しべちゃちょう ![]() 標茶町 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
| |||||
国 |
![]() | ||||
地方 | 北海道地方 | ||||
都道府県 | 北海道(釧路総合振興局) | ||||
郡 | 川上郡 | ||||
市町村コード | 01664-1 | ||||
法人番号 | 4000020016641 | ||||
面積 |
1,099.37km2 | ||||
総人口 |
6,837人 [編集] (住民基本台帳人口、2025年1月31日) | ||||
人口密度 | 6.22人/km2 | ||||
隣接自治体 | 釧路郡釧路町、阿寒郡鶴居村、川上郡弟子屈町、厚岸郡厚岸町、標津郡中標津町、野付郡別海町 | ||||
町の木 | ナラ | ||||
町の花 | コスモス | ||||
標茶町役場 | |||||
町長 | 佐藤吉彦 | ||||
所在地 |
〒088-2312 北海道川上郡標茶町川上4丁目2番地 北緯43度18分12秒 東経144度36分02秒 / 北緯43.30331度 東経144.60064度座標: 北緯43度18分12秒 東経144度36分02秒 / 北緯43.30331度 東経144.60064度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
標茶町(しべちゃちょう)は、北海道釧路総合振興局管内の川上郡にある町。主に富山県、長野県からの満蒙開拓団(弥栄開拓団)の引揚者が戦後多数移住した。
現市街が設けられている地点のアイヌ語名、「シペッチャ(si-pet-cha)」(大・川・岸)が由来である。この由来についてアイヌ語研究者の山田秀三は、当地はアイヌ時代より現在の釧路と標津・斜里を結ぶ交通の要衝であり、標津や斜里から山越えをして初めて釧路川の大川端に出る地点であるためこの名称が付いたのではないか、と解釈している[2]。
釧路総合振興局のほぼ中央に位置する。距離は釧路市中心部から北東に約40km。東は厚岸町、別海町、中標津町、西は鶴居村、南は釧路町、北は弟子屈町と接する[3]。町の面積は1,099.56 km2。日本全国の町村では、6番目に広い。
町を南北に釧路川が流れ、川に沿って釧網本線、国道391号などの交通網が走る。
南部には釧路湿原を有する。釧路湿原の総面積18,290haのうち標茶町が占める面積は11,993haで全体の約65%にあたり、四市町村中最も多い。
町の境界線を北西を上にして見ると羊のように見えるとされている。
春から初夏にかけては冷涼だが、夏には日照時間は短いながら最高気温が30℃に達することもある[3]。秋は比較的晴天が多いが、晩秋には早朝の冷え込みが厳しくなる[3]。冬季は-25℃前後の気温が観測されることが珍しくなく、寒さが厳しい。
標茶町 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
雨温図(説明) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
標茶(1991年 - 2020年)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 7.8 (46) |
12.4 (54.3) |
17.0 (62.6) |
27.5 (81.5) |
32.8 (91) |
32.7 (90.9) |
34.4 (93.9) |
35.1 (95.2) |
31.7 (89.1) |
25.7 (78.3) |
21.0 (69.8) |
14.1 (57.4) |
35.1 (95.2) |
平均最高気温 °C (°F) | −1.4 (29.5) |
−0.9 (30.4) |
3.2 (37.8) |
9.8 (49.6) |
15.6 (60.1) |
18.8 (65.8) |
22.0 (71.6) |
23.5 (74.3) |
20.8 (69.4) |
15.5 (59.9) |
8.5 (47.3) |
1.3 (34.3) |
11.4 (52.5) |
日平均気温 °C (°F) | −7.9 (17.8) |
−7.1 (19.2) |
−2.1 (28.2) |
3.6 (38.5) |
9.0 (48.2) |
13.0 (55.4) |
16.9 (62.4) |
18.4 (65.1) |
15.3 (59.5) |
8.9 (48) |
2.0 (35.6) |
−5.2 (22.6) |
5.4 (41.7) |
平均最低気温 °C (°F) | −15.2 (4.6) |
−14.7 (5.5) |
−8.1 (17.4) |
−2.3 (27.9) |
3.1 (37.6) |
8.4 (47.1) |
13.0 (55.4) |
14.6 (58.3) |
10.2 (50.4) |
2.3 (36.1) |
−4.4 (24.1) |
−12.1 (10.2) |
−0.4 (31.3) |
最低気温記録 °C (°F) | −29.5 (−21.1) |
−29.4 (−20.9) |
−24.3 (−11.7) |
