くわた じろう 桑田二郎 | |
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本名 | 桑田二郎 |
別名義 | 桑田次郎(ペンネーム・1985年まで) |
生誕 |
1935年4月17日![]() |
死没 | 2020年7月2日(85歳没) |
国籍 |
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職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1948年 - 2020年 |
ジャンル | 少年漫画 |
代表作 |
『まぼろし探偵』 『月光仮面』 『8マン』など |
桑田 二郎(くわた じろう、1935年〈昭和10年〉4月17日[1] - 2020年〈令和2年〉7月2日[1])は、日本の漫画家。大阪府吹田市出身で、晩年は茨城県鉾田市(旧鹿島郡大洋村)に居住していた。旧ペンネームは桑田 次郎。絵のシャープな美しさで知られる。代表作は『まぼろし探偵』『月光仮面』『8マン』など。
1935年、大阪府吹田市に生まれる。幼少時は『のらくろ』(田河水泡)や『タンクタンクロー』(阪本牙城)、『長靴の三銃士』(井元水明)等、「少年倶楽部」や「幼年倶楽部」の漫画を愛読していた[2]。1948年、手塚治虫の諸作品に影響され[3]SF冒険漫画『奇怪星團』を描き上げる。原稿を出版社に持ち込み「青雅社」から13歳で貸本漫画デビュー(最年少記録)。病気で職を失った父の代わりに家計を助けるも苦しい生活状況の中で”死”について考えたりする。高校進学がかなわず、中学3年生で単身横浜に越し「少年画報」などで雑誌の漫画を手がけるようになる[4]。
中学卒業後、不安定な漫画の仕事に専念する気になれず、横浜合同通信社という広告代理店に入社し図案部に所属。新聞広告や電車の中吊り広告のイラストを描く。会社で飲酒を覚え精神状態が悪化する。1952年、睡眠薬を飲みナイフで腹を刺し自殺を試みるが未遂に終わる。回復後、睡眠薬の量を2倍に増やし再び自殺を試みるがナイフを使う前に意識不明となり入院。その後、自宅で静養する。精神状態が安定し仕事に復帰する。[4]
同1952年からペン画による絵物語作品を描き始める。中学生の頃からの漫画仲間だった女性と19歳で結婚。1955年、生活安定のため集英社に絵物語を持ち込む。「おもしろブック」編集長に認められ連載を獲得する。[4]横浜合同通信社を退社。1956年、手塚治虫から鉄腕アトムの代筆を依頼される。絵物語の自由度に限界を感じ漫画の世界に戻る[5]。手塚治虫の模倣から始まった絵柄と絵物語の絵柄、さらにアメコミの影響[4]が加わり独自の画風が確立され始める。
1957年、「少年画報」にて『まぼろし探偵』の連載を開始、これが人気作となり、1958年、テレビドラマ『月光仮面』のコミカライズを任される。『月光仮面』はドラマと漫画の双方が大ヒットし劇場映画も作られた。掲載誌の「少年倶楽部」は部数を3倍に伸ばしたと言われる。[6] 翌1959年、『まぼろし探偵』もラジオドラマ化、テレビドラマ化、劇場映画化され、同様に大ヒットを記録した[7]。『Xマン』などマスクヒーローのバリエーション作品を多数執筆。劇画を意識し始め堀江卓や白土三平の作品を参考に手塚系の絵柄からの脱却を図る[3]。
1960年、仕事と夜遊びに明け暮れる桑田の元から妻が去り、再び自殺を考えるようになる。ある時、衝動的に胸にナイフを突き刺したが、心臓には届かず肺に刺さり意識不明となって病院に運ばれ一命を取り留める。ナイフでの自殺を諦め拳銃自殺を考える。中国出身の女性と知り合い中国人ルートで拳銃を入手する[4]。『まぼろし探偵』と『月光仮面』のブームは収束しつつあったが多忙は変わらず、同1960年、高垣眸の時代小説『まぼろし城』のコミカライズ、1961年、SFアクション『ガロロQ』などを手がけ、1962年、真樹日佐夫原作の『軍用犬ヤマト』で週刊漫画誌に進出。仕事に没頭している間は死ぬことを忘れられると自覚し、ひたすら漫画を描く[4]。
