ねづ じんぱち 根津 甚八 | |||||||||||
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本名 | 根津 透[1] | ||||||||||
生年月日 | 1947年12月1日 | ||||||||||
没年月日 | 2016年12月29日(69歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本 山梨県都留市 | ||||||||||
死没地 | 日本 東京都 | ||||||||||
身長 | 172 cm | ||||||||||
血液型 | B型 | ||||||||||
職業 | 俳優、演出家、脚本家 | ||||||||||
ジャンル | テレビドラマ、映画、演劇 | ||||||||||
活動期間 | 1969年 - 2010年、2015年 | ||||||||||
活動内容 | 俳優、演出、脚本 | ||||||||||
配偶者 | 根津仁香 | ||||||||||
事務所 | ユマニテ | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『あまく危険な香り』 『誇りの報酬』 『誰かが彼女を愛してる』 『サザンスコール』 映画 『影武者』 『さらば愛しき大地』 『この子の七つのお祝いに』 『乱』 『吉原炎上』 『タスマニア物語』 『ルビーフルーツ』 『GONIN』シリーズ 『金融腐食列島 呪縛』 | |||||||||||
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根津 甚八(ねづ じんぱち、1947年〈昭和22年〉12月1日 - 2016年〈平成28年〉12月29日)は、日本の俳優、演出家、脚本家、歌手。本名、根津 透(ねづ とおる)。芸名は、劇団「状況劇場」入団時に主宰の唐十郎が苗字の「根津」に合わせて、真田十勇士の根津甚八から取って命名した[2]。ユマニテに所属していた。
山梨県谷村町(現・都留市)出身[3]。日本大学第三高等学校卒業、獨協大学外国語学部フランス語学科中退[3]。
曾祖伯父は東亜同文書院を創立した根津一[3]。歯科医師の家の男ばかりの4人兄弟の三男として生まれる[4]。一家は親戚の家に居候していた[3]。小学3年時に[3]一家で山梨から神奈川県川崎市に転居した[3][4]。ここでは山梨弁を笑われ馴染むことが出来なかった[3]。両親は教育熱心で[3]、中学は東京の田園調布中学に越境入学[3]。高校は当時赤坂にあった日大三高に進学。
高校時代から演劇に興味を持ち[4]、進学した獨協大学を二年で中退[4]。1969年、唐十郎が主宰する状況劇場に入団[4]。1974年、『唐版 風の又三郎』で主役を務め、以降、同劇団の看板俳優となる[4]。
劇団以外の仕事は1975年の『娘たちの四季』が初めてだったが、唐に相談したところ「俺たちはずっと外へ出てゆかずにやるけど、お前は外でやってもいいよ」と言われ[4]、途方もない疎外感に襲われ、精神的に唐と大きな溝が出来た[4]。このドラマ出演は、主役だった中野良子が『唐版 風の又三郎』を観て、根津に惚れ込み熱烈にオファーしたもので[3]、演劇ファンの女性は「あまり人気が出ないでほしい」と願ったが、テレビ出演後はやっぱり、全国の女性ファンからファンレターが山積みの事態となった[3]。
1978年、『黄金の日日』に石川五右衛門役で出演して注目される[4]。劇団に根津ファンの若い女性が押し寄せるようになり、劇団に居づらくなったことから[4]、1979年に退団[4][5]。 その後、黒澤明監督作品に主要な役で出演。
2002年頃からは右目下直筋肥大という顔面の病気を患い活動を縮小していた。
2004年7月に交通事故を起こし、被害者を死亡させた[6]。警察の調べに対し、「安全確認が足りなかった」と供述した。その後しばらくの間活動を休止していたが、2006年5月よりブログを開始した。
2007年にユマニテに所属。
2009年、雑誌『週刊現代』8月22・29日合併号に掲載された夫人の手記において、根津がうつ病を患っていることが明らかにされた。持病の椎間板ヘルニアも悪化しており、療養生活を送っていた。2010年9月、俳優業を引退することを公表。演出家や脚本家としての活動は行うが、テレビ出演など表舞台には立たないとした[7]。また同時に、夫人の取材と回想により、闘病生活と俳優時代を回顧した『根津甚八』(根津仁香著、講談社)が刊行された。
2015年、石井隆監督の要望に応え、映画『GONIN サーガ』に出演し、一度限りの銀幕復帰を果たした[8]。
2016年12月29日、肺炎のため東京都内の病院で死去[9][1]。69歳没。 戒名は天映甚八居士。墓所は静岡県駿東郡小山町の冨士霊園。