−14.6 (5.7) |
−7.1 (19.2) |
−2.8 (27) |
2.6 (36.7) |
3.5 (38.3) |
−1.7 (28.9) |
−8.3 (17.1) |
−16.2 (2.8) |
−26.0 (−14.8) |
−29.5 (−21.1) |
降水量 mm (inch) | 35.4 (1.394) |
22.8 (0.898) |
49.3 (1.941) |
76.3 (3.004) |
105.7 (4.161) |
97.2 (3.827) |
119.1 (4.689) |
158.8 (6.252) |
152.9 (6.02) |
111.0 (4.37) |
70.7 (2.783) |
56.0 (2.205) |
1,054.9 (41.531) |
降雪量 cm (inch) | 86 (33.9) |
70 (27.6) |
73 (28.7) |
31 (12.2) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
0 (0) |
8 (3.1) |
69 (27.2) |
338 (133.1) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 5.8 | 5.1 | 7.4 | 9.4 | 10.7 | 9.9 | 11.2 | 11.8 | 11.7 | 9.7 | 8.5 | 7.2 | 106.6 |
平均月間日照時間 | 149.8 | 152.3 | 171.6 | 160.2 | 161.4 | 131.4 | 108.4 | 112.3 | 128.7 | 152.4 | 145.5 | 145.1 | 1,719 |
出典1:Japan Meteorological Agency | |||||||||||||
出典2:気象庁[4] |
金子遺跡や二ツ山遺跡、茅沼遺跡をはじめ、先史時代の遺跡が200以上確認されており、古くより人が暮らしていたことが分かっており、その子孫が現在のアイヌ民族と考えられる。
江戸時代には、トウロ(塘路)やニシベツ(虹別)などにアイヌが集落を形成して暮らしていたことが松浦武四郎などの記録に残されている。
1885年に網走刑務所の前身である釧路集治監が開設された。郡役場や戸長役場、日本銀行の出張所も設置され、一時期は釧路に匹敵する規模の町となった。服役する囚人は最盛期で2000人近くに上り、釧路-網走間の道路の建設、釧路鉄道の建設、川湯のアトサヌプリ(硫黄山)での硫黄の採掘などの役にあたった。
1887年には硫黄山の硫黄の輸送のため、標茶-硫黄山間に北海道で二番目の鉄道が建設された。硫黄は標茶で積み替え、釧路までは水運で運ばれたが、乱掘のため資源が枯渇し、採掘は9年足らずで廃止された。
1901年に釧路集治監は廃止され、機能は網走分監に移される。1903年の弟子屈村の分離も重なり、人口が激減するが、1908年に軍馬補充部が集治監跡地へ設置されたことにより、再び町は活気にあふれた。軍馬補充部は1945年に廃止、敷地の一部と建物は戦後まもなく開校した標茶高校に、残りの敷地は農地等に転用された。標茶高校の敷地が広いのは、これらの歴史的経緯のためである。
主要産業は酪農。農家の戸数は年々減少しているが、逆に乳牛の頭数は増大、大規模化が進んでいる。標茶町で酪農が開始されたのは昭和に入ってからで数戸の酪農家が生乳をバター、クリーム等に加工して釧路で販売していた。昭和9年頃から各地で集乳所が建てられ、本格的に酪農が行われるようになった。
近年は南部の塘路湖を中心とした観光開発が進み、釧網本線のトロッコ列車「くしろ湿原ノロッコ号」が釧路駅 - 塘路駅間にて運転されている。塘路湖ではカヌー体験などが可能。冬季はSL冬の湿原号が釧路駅 - 標茶駅間にて運転されている。
標茶(市街地)、磯分内、厚生、多和、栄、ルルラン、南標茶、五十石、沼幌、虹別、阿歴内、塘路、久著呂、オソベツ、茶安別、茅沼
![]() | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
標茶町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 標茶町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 標茶町
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
標茶町(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
人口は1963年(昭和38年)の18,539人(住民基本台帳)をピークに減少が続く。
町内にある北海道標茶高等学校は日本一広い高校(大学を除けば日本一広い学校でもあり、大学も含めた単一キャンパスの広さでは日本で三番目)。敷地面積は255万平方メートル。釧路管内で初めて総合学科が設置された。
かつて町内に存在した鉄道
町内には各所で温泉が湧出し、日本有数の温泉湧出量を誇る。[8] 町民の憩いの場としても利用されているが、他地区の温泉と比べて特徴が無いためか、廃業した温泉も多い。