1963年より「週刊少年マガジン」で平井和正原作『8マン』の連載を開始。本作はテレビアニメ化されるや否や視聴率が常時30%を超える人気番組となり[8]、多くの関連商品も発売され、桑田の代表作となった。他に『キングロボ』など複数の週刊連載を抱え、遊ぶ暇はおろか睡眠時間もろくに確保出来ぬ生活となる。しかし、1965年に前述の拳銃所持が密告により発覚[4]。銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)違反で逮捕され、『8マン』ほか全ての連載が打ち切りとなった[7]。
桑田はこの事件により自分は漫画家として息の根を止められたと思ったとのことだが、出版社や原作者は唯一無二の描線を紡ぎ出す桑田の復帰に協力的だった[4]。事件の半年後には平井和正原作『エリート』『超犬リープ』の連載を開始、その後も川内康範原作の『黄色い手袋X』、『バットマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』のコミカライズ、平井和正原作の『デスハンター』などを連載、さらに数多くのオリジナルSF中短編を発表した。この時期、拳銃を預けて迷惑をかけた女性に責任を感じ結婚するが、後に離婚している[4][9]。
1971年頃から人気に翳りが見え始め、執筆量が減少。幼年誌や学年誌などに活動の場を広げるが状況は好転せず。画力は更に向上していったが、計算と技術が先行し作品に熱中出来なくなってしまった自分に気付く[10]。1977年、梶原一騎原作『ゴッド・アーム』の連載終了後、42歳の厄年を境に少年漫画の仕事から身を引き、またもや死を考える日々となる。さらに生命そのものの意味に思いを巡らす[4]。
ある日、綾瀬川の土手で夜明けを迎え黄金色に輝く太陽を目撃し、あまりの美しさに”神”の存在を確信する。以来、毎朝毎夕同じ土手に通い詰め、そこで瞑想することを日課とする。瞑想の中で「見えない次元の存在」から啓示的な「メッセージ」を受け取るなど神秘体験を繰り返す[11][12]。「メッセージ」の意味を求めて宗教書を読み漁り、般若心経に辿り着き一連の体験を含め漫画化することを思い立つ。[4]しかしそれはすぐには作品として結実せず、海外小説や源氏物語のコミカライズ、オカルト世界の紹介漫画、イラスト、挿絵の仕事などで食い繋ぐ。いずれ自分は自殺するものだと決め込んでいたので過去の作品で得た金は使い果たしてしまっていた[13]。
1985年、経済的に困窮する中で『マンガエッセイでつづる 般若心経』第1巻を描き上げる。この作品は般若心経のサンスクリット原文にまで立ち戻り、一字一句の原意を詳細に解説[14]しつつ、精神世界にリンクする独自解釈を加え、更に無数のボケとツッコミを交えたコミカルなで雰囲気でまとめる、という当時としては前代未聞のコンセプト[15]で、桑田自身もどのような評価を受けるのか想像出来なかったが「売れなかったら餓死すればいいだけ」と覚悟を決める[16]。同1985年、けいせい出版より『般若心経』が発売されると、これが爆発的に売れ版を重ねた[6]。桑田は自分の存在意義を見出し、遂に自殺願望から解放されたと言う[17]。その後も観音経や日月神示などを題材として、20年以上に渡り宗教と精神世界を絡めた「マンガエッセイ」を描き続けた。また、1991年から1994年にかけて宮本武蔵(をモデルとした人物)が宗教的に覚醒していく漫画作品『ムサシ 五輪の書より』を完成させた。
1989年、リム出版から復刻された『8マン』のコミックスが50万部以上の売上を記録。[18]これ以後、桑田次郎作品の再評価が進み、1990年~2000年代にアップルBOXクリエートから50冊以上の作品集、2000年~2010年代にマンガショップから90冊以上の作品集が刊行された。2004年、『8マン』のエピソード「決闘」のリメイクとなる「『血闘』完全編」を単行本のために描き下ろす[19]。これが生涯最後の漫画作品となった。
1980年代後半に東京都内から茨城県鹿島郡大洋村(現茨城県鉾田市)に居を移し平穏な晩年を過ごした。[6][16]2020年7月2日、老衰のため逝去[1][20]。享年85歳。
(特記無きものは漫画作品)
(特記無きものは漫画エッセイの描きおろし単行本)
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