楠瀬 幸彦(くすのせ ゆきひこ、旧字体:楠瀨幸彥、1858年4月28日(安政5年3月15日) - 1927年(昭和2年)10月13日)は、日本陸軍の軍人、陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。
東京海南私塾、陸軍幼年学校を経て、1880年12月、陸軍士官学校(旧3期)を卒業。
フランス留学、陸士教官、近衛砲兵連隊中隊長、参謀本部第1局員、参謀本部副官、ロシア公使館付などを歴任。
1894年11月、臨時京城公使館付(韓国政府軍部顧問)となり、三浦梧楼公使らと共に、1895年10月8日に発生した閔妃暗殺事件(乙未事変)に係わったとして、同年10月から翌年1月まで入獄したが、1896年1月14日、第5師管軍法会議において無罪判決を受け釈放された[1]。
台湾総督府参謀、西部都督部参謀長、第12師団参謀長を経て、1901年6月26日、陸軍少将に進級[2]。
第4軍創設時に砲兵部長となり、奉天会戦では満州軍重砲隊司令官として参戦した。
由良要塞司令官、樺太守備隊司令官、初代樺太庁長官などを経て、1907年11月、陸軍中将に進み、第1師団司令部付、由良要塞司令官、技術審査部長を歴任。
1913年6月、第1次山本内閣の軍部大臣現役武官制改正問題で騒動に責任をとって辞任した木越安綱の後を受け、ごぼう抜き人事で陸軍大臣に就任した。
翌年4月に大臣を辞任し待命となり、1915年4月16日に休職した[3]。
1917年4月16日に予備役に編入され[4]、現役を退いた。墓所は多磨霊園。
公職 | ||
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先代 木越安綱 |
陸軍大臣 第22代:1913 - 1914 |
次代 岡市之助 |