栗栖 赳夫 くるす たけお | |
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生年月日 | 1895年7月21日 |
出生地 | 山口県岩国市 |
没年月日 | 1966年5月10日(70歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
前職 | 日本興業銀行総裁 |
所属政党 |
(同和会 →) (日本自由党 〔新政倶楽部[1]〕→) (緑風会 →) (民主党 →) (国民民主党 →) (民主クラブ→) 自由党 [2] |
称号 | 法学博士 |
内閣 | 芦田内閣 |
在任期間 | 1948年3月10日 - 1948年10月2日 |
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内閣 | 片山内閣 |
在任期間 | 1947年6月25日 - 1948年3月10日 |
選挙区 | 山口県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年5月3日 - 1953年3月26日 |
選挙区 | 貴族院勅選議員 |
在任期間 | 1946年6月19日 - 1947年5月2日 |
栗栖 赳夫(くるす たけお、1895年(明治28年)7月21日[5] – 1966年(昭和41年)5月10日[6])は、昭和期の政治家・銀行家・法学者。日本興業銀行総裁・大蔵大臣・経済安定本部総務長官などを歴任。
現在の山口県岩国市に生まれる。第六高校を経て、1921年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業後[7]、日本興業銀行へ入行する。証券部長、総務部長などを経て戦後の1945年に理事に昇格、1947年には総裁まで昇りつめた。学究肌で著作も多く中央大学教授も務めた。1933年に「担保附社債信託ニ関スル研究」で同大学より法学博士号を授与されている[8][9]。一方1946年6月19日には貴族院議員に勅選され[10]、同和会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[6]。
1947年4月、第1回参議院議員通常選挙に日本自由党公認で立候補し当選、のちに緑風会に移籍する。同年日本社会党・民主党・国民協同党の三党連立片山内閣が発足するも、蔵相の矢野庄太郎が就任後半月で病気辞任し、民主党総裁の芦田均の要請により後任として蔵相に就任した。その後民主党に入党し、翌1948年年3月、芦田内閣が発足すると、栗栖は経済安定本部総務長官として続けて入閣した。
同年に昭和電工疑獄が発覚し、蔵相時代に復興金融金庫融資委員長として昭和電工から現金を受け取った疑いで9月30日に現役閣僚ながら逮捕される[11]。現役閣僚の訴追には日本国憲法第75条で首相の同意が必要であるが、東京地裁は「訴追は、逮捕・勾留とは関係ない」との判断を下して、栗栖に逮捕令状を交付している。10月2日、経済安定本部総務長官を辞任した。
1953年3月26日には参議院議員を辞職。1962年11月、最高裁で栗栖に懲役8ヶ月、執行猶予1年の刑が確定された。晩年は破産状態だったと伝えられている。1966年5月10日死去した。享年71。
栗栖の大蔵大臣時代に事務官として大蔵省に入省した三島由紀夫は文章力を期待され、国民貯蓄振興大会での栗栖の演説原稿を書く仕事を任された。しかし三島はその冒頭文に、〈…淡谷のり子さんや笠置シズ子さんのたのしいアトラクションの前に、私如きハゲ頭のオヤジがまかり出まして、御挨拶を申上げるのは野暮の骨頂でありますが…〉と書き、課長に怒られて赤鉛筆でバッサリと削られ読まれることはなかった[12]。
公職 | ||
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先代 和田博雄 |
![]() 第5代:1948年 |
次代 泉山三六 |
先代 和田博雄 |
![]() 第5代:1948年 |
次代 泉山三六 |
先代 矢野庄太郎 |
![]() 第52代:1947年 - 1948年 |
次代 北村徳太郎 |
ビジネス | ||
先代 伊藤謙二 |
日本興業銀行総裁 第10代 : 1947年 |
次代 岸喜二雄 |