシア大使。父親はベルギー大使などを務めた栗山茂。
パリ生まれ[1]、東京都出身[2]。
1951年に学習院高等科を卒業し、
東京大学法学部入学。同期に吉原泰助、平賀俊行らがいる。中退後、外務省入省[3]。同期に三宅和助、平岡千之、村角泰がいた。条約課長時代、日中国交正常化に携わった[4]。その後、条約局長、北米局長、駐マレーシア大使、外務審議官、外務事務次官を経て、駐アメリカ合衆国大使に就任した。1997年から2002年まで早稲田大学法学部客員教授[3]、1999年から2002年まで国際基督教大学客員教授。ほかに宮内庁参与[2]、外務省顧問、一般社団法人アジア調査会会長[2]などを歴任した。夫人は栗山昌子[2]。
2015年4月1日9時40分、肺炎のため死去[3][5]。83歳没[3]。叙従三位[6]。NHKスペシャル『戦後70年 ニッポンの肖像-世界の中で-第2回冷戦 日本の選択』(2015年6月20日放送)でインタビューに答えたのが生前最後の公に姿を表した場となった。
- 1954年:外務省に入省[2]
- 1956年 : 領事官補・サンパウロ
- 1958年 : アメリカ局中南米課
- 1959年 : 経済局経済協力課
- 1960年 : 経済協力局政策課
- 1963年 : 海外経済協力基金
- 1964年 : 三等書記官・国連代表部
- 1965年 : 二等書記官[7]
- 1981年-1984年:条約局長
- 1984年:北米局長
- 1985年-1987年:マレーシア大使
- 1987年:外務審議官(政務担当)
- 1989年8月-1991年8月:外務事務次官[2]
- 1992年-1995年:駐アメリカ合衆国大使[3]
- 2006年4月-2012年3月:宮内庁参与
- 2007年4月:瑞宝大綬章受章
- 『日米同盟-漂流からの脱却』(日本経済新聞社、1997年)
- 『沖縄返還・日中国交正常化・日米「密約」-外交証言録』(岩波書店、2010年8月)。中島琢磨・服部龍二・江藤名保子編
- 『戦後日本外交-軌跡と課題』(岩波書店〈岩波現代全書〉、2016年6月)。遺著
外務省条約局長(1981年 - 1984年) |
---|
条約局 | |
---|
国際法局 | |
---|
外務省 北米局長 (1984年 - 1985年) |
---|
アメリカ局長 | |
---|
北米局長 | |
---|
アメリカ局長 | |
---|
北米局長 | |
---|
|
---|
代理公使・弁理公使 |
- 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使)
- 上野景範 1872(弁理公使a)
|
---|
特命全権公使 | |
---|
特命全権大使 | |
---|
在外事務所長 | |
---|
特命全権大使 | |
---|
a 外務少輔・外務卿代理を一時期兼ねる b 再任 c 遣アメリカ合衆国特命全権大使(在アメリカ合衆国特命全権大使の野村に加えての大使) d 1941年12月の日米開戦後に大使館が閉鎖されたため実質的に失職、両名は翌年8月の抑留者交換船で帰朝